呆然としている間に、俺は舞台衣装らしい着物を着付けられ、頭には重いカツラを被らされていた。
「嘘だろ……おい」
 俺は馬鹿のようにこの言葉を繰り返している。
「梅若、もう大丈夫なのかい」
 今まで舞台に立っていた派手な着物の女形が駆け寄ってきた。
「お疲れ様です、藤若さん」
 俺に着付けをしていた男が手ぬぐいを差し出すところを見ると、こいつが梅若の代役をしていたという藤若か。俺よりも背は低いが、年は二つ三つ上のようだ。
「良かったよ。今日は松平の若殿様が来るっていうじゃあないか。私の芸では満足いただけないだろうからね。お前が間に合ってくれて良かった」
(いや、俺の芸はそれ以下だってば……)
 俺の頭の中には、怒り狂った殿様が俺を無礼討ちにする図が浮かんだ。

 だめだ。逃げよう。

 次第に震えてくる俺の耳に、わあっと華やかな歓声が聞こえた。
 ついビクリと舞台のほうを見ると、正面の高いところの席に華やかな一団が入ってきたところだった。
「あ、若殿様だよ」
 藤若の頬が紅潮した。
 左右に美女を従えて神々しいほどのオーラを放ちながら、ちょんまげ頭の若いお殿様が席についた。小姓や御家来衆とやらがその後ろを取り囲んで座る。酒や豪華な料理が次々運び込まれている。
 今この瞬間、舞台の上の役者以上に江戸庶民の視線を集めている松平のお殿様。
(あいつに、無礼討ちされるのか……)
 俺の意識はそこから離れない。
「さあ、梅若さん、出番ですよ」
 ひっ!
 突然ぽんと肩を叩かれた。とたん、身体がぐらりと倒れた。
(梅若っ、助けてくれよっ)
 心の中で叫んだその時、背筋にぞくりと寒気が走り、ゆっくりと顔を上げた俺は背筋を伸ばして立ち上がった。



 気がつくと舞台の上だった。
 そして俺は、八百屋お七になっていた。

 今まで見たことも無い振りや芝居をしているこれは、梅若の霊が憑いているから。
 何故なら、しつこいようだが、俺は東京音頭ですら踊れない男だ。
 歌舞伎役者として今この舞台に立っているのは、間違いなく梅若だ。


 気持ちがいい。

 踊りながら、唄いながら、解き放たれるような気持ちになるのはきっと梅若の気持ちが俺に通じているんだな。

 梅若――お前、もう一度舞台に立ちたかったんだな―――




「いやあ、良かったよ、梅若」
 楽屋裏に戻ると座長が走り寄って来た。俺の頭を抱え込むようにぐりぐり撫でまわして
「今までで最高に良かった。長く休んでいたから心配したけど、本当に良かったよ」
 涙ぐんでいる。
 裏方の人たちも口々に「よかった」を繰り返しているので、俺はちょっとくすぐったい気持ちになった。
(梅若……ありがとうな)
 心の中でそっと呼びかけると
『私こそ、お礼申し上げます。また……お願いしますね……』
 頭の中で声がした――ような気がした。
「えっ?」
 俺は顔を上げた。
 きょろきょろと見回しても、当然梅若の姿は無い。けれど、俺の脳裏には艶やかに微笑む梅若の顔が浮かんでいる。


『また……お願いしますね』

 って、ことは―――これからずっと……なのか??




「若殿様がお茶席に梅若を呼んでるのだけれど……」
 座長は俺の顔色を窺い
「病みあがりだからと言って、ご遠慮させていただこうかねえ」
「あ、そうしてください。お願いします」
 なんだか、どっと疲れた。
 八百屋お七の衣装を解こうとしていたら、そこに国光が入ってきた。 こいつの顔も紅潮している。
「梅若、素晴らしかったよ」
「ああ、どうも……ありがとう、ございます」
 俺じゃないんだけど。まあ、礼くらい言っておこう。梅若に代わって。
 突然、国光が言った。
「今の梅若を描かせて欲しい」
「え?」
「最高に美しい、今の、梅若の八百屋お七を」
 俺の白く塗られた指をつかんで
「いけないだろうか?」
 国光が真剣な瞳で見つめる。俺は、無意識に喉をゴクリと鳴らした。
「い、いや……」
 国光の手を握り返して、俺は叫んだ。
「描いてくれっ!俺は、一日も早く、絵を完成させて欲しいんだっ」
「梅若っ」





* * *
 
 そして、着替えはせず、急ぎ化粧直しをして、俺は駕籠で国光の家に帰った。俺が寝かされていた家は、やはり国光の家だった。聞いた話だが、倒れていた俺を見つけたのも彼だ。
「疲れたろう、梅若。けれど、その疲れて潤んだ瞳もほつれたおくれ毛も、気狂いお七の妖艶さそのものだ。綺麗だよ」
「ああ」
 よくわからないが、さっさと頼むよ。
「素晴らしい梅若の《八百屋お七》が描けそうだよ」
 筆をとる国光の前で、俺は脇息に身体をもたせかけた。頭さえしっかり向いてくれれば身体は楽にしていいと言われたからだ。
 国光の目が俺をなぞる。静かな部屋に筆の走る音だけが聴こえる。視線をどこに置いていいか分からなかったので、国光の指先を見つめた。男性にしては細くて長い綺麗な指だ。
「顔を描くので、こっちを見てくれないか」
 国光の声に、視線を上げると、はっとするほど真摯な瞳とぶつかった。
 深い瞳が、俺を見透かすように見つめてくる。何故だか、身体がカッと熱くなった。
 じっと見つめられているうちに、なんだかおかしな気持ちになる。
 寝そべっている自分のこの姿も、何となくいかがわしくないか。
 こういうの、どこかで……と考えて、自分の思いつきに赤面した。

 タイタニック。

(ひー、あれとは違うだろ。大体、ありゃヌードだったしっ!)
 俺の動揺を見て取って、国光が筆を置いた。
「疲れた?」
「あ、いや……大丈夫だ」
「少し休もう」
 軽く片付けながら、国光が微笑む。何故だか俺は、顔が熱い。
 赤くなっているらしい俺の顔を覗き込んで、国光が額に手を伸ばした。
「熱が、出ているのかな」
「あっ」
 国光が額に触れた瞬間、俺の手は無意識にその腕を掴んでいた。
 国光が驚いたように、俺を見つめて、そして小さく微笑んだ。
「どうしたの、梅若」
「くに……」
「熱は、無いようだね……?」
 俺の腕をとって。ゆっくりと覆い被さってくる。
(な、何? 何が、起きているんだ)
 茫然と下になりながら、国光の唇が重なるのを感じた。
(俺、キスされてんのか?)
 国光の舌が俺の唇をなぞり、こじ開けて、歯列を割って入ってきた。
「ん…っ」
 生暖かい舌が口の中をかき回す感覚に震えが起きた。生まれて初めてのディープキスがなんで江戸時代の男となんだよ。
 そして、何で―――何で俺は抵抗しないんだ?
「んんっ……う」
 舌をきつく吸われて息苦しくなった。
 俺の苦しそうな表情(かお)に気付いたのか、国光は一度唇を離した。
「病みあがりだから、我慢しようと思ったけれど……」
 小さく囁く唇が俺の紅と唾液で赤く濡れていて、ひどくいかがわしい。
「無理だね」
 再び、俺の唇を塞ぐ。
「あっ、ん……」
 国光の手が着物の裾を割る。
「んんっ」
 恥ずかしさに身体を捩ると、その拍子にますます大きく裾がはだけた。国光の手が内股を擦りあげると、身体がピクッと跳ねる。
 口から喉へそして鎖骨へと唇をすべらせながら、国光はもう片方の手で、俺の着物の胸元を割る。指先が胸を弄る感覚に痺れが走った。
「やっ……あ」
「梅若……」
 かたく着付けられているお七の衣装に痺れを切らしてか、国光はいったん身体を起こすと、両手で着物の胸をはだけて、肩から下へとすべり落とした。
「あっ」
 帯がついたままなので、それで俺の両手がいましめられた格好になる。
 上半身がむき出され下半身がはだけられたこの姿は、自分でも目眩がしそうなほどいやらしかった。信じられないことに、自分のこの姿に欲情して俺自身が反応している。
「あ、いや……だ……」
 怯えた瞳で見上げると、国光はこれ以上無いほど優しく微笑んで、そっと指を伸ばした。
 俺の胸の突起に触れる。
「ああっ」
 背中を痺れが走った。
(これは……梅若?)
 さっきの舞台での背筋を走った寒気とは違う。けれども、たぶん
(梅若が……)
「ああっ、やぁっ、あン」
 国光の指や舌が動く度に、自分のものとは思えない声が喉をつく。
 だから、これは、自分じゃない。
 きっと、俺の身体に、梅若がまた乗り移っているんだ。
(助けて……梅若……)
 痺れるような快感に、だんだん何も考えられなくなる。
 後ろに回されて自由にならない両手が余計に俺を煽る。
 身を捩り、涙を流して、俺は緩んだ襟から両腕を引き抜いた。
 俺のモノを国光が咥え込んだのが紅い襦袢の間に見えたとき、俺は自ら国光の頭を掴んで、内股を震わせていた。
(俺じゃ……ない……俺じゃない……)
 そう心で叫びながらも、この快感は間違いなく俺自身が感じていた。





* * *

 そうして全てが終わった時、俺は泥のように疲れ果てていた。
 けれども、全部覚えている。
 あれから後ろに薬のようなものを塗りこまれて、国光のアレを咥え込んだことも、その痛みが次第に妖しい疼きに変わったことも―――そして、俺はあろうことか、何度も自ら求めていたのだ。
「俺じゃ、ないよな……」
 ポツリと口に出して言ってみる。
 あれは梅若の霊がとり憑いていたのだと、誰かそう言ってくれ。
「何か言ったかい? 梅若」
 ひどく機嫌の良さそうな国光が、食事の支度をして部屋に入ってきた。
 そう、もう朝なのだ。あれから、俺たち、一晩中……。
 恥ずかしくて顔が上げられない。
「起き上がれるかい」
 朝餉の膳を下に置いて、俺の身体をゆっくりと起こしてくれる。
 俺は、下を向いたまま。
 その俺の顔に細く綺麗な指を伸ばして、国光が言った。
「昨日は……無理をして、すまなかったね」

 カアアッ……その話はするなよ。あれは俺じゃねえんだからな。

「でも、嬉しかったよ、梅若」
「え?」
 俺は、そっと顔を上げた。
「お前が、あんな風に私を求めてくれたのは初めてだったからね」
 いいっ?
「言葉も、態度も変わってしまったけれど、私は今の梅若の方が好きだ」
 国光が照れたように笑った。
 ち、ちょっと、待ってくれ。
「それじゃ……」
 それじゃ、昨日の狂態は……まんま俺かよ?
「ん?どうした?」
「い、いや……」
 がっくりと肩を落とした俺に、国光はお粥のようなものをふうふう吹いて食べさせてくれた。
 餌を貰うツバメの子のように口をあけながら、俺は早く元の世界に帰らないと、とんでもないことになりそうな予感を感じていた。



「今日は、休ませて貰うように中村座さんに言っておいたからね」
「いいのか?」
「昨日の舞台で、精魂使ってしまったと言ったら、分かってくれたよ」
 本当は違う理由だけどね、と含み笑いの国光を上目遣いで睨んで、俺は思い出したように言った。
「そういえば、絵は?」
「え?」
「お七の絵は、どこまで描けたんだ?」
「梅若」
 国光は、俺をぎゅむっと抱きしめた。
「いつもいつも、私のことばかり心配してくれるんだね」
「いや……」
(そうじゃねえんだけど、一日も早く完成させてくれないと……)
「昨日ずい分描けたから、そうだね、今月中には彫りにまわせるんじゃないかな」
「今月、って、そんなに……」
 よく分からないけど、この頃の絵って、下絵を書く人とそれを版画にする人は別なんだよな。それが印刷されて出来上がるのって、一体どれくらい先なんだろう。
「あのさ」
「うん?」
「全部出来上がるのって、いつ頃になる?」
「全部って、いまやっている梅若の役者絵?」
「ああ」
「うーん、何年かかるかねぇ」
「ひっ?」
「何しろまだ、梅若の弁天小僧と八百屋お七しか出来てないからねぇ、それも下絵だし」
「い、いくつ、つくるんだ?」
「百種だから、百に決まっているだろう? 最初にそう話しているじゃないか」
「百?」
 そういえば、富山城の展示場にも『梅若百種』って掲示されていた気がする。
 百! 百! 百!
「俺は、いつまで……ここに居ることになるんだ……」
「ん? 何か言ったかい?梅若」

『約束ですよ……由紀夫殿』
 妖しく微笑んだ梅若の顔が脳裏に甦る。
(あのやろーっ!騙したなあっ)







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