その日も、僕は榊原に呼ばれていた。 もうすぐ三学期の中間試験だ。中間といっても、三学期の期末試験は卒業式だ何だで毎年ほとんど蔑ろにされているし、気合を入れなきゃいけないのは今回のほう。榊原は今回も、自分の担当の数学と、あと先生同士仲の良い世界史と生物あたりの試験問題は横流ししてくれそうだけど、正直、気が進まなかった。 今さら何を、と言われそうだけど……。 実は今日の朝、通学途中で偶然東條と一緒になって、 「放課後、うちに来て一緒に中間の勉強しないか」 と、誘われた。 「お前、英語と数学、完璧だもんな。教えてくれよ」 教えてくれって? 前回の試験でトップを取った男に、何を教えるっていうんだ。 確かに僕は英語だけは昔から得意だけど、数学は榊原から事前に答えを貰ってるんだよ。 僕が気まずげにうつむくと、東條は少しだけうろたえた。 「いや、ダメならいいんだ。お前の都合もあるだろうし」 都合。確かに、今日は都合が悪かった。榊原とヤル日だから。 僕は、気まずさと後ろめたさと、自己嫌悪で吐きそうになりながら小さく応えた。 「今日は、ダメだ。早く帰らないといけないから」 「そっか、じゃ、また、今度な」 東條は、あっさりそう言った。 本当は、行きたかった。 榊原とあんなことするよりも、東條の家に行って、二人であのコタツに並んでヤマをかけ合いながら勉強できたら、どんなに楽しいだろう。 でも―――――――。 僕は、榊原と待ち合わせた視聴覚教室に重い足取りで向かった。 「玲於奈、寒くない?」 「んっ」 僕のシャツを全部はだけて、榊原の手が胸を弄る。 僕はいつものように目を閉じて、記憶の中の東條とすり替える。 ごめん、榊原。 ごめんね。東條。 ああ、でも、東條だと思うと、現金なことにすぐに身体が熱くなる。 「んっ、ああっ」 胸の突起に口づけられて、ビクリと身体が仰け反る。 唇で挟まれて、舌先で押しつぶされると、ゾクゾクとした痺れが走って、爪先まで震える。 あいている片方の突起も、指の先で押しつぶされて、僕は快感につま先を丸めて、ぎゅっと瞼を閉じた。 (東條、東條っ) 「ん、ふ…っ」 闇の中に浮かぶ東條の男らしく端正な顔。僕を抱いて、切なげに眉根を寄せる。 東條の手が、僕のズボンのジッパーをおろして、やんわりと僕自身を包み込む。 「ああっ、やあっ、ん」 僕は、自分から脱がせ易いように腰をあげた。 その時、突然、物凄い音がして、ドアが蹴り倒された。 「なっ?!」 僕の上に覆い被さっていた榊原が、驚いてドアを振り向く。 僕は心臓が止まりそうなショックに、声も出なかった。 (東條?!) 「何、してんだよっ!」 物凄い顔をした東條が僕たちのところに駆け寄ると、榊原を僕から引き剥がして、殴りつけた。 「てめえ、教師のくせしてっ」 怒りに青白くなった東條が、榊原を何度も殴る。 うずくまった榊原の脇腹を激しく蹴りつける。 僕は、目の前のことが信じられず、呆然としていた。 けれど、榊原の血だらけの顔が目に入った瞬間、我に返った。 (榊原が、死んでしまう) 「やっ、やめて」 僕は叫んで、東條の脚にすがり付いた。 東條が、青ざめた顔で僕を見る。 「やめ、て……東條……無理やり、じゃ、ないんだ……」 僕は震える声で訴えた。 合意の上なんだよ――――――――。 東條は、初め意味が分からないように僕を見返し、ゆっくり僕の裸の胸に視線を落とすと、突然、青かった顔に血を上らせて、踵を返した。 僕は、去って行く東條の背中を見つめて、ただ放心したようにそこに座り込んでいた。 「うっ、うう……」 呻き声にはっとして見ると、榊原の顔はどす黒くなって晴れ上がっていた。 「先生、大丈夫?」 僕がにじり寄ると、榊原は、シャツで自分の血だらけの顔を押さえて言った。 「玲於奈は、帰りなさい」 「でも」 このままじゃ……。 榊原の様子にさすがに胸が痛んだ。 (僕のせいだ―――――) 「いいから」 榊原は、片手で顔を押さえたまま、僕の肩を突き離すように押して言った。 「僕は大丈夫だから、早く、玲於奈は帰りなさい」 何故あそこに東條が入ってきたんだろう? 身支度を整えて、すっかり真っ暗になってしまった廊下を歩きながら、取り留めなく考えていた。 榊原、大丈夫かな。 あれじゃ、明日、学校、来れないよね。 東條は、どう思っただろう。 東條は、このことを誰かに話すかしら。 どうして、東條は、あそこに来たのかな。 東條、僕のこと……どう思った? 誰もいないはずの下駄箱に、人の影があった。 「東條……」 口の中で呟いた。 東條は、ひどく真面目な顔で僕をじっと見つめる。 端正な顔。真っ直ぐな瞳。瞳には、侮蔑も憐憫も浮かんでいない。 けれど、何を考えているのかも、今の僕には読み取れない。 やめてくれ、そんな目で見るのは。 それでも、僕のほうから目をそらすこともかなわず、じっと見つめ合う。 「よく、あるのか」 言葉の意味が分からず、僕はゆっくり首をかしげる。 東條の顔が、苦しそうに歪んだ。 「しょっちゅう、やってるのか、あんなこと」 ああ、あんなこと、ね。 「そうだね」 僕は応えた。なんだか、他人の声のようだ。 「榊原のこと……好きなのか?」 搾り出すような声で東條が言った。 好き? 東條に、そんなこと聞かれるなんて。 (東條に―――) 「好き、じゃない」 僕が、好きなのは。 僕が心から好きなのは―――――――。 「好きじゃない?」 念を押すように、東條が訊いた。 「好きじゃない」 僕も、はっきり応えた。 僕が好きなのは、君だけだよ。東條。 ふっ、と東條が笑った気がした。 「最低だな」 小さく呟いた東條の声を、僕は聞き逃せなかった。 心臓が破裂したように痛んだ。 「そうだよ、最低だよっ」 堰を切ったように、言葉が喉をついて溢れた。 「僕は、最低だ。君なんかが口をきくのも汚らわしいくらい。きたなくて、エロくて、よごれてるよ。しょうがないだろ、こうなっちゃったんだから。十四のときから男に抱かれてヒイヒイいってんだよ。しょうがないよ、そうなっちゃったんだからっ。僕は、やらしくて汚い、最低な奴だよっ」 止まらない。 こういうの、なんて言うの? 自虐的? 露悪的? とにかく、最低だといわれた僕は、そのことを言葉で自覚したかったらしい。 「好きじゃなくたって抱かれるよ。気持ちいいから。優しくしてもらえて、いいこと色々してもらえるから」 頬に熱いものが流れる感覚。 ああ、泣いているんだ。 「君みたいに、僕は―――きれいじゃないから」 涙に霞む僕の目に、東條の顔が、ひどく驚いたように歪んで映る。 軽蔑してる? 「僕は、僕は……」 もうダメだ。 「天使なんかじゃない」 吐き捨てるように言って、駆け出した。 僕は、天使なんかじゃない―――――――― 本当は、天使になりたかった。東條の前だけでも。 でも、もう終わりだ。 * * * 翌日から榊原は学校を休んだ。あの怪我の具合では長期になると思った通り、三学期中の復帰は難しいそうだ。 「なんか、暴漢に襲われたらしいぞ」 「いや、俺は事故だって聞いたぞ」 みんなそれぞれ勝手な噂をしている。本当のことを知っているのは、僕たちだけだ。 東條は、あのことを誰にも言うつもりはないらしい。 それは、自分の暴力を隠しているのではなく、僕を守ってくれているのだと思う。 そう思いたかった。 けれども、その東條は、あれ以来僕を避けている。 いや、僕も彼を避けているのだから、どっちがどうという事ではない。 たまに、東條の視線を感じることがある。けれども僕と目が合うと、ふっと目をそらしてしまう。 その度に、僕は東條に言われた『最低だ』という言葉がよみがえって、胸がひどく痛んだ。 元気の無い僕に、松田や遠藤、渡邉、松平……みんな気を使ってくれたが、正直、何もかもうっとうしくて、煩わしかった。 東條に嫌われてしまった――いや、嫌われただけならまだマシだ――最低な奴だと侮蔑されてしまったという事実は、僕にとって、生きている意味も失いそうになるほど辛かった。 かといって、自殺する勇気も無い。 それに、僕は死にたくはなかった。 死んだら、東條と二度と会えない。 軽蔑されても、どう思われても、僕はまだ東條が好きだった。 「おい、中間の結果、もう出てるぞ」 二時間目と三時間目の間の休み時間に、廊下から声がした。 教室がざわめいた。 「玲於奈、見に行くか?」 松田が声をかけてくる。僕は席に付いたまま返事した。 「いい、行かない。松田君、見ておいでよ」 見なくてもわかってる、酷い成績なのは。 前もって問題を教えてもらうこともなく、それ以前に勉強なんか全然手につかなくて、何にもやってなかったんだから。 「玲於奈、どうしたんだよ。ほんとにおかしいよ、最近」 松田が、心配そうに顔を覗き込んでくる。 そこに、坂咲の甲高い声が響いた。 「高原君、見に行かないんだ」 顔をあげると、既に掲示を見て来たらしい坂咲が、勝ち誇ったような顔で近づいてくる。 「そうだよね。見たくないよねえ。いつもあんなに頑張ってたのに、今回は、四十何番じゃねえ」 「え?」 松田が驚いている。 四十何番? そんなものか。あれだけ出来なかったのに。僕の下の二百人はよっぽど馬鹿なんだな。 そんなことをぼんやり考えていた僕は、坂咲の不意打ちの言葉にビクリとした。 「やっぱり、榊原先生が休んでるから?」 「何、言ってんだよ、坂咲」 松田が剣呑な顔をして僕を守るように立つ。咲坂はニヤニヤしながら言う。 「だって、榊原先生と高原君、前から、なんだか仲いい感じだったしぃ」 坂咲のわざとらしい作り声。 「先生いなくて、勉強できなぁい。なぁんて……」 「やめろっ!」 険しい声に、ビクッと坂咲が固まる。 僕も驚いた。振り向くと、東條が恐ろしいほどの顔で坂咲を睨んでいた。 「やめろ。坂咲」 暗く低い声で東條が繰り返した。教室が水を打ったように静まりかえる。 僕は、心臓がドキドキと激しく打って、ガンガンと耳鳴りがした。 おそるおそる東條の顔を見つめる。 僕と目を合わせた東條は、一瞬途惑うような表情を覗かせたが、そのまま足早に教室を出て行った。 だれも、後を追えない。 (どうしよう) 今のは、僕を庇ってくれたんだろうか? それは、自分にとって都合の良い思い込みのような気がする。 でも、でも、東條――――――。 心臓が苦しい。 三時間目の予鈴がなった。 それと同時に、僕は立ち上がって、教室を飛び出した。 (東條、東條っ) 東條の姿を探す。 校舎の中で、一人になれるような場所はそうそう無い。 僕は、何故か、そういう所に東條はいると思った。 北校舎の屋上。寒いこの時期にわざわざ行く奴はいない。 階段を上って鉄の扉を開けると、懐かしくて愛しい広い背中が見えた。 「東條」 声をかけながら駆け寄ると、驚いたように振り向いた。 「高原……」 名前を呼んでくれた。 懐かしい声。低くて、ちょっとハスキーで、僕の心に染みる声。 「東條……」 我慢できなかった。 嫌われていても、軽蔑されていても、どうしても伝えたい気持ちがあった。 「東條が、好きだ」 震える唇でそう言うと、東條は酷く驚いた顔をして、僕を見返した。そして、掠れた声で言った。 「俺は、男、抱けない」 心臓に、冷水を浴びたように感じた。 「だ、よね……」 僕は、踵を返した。 「ごめん」 そう叫んで。 気持ち悪い思いをさせてごめん。 でも、告白したことに後悔は無い。 涙は出るけど、胸はこんなに痛むけど、伝えたことに後悔は無い。 鉄の扉のところで、東條に腕をつかまれた。 「待てよ。玲於奈」 「やっ、はなし、て」 涙でぐちゃぐちゃになった顔を左右に振って暴れると、両腕を押さえられた。 「待てって、話を最後まで聞いてくれ」 切羽詰ったような東條の声に、一瞬、抵抗を止めると、そのまま後ろから抱きしめられた。 「と、う、じょ……?」 「玲於奈」 東條が苦しそうに囁く。 (何で?) 「俺は、男を抱いた事無いから……」 僕の身体がビクッと震える。それを東條がぎゅっと抱きしめてくれた。 「だから、たぶん上手く抱けないし、お前が喜ぶこと、してやれないけど」 (何言ってんの?) 「俺も、お前が、好きだ」 (何……言ってんの……) * * * 呆然とコンクリートの上にへたり込んでいる僕を後ろから抱きしめて、東條がポツリポツリと話し始めた。 「あの日、お前、早く帰らないといけないって言ってたのに、あんな時間にいるから、気になって後をつけたんだ。様子もおかしかったし」 僕の髪に唇を付けるようにして囁く。 「そしたら、あの部屋に入って……変な感じがして……声も……。鍵かかっていて……」 東條の言葉に、あの日のことを思い出して、胸がふさがる。 「で、思い切ってドアを蹴破ったら、あんなことになってて、俺、最初、お前が襲われてるって思った」 ごめん。東條。 「でも、お前が、無理やりじゃないって言って……混乱した」 ごめん。東條。 また、涙が出てきた。 「お前を待っている間、考えたんだ。お前、あいつのこと、榊原のこと好きなのかって」 東條は、僕を抱く腕に力を込めた。 「そう思ったら、ひどく、辛かった……そして、考えた。本当は、好きじゃなかったら。好きじゃないけど、相手が教師だから断れないで、それで関係しているとしたら……そう思ったら、お前がひどく可哀相で、でも、俺としてはその方が良かった」 (東條?) 「だから、お前に尋ねて……お前があいつのこと好きじゃないって言った時、俺、ホッとしたんだ。そして、そんな自分が、最低だと思った。お前が、いやいや抱かれていた方がいいと思った自分が」 僕は、ゆっくり振り返って、東條を見上げた。 「最低だって……自分に言ったんだ」 東條の切ないほど真っ直ぐな瞳が、僕を見つめる。黒く、深く、僕の全てを吸い込んでくれるような深い深い瞳。 「東條……」 「でも、そのあと、お前から聞かされた話は、正直、ショックだった」 「……え?」 「十四の時からとか……気持ち良いからとか……」 かあっと、顔に血がのぼった。 確かに、自分でそんなこと言った。 ばかばかばかっ!! 羞恥心で顔を伏せる。 「俺は、その、そういう経験無いから……正直、お前、気持ち良くしてやるとか……自信無いし……」 ち、ちょっと、何、言ってんの???? 「だから、あれから、ずっと、悩んでた」 「東條っ」 僕は、思わず顔を上げた。 「何、言ってんだよっ。僕は、僕は、相手が東條だったら……」 あああ、僕も何を言ってんだ? 「キス一つでも、イッちゃうくらい感じる、よ……?」 ホント何言ってんだよ、自分っ。 「玲於奈」 東條の目が見開かれて、そして、優しく細められた。 僕は、ここに来て初めて、自分が名前で呼ばれているのに気が付いた。 「清隆……」 掠れる声で、名前を呼ぶと、ゆっくり唇がおりてきた。 「ん……」 清隆の唇が、そっと僕の唇を包み込む。そのキスは、確かに今までのどのキスよりも不器用でヘタクソだったけど、今までのどんなキスよりも、甘く、うっとりと、僕を酔わせた。 ふわふわと身体が軽くなる感じ。そう、背中に羽根が生えたような。 清隆のキス一つで、僕はいつでも天使になれる。 そんな、キスだった―――――。 |