帰る時間になって、東條はバス停まで送ると言ってきた。
「いいよ。道はわかるから」
「道はわかっても、途中、暗い所だってあるし。いいだろ。送りたいんだよ」
 東條はさっと靴を履いて、玄関を出てきた。
 暗いところ、って僕が襲われやしないかとか心配してるのかな。
 バス停まで十分ほどの道を並んでテクテク歩いた。
「お前さ、学校では、笑わないのな」
 突然、東條が言う。僕は驚いて顔をあげた。
「え?」
「いや、笑っているんだけど……なんか、今日みたいには、笑わないだろ?」
 確かに、今日は本当に楽しくて、たくさん笑った気がする。
 いつもの僕の笑いは人に見せるためのもので、心の底から笑っているわけじゃない。
 僕がうつむくと、東條は慌てたように言葉をつないだ。
「ごめん、変なこと言ったなら、謝る。でも……」
 東條が立ち止まったので、僕も止まって、彼の顔を見上げた。
「俺、今日のお前のほうがいいと思うぜ」
 真っ直ぐ見つめられて、僕は心臓がドキンと鳴った。
「なんかさ、お前もっと大人しいか、すました奴だと思ってたんだけど……」
 東條がまた歩き出した。
 苦しい、心臓が。ドキドキと激しく早鐘のように打っている。
「ぼ、僕も……」
 何か言わないと、と言葉を探す。
「東條君って、もっとクールな人だと思ってた。ゲームとかだって、しなさそう」
 ははっと彼は笑った。
「ゲームは格闘系とシューティングばっかりだけど、そういうのは好きだ。そういや、お前の『戦国の野望』も意外だよな」
「そう?」
「うん。意外な顔が見れてよかった。今日は」
 うっ、そういうこと、平気な顔して言うなよ。
 苦しい、心臓。止まれ、心臓。いや、止まっちゃ駄目なんだけど。どうか、落ち着いてくれよ。
 バス停までの道が暗くてよかった。たぶん僕の顔は、いま真っ赤になっているはずだ。
 バス停の明かりが見えて、僕は気づかれないように深呼吸した。


「あ、直ぐ来るな。ちょうど良かった」
 東條が、腕時計と時刻表を見比べながら言う。
 いいタイミングで僕のうちの方面に行くバスが来た。
「じゃ」
 東條が、片手を挙げる。
「あ、今日は、ありがとう」
 目を見れず、そそくさとステップをあがって席につこうとしたら、突然、東條がバスに乗り込んで来た。
(な、なな、なんでっっ??!!!)
 昇降口に一番近い席に座った僕の前に来て
「よかったら、明日も来いよ。宿題、一緒にやろうぜ」
 早口でそう言って、
「すいません、降ります」
 運転手に叫んで、バスから飛び出していった。
 
 バスのドアが、ブシューと不機嫌そうな音を立てて閉まる。
 僕は呆気にとられてしばらくぼうっとしたが、慌てて窓から外を覗くと東條の広い背中が見えた。
『明日も来いよ』
 次第に顔に血が上ってくる。また心臓が苦しくなる。
 ――――こんな気持ちは、初めてだった。





* * *

 次の日、朝から落ち着かなかった。
 どうしよう。行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ。なんて、シェークスピアを真似てみても、実のところすっかり行くつもりにはなっている。
 でも、何時に行けばいいんだ?
 午前中からじゃ、すごく張り切っているみたいだし。午後だと、来ないと思って出かけられたりして。
 やっぱり、電話するべきかな。でも、電話番号知らない。
(聞いておけば良かった……)
 リビングのソファにぐったり沈む僕を母親が訝しげに見る。
「どうしたの、玲於奈? 具合悪いの?」
「ううん。大丈夫。ほっといて」
 チラリと時計を見上げたら、十時十分。よく時計屋にかかっている針の角度だ。

 その時、モーツァルトのアイネクライネナハトムジーク。うちの電話のベル音だ。
 母親が受話器を取り上げている。
「はい、はい、ええ、ちょっとお待ちください」
 受話器を保留にして、僕を呼んだ。
「玲於奈。お友達」
 お友達?
 一瞬、眉間にしわを寄せた。
「東條君っていう人」
 僕はソファからダッシュで電話のところに走った。
「もしもし」
「あ、高原、ごめんな。いきなり電話して」
 東條の低い声が、受話器を通じてもっと低く聴こえる。
「う、ううん」
「婆ちゃんが、昼来るんなら、飯、用意しておくっていうんだけど、どうする? 良かったら、うちで食わないか?」
「え……」
「ああ、でも、無理にとは言わないけど。そんな、ご馳走ってもんでもないし」
 笑いを含んだ声が、耳にダイレクトに伝わる。
「ううん。あの、行ってよければ……」
「じゃ、来いよ。何時になる? バス停まで迎えに行く」
 時間を告げると、あっという間に電話は切られた。
 僕としては、朝からの悩みが一つ消えたわけだけれど。
(なんで、僕の電話番号知っているんだ??)


「だって、クラスの連絡網、貰ってるだろ」
 東條のお婆ちゃんの作ってくれた高菜飯をかき込みながら、あっさりと東條は応えた。
「そんなの、あったっけ」
 僕は、今まで連絡を誰かにまわしたことなど無いから、すっかり忘れていた。
「俺、転校してきてすぐ貰ったぞ」
「そっか」
「高原、面白いな」
 山菜の天ぷらにかぶりつきながら、東條が笑う。ちょっと、見惚れるくらいいい顔だ。


 食事の後、冬休みの宿題を片付けながら、東條と色々な話をした。
 今までいた学校の話。転校した理由はご両親の離婚によること。この家はお母さんの実家で、今は、お祖父さんお祖母さんとお母さんの四人暮らし。お祖父さんとお母さんは働いていて、昼はお祖母さんしかいないこと。
「まあ、爺ちゃんの仕事っていうのは趣味みたいなもんだからな。ボケ防止っていうか」
「ふうん、うちはお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも一緒に住んでいないから、今日みたいなご飯、珍しくて美味しかったよ」
「そうか?」
 東條が嬉しそうに笑ったので、僕も嬉しくなった。つられて笑うと、東條がふっと黙って僕の顔を見た。
「お前、天使みたいだとか、よく言われるだろ」
「え…?」
「あ、ごめん、何か、また変なこと言ってるよな、俺」
 東條はうろたえたように、鉛筆を握り直して、問題集をばさばさと大袈裟にめくった。
「……気にすんなよ」
 ぼそっと言う横顔が、僅かに赤い気がするのは気のせいか。
 僕も、顔が熱くなった。
 そして、胸の奥がきゅっと痛んだ。

 僕が、天使じゃないのは、誰よりも僕が知っていた。





* * *


 その後も、冬休み中何度も会って、僕と東條は友達と言っていい関係になっていった。初めのうちこそ緊張したりドキドキすることがあったけれど、次第に自然になっていった。僕にとっては、二年ぶりの本当の友人。東條といるときは、榊原のことも、その他のうっとうしいことも全部忘れて、普通の高校生でいられる気がした。

 冬休みの間に急に親しくなっている僕たちに、互いのお取り巻きたちだけでなく、クラス全員が驚いた。
「おはよう、高原」
「おはよう、東條君」
 三学期の始業日。教室に入った僕に東條が挨拶して、僕が微笑んで返すと、一瞬教室が静まった。
(そんなに、驚くことないじゃん)
 そのまま、席に向かうと、隣にいた松田が驚愕に歪んだ顔をして、僕の肩を掴んだ。
「れ、玲於奈……」
「なに?」
 肩に置かれた手にチラッと不快気に視線を送ると、松田は慌てて手を離して小声で言った。
「東條と、何で、挨拶なんかしてるんだ?」
「…………」
 挨拶なんか、ときたか。
『悪いが、お前とより、よっぽど仲いいんだよ』
『君に応える必要、ある?』
『だって、クラスメイトでしょ』
 無難なところで、ここは三番。
 久し振りだから、エンジェルスマイルもサービス。
 松田は赤くなって、それでも納得できなさそうに、チラチラと僕と東條を見比べている。
 東條の方にも、坂咲が飛んでいっている。
 何か言っているようなのは、こっちと同じやりとりか。
 坂咲が、僕のほうをキッと見た。
 僕は思いっきり気合を入れた『優雅な微笑み』を送ってやった。
(ふっ、ビビってる)
 てめえみたいな、ご面相のやつがこの僕を睨み付けようなんて、百億年早いんだよ。
 って、どうして僕って、こんなに性格悪いんだろう。

『お前、天使見たいだとか、よく言われるだろ』
 ごめん、東條。本当はこんな奴で……。




「玲於奈、会いたかった」
「んっ」
 榊原の熱い息が耳をくすぐる。
 唇で耳朶を愛撫されても、今日はすぐに身体が熱くならない。
(なんだろ、この感じ)
 榊原の右手が、シャツの下に滑り込んで、胸の突起を弄る。小さく固くとがったそれを執拗に擦りあげられて、ようやく身体に火がついた。それでも、以前のようなゾクゾクする感覚が頻繁に襲ってこない。なんだかひどくまだるっこしい。いっそのこと、さっさと下半身を攻めてくれと思うんだけど、榊原は、そうそう簡単にそこに手を出さない。焦らしとねちっこさがウリだからね。でも、このままじゃ、気持ちよくない。
「せんせ、い……お願い……」
 榊原の手を掴んで、自分の股間に導く。
「まだ、ダメだよ」
「やっ、お願い」
「ダメ」
 榊原は、自分の手を抜くと、再び僕の胸を攻める。
「やだ、あ、ねぇってばあ」
 思いっきり甘えた声を出してみたけれど、それは榊原を喜ばせただけだった。
 僕は胸も感じるほうだけど、今日はそれよりもっと直接的な刺激が欲しかった。
 しょうがないので、自分の手を下着の中に滑り込ませる。
 榊原は喉を鳴らして笑った。
「いやらしいな、玲於奈は。我慢できないんだ」
「うん……」
 とにかく、このじれったい感覚を何とかしたい。
 セックス中にやったこと無かったけれど、自分で自分のものを慰めた。勃ち上がりかけたそれを取り出して、擦りあげる。リズミカルに刺激を与えるうちに、次第に固くなる。
「んっ、ふっ、んあっ……」
 快感を追いかけて、白くなっていく頭の中に、唐突に東條の顔が浮かんだ。
(東條?!)
「あっ、やっ……!」
 その瞬間、僕はイッてしまった。

 そして、その後はもうダメだった。
 榊原の手が、唇が、僕を翻弄する愛撫の全てが、東條から与えられているそれのような錯覚に陥って、めちゃくちゃに僕は乱れた。
「玲於奈、どう、したの?……んっ……急に」
「んっ、ああっ、あ――――っ」
「くっ、れお、なっ」
(東條っ)
 快感の涙を零しながら、僕は心の中で、彼の名を呼んで、そして謝った。

 ごめん。東條。
 そして、榊原にも。
 僕は、最低なことをしている。





* * *

 榊原とのセックスで、東條に抱かれる夢をみるという後ろ暗い快感は、その後も僕を支配した。
 それで、僕は自分の気持ちにはっきり気がついた。
(僕は、東條が好きだ―――――)
 東條に抱かれたいと思っている。
 人を本気で好きになって、抱かれたいと思ったのは生まれて初めてだ。
 だからかえって僕は、臆病になっている。この気持ちを絶対に東條に気づかれたくないと思っている。

『お前、天使みたいだとか、よく言われるだろ』

 すごく図々しいけれど、東條にはずっと僕のことを『天使みたい』だと思っていてもらいたかった。


 英語の授業中。当てられてリーディングしているとき、視線を感じた。いや、色々な視線を感じるのはいつものことなんだけど、この視線は違うんだ。
 僕にはわかる。
 読み終わって、席につきながらそっと振り向くと、頬杖をついて僕を見る東條と目が合った。
 目だけで東條が笑う。
 僕は頬に血が上るのを悟られないよう、直ぐに前を向いて座る。
 休み時間。僕は自分から東條の席に行った。
「さっき、何?」
「え?」
「笑ってたでしょ」
 僕はほんの少し唇を尖らせる。東條はクラッとくるくらい爽やかな笑顔で応える。
「ああ、いい発音だなって思って、聞き惚れていたんだ」
「嘘」
「本当だよ」
「嘘だ」
 あああああああああっ!! 甘えてる。甘えてる。甘えてる。
はずかしい。でも、止まらない。
「なんか、おかしかったんでしょ」
「本当だって」
「嘘、嘘」
 誰か、止めろよっ、僕を。
「玲於奈」
「次、実習だから、もう移動しないと」
 ……松田と、遠藤が止めてくれた。ありがと。
「うん、わかった」

 東條のところから、自分の席に教科書を取りに戻ろうとしたら、立ち上がった東條が僕の肩に手をかけてささやいた。
「怒るなよ。ホントにいい声だって感心したんだから」
 ああ、東條。そんな台詞を、平然と言うなよ。

 僕の東條に対する恋心は、着実に育っていた。
いつか、この気持ちが抑え切れなくなったとき、僕はどうなるんだろう。