夢の中で、巳琴はうさぎになっていた。 自分を追いかけてくるあの狼は、兄、貴虎だ。 逃げても、逃げても、俊敏な足で迫ってくる。 獰猛な瞳、大きく開いた口からは鋭い牙が覗く。 (やめて――来ないで――) 必死に走るのに、身体が重い。 あっという間に追いつかれる。 (やっ……) 大きな前足で組み伏せられた。 (食べられる――) ぎゅっと目を閉じると、ふわりと抱きしめられた。 (え?) いつの間にか人間の姿になっている巳琴は、やはり人間の貴虎に優しく抱きしめられていた。 広い胸と力強い腕が巳琴を包む。 ゆっくりと唇が重なる。 柔らかな舌が差し込まれる。 (ん……) フワフワと身体が浮いていく。 (兄さん……) はっと目が覚めた。 病院の天井を見つめて呆然とする巳琴は、身体の芯が熱くなっているのに気がついた。 (な、何……?) 今の夢は、いったい何? 生々しい唇の感触。思わず、唇に指を当てる。 あの瞬間、自分は幸せな気持ちになっていた。 (僕は、あの人のことが……好き?) 巳琴は混乱した。 わからない。 美樹原には、自分たちが恋人同士だったと聞いている。 弘明からは、兄が自分に暴力をふるっていたと言われた。 その兄は――何も、言わない。 ただ、黙って自分を見つめる。 その黒い瞳を思い出すと、やっぱり胸が苦しくなる。 (何で?) たった今見た夢の意味を考えていたら、突然ドアが開いて、巳琴はビクリと振り向いた。 「ミコちゃん、起きてた?」 母親がまっすぐベッドに近づいて、巳琴の顔を覗きこんで目を瞠った。 「顔が赤いわ。熱でもあるのかしら」 その言葉に、巳琴は余計に顔に血を上らせた。 「大丈夫? あ、やっぱり熱い」 巳琴の額に手を当てて、母親が顔を顰めた。 「あっ……だ、大丈夫だから」 「でも」 「それより…お母さん、僕、家に帰りたい」 巳琴は、混乱して、記憶が無いことが今さらながらに不安になった。 「ミコちゃん……」 「家に、帰りたいよ」 帰りたい。以前の自分に。 巳琴のすがるような瞳に、母親は頷いた。 「実は、お母さんも考えていたのよ。来週にはお父さんも中国から戻ってくるから、お家で療養した方がいいかなって」 そして、巳琴の髪を撫でながら微笑む。 「お医者様に聞いてみましょうね」 「お母さん……」 「若いから骨の治りも早いし、問題ないでしょう」 主治医は巳琴の退院を承諾し、 「でも、検査には通ってもらいますからね」 母親に向かって念を押した。 「勿論です。すみません、先生。これからもお世話になります」 母親は深々と頭を下げて、そして巳琴を見て笑った。 「よかったね、ミコちゃん」 「うん」 タクシーには貴虎が乗せてくれた。 「大丈夫か?」 「うん」 一緒に後部座席に座ると、貴虎はそっと巳琴の肩を抱いた。 「ゆっくり走ってください」 タクシーの運転手にそう言って、 「気持ち悪くなったりしたら言えよ」 巳琴を優しく見つめる。 その瞳に、巳琴は胸が熱くなる。 (やっぱり、この人が僕を苛めていたなんて、嘘だ) でも、本当のことがわからない。 美樹原の言ったこと、弘明の言ったこと、そして何も言わない貴虎のこと。 考えれば、考えるほど、巳琴はじれったい気持ちになる。 思い出したい――全て。 そっと、兄の横顔を窺うと、兄が気づいて振り向いた。 「何だ?」 「う、ううん……」 まだドキドキするけれど、怖いからじゃない。 実際、美樹原が来なくなってからの貴虎はひどく優しくて、巳琴は最初の頃の勝手な想像を反省していた。 「二階は大変だから、リビングにミコちゃんのベッドを置こうかしら」 家に帰り着いての母親の第一声。 「ううん。僕、自分の部屋がいい」 自分の部屋に行けば、何か思い出すかもしれない。 「でも、階段……」 「俺が、連れてくよ」 貴虎が、巳琴を抱えあげた。 「あっ」 「しっかりつかまっていろよ」 ギブス付きの巳琴の体重をものともせず、貴虎は軽々と巳琴を運んだ。 「ご、めんなさい……重いよね」 「全然」 「嘘」 「ミコトは、もう少し太ってもいいんだよ。今回の入院で、また痩せただろ」 すぐ近くで聴こえる声に、巳琴の顔が赤くなる。 首に回した手をぎゅっと握ると、なんだかとても懐かしく温かな気持ちになった。 「ほら、ここがお前の部屋」 貴虎は足で器用にドアを開け、巳琴をベッドに運んでそっとおろした。 「何か、思い出したか?」 巳琴は、きょろきょろと部屋を眺め回して、がっかりしたようにうつむいた。 それを見た貴虎が、巳琴の髪をくしゃりと撫でて言った。 「すぐってわけにはいかないさ」 その手の感触に甘えながら、巳琴は応えた。 「自分の部屋を見たら、何もかもすうっと思い出すかもって、思っていたのに……」 その部屋はあまりにも殺風景だった。 几帳面な性格の巳琴がしっかり片付けていたせいもあるが、本ひとつ落ちていない、ポスターひとつ貼っていない部屋で、その主の個性を見出すことは難しかった。 「慌てなくても、そのうち思い出すだろ……それに……」 貴虎はしゃがんで、巳琴の顔を見上げるようにして見つめた。 「無理して思い出すこと、ない……」 「兄さん……」 貴虎は笑って立ち上がった。 「荷物片付けて、また後で来る」 「うん」 貴虎がいなくなって、改めて、寝ようかと横になって、巳琴はマットに違和感を覚えた。 何か、硬いものがあたる。 (何だろう?) マットの下に、何か挟まっている。 ちょうど左手を伸ばせる場所だったので、巳琴はそこに手を入れた。 引っ張り出して見たのは、白いノートだった。 「これ……」 当然、巳琴は覚えてはいないが、日記を燃やそうとした日に母親に見つかって慌てて隠したもの。 巳琴は、ゆっくりとページをめくった。 几帳面な字で書かれた、巳琴の日記。 それは、兄、貴虎への想いに溢れた巳琴自身。 (あ……) 頭の中で、パリンと割れた音がした。 自分の記憶を閉じ込めていた、ガラスの蓋の割れる音。 「兄さん……」 巳琴は、声を震わせた。 次の瞬間、大声で叫んだ。 「兄さん――兄さん、兄さん、兄さんっ」 「ミコトっ?!」 貴虎が血相変えて飛び込んで来た。 「どうした、ミコトっ?」 「兄さん……」 巳琴が左手を伸ばすと、貴虎がその手を握り締める。 「ミコト」 「兄さん」 そのまま、倒れるように貴虎にすがりついた。貴虎の胸の中で、溢れる想いを告げる。 「兄さんが……好き……」 「ミ、コト……」 「僕は、兄さんが、好きなんだ……」 閉じ込められていた自分を解放する。 「兄さんが、好き……愛してる」 |
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