「記憶が戻った?」
「ほんとぉっ?」
美樹原とアキが大声を出し、教室の学生がいっせいに三人を見た。
「ああ、昨日、家に帰ったら……」
「よかった……」
「ホント、よかったわあ」
三限目の授業の始まる前。
「そうとなったら、授業なんか受けている場合じゃないわね」
「どういう理屈だ」
「いいから、うちで快気祝いしましょうよ」
テキストをたたむとアキは美樹原を立たせた。貴虎も黙って後に続く。
「実は、二人がいつ来てもいいように、お酒充実させたのよ」
学生向け非合法スナック『イブ』が、けっこう気に入っているアキだ。



「ミコトくんに、謝らないとね」
美樹原が言うと、
「ミコトの方が、お前に謝りたいって、言ってた」
貴虎が応えた。
「何で」
「俺も、お前に謝りたい……っていうか、礼、かな……」
二人の会話を、アキは黙って聞いている。
「礼なんて、どうして?僕は……」
「お前のおかげで、わかったことがたくさんあった」
「わかった?」
「初めに、俺がオンナと遊んでいるのが、ミコトを傷つけているって言っただろ」
貴虎は、思い出すようにグラスを見つめた。
「ミコトが記憶喪失になって、何か忘れたいことがあるんじゃないかって考えたとき、すぐにお前に言われたことを思い出した。そして、あいつが言っていたことも」
「言っていたこと?ミコトくんが?」
「俺のことを好きでいるのは辛い。お前なら、辛くない……って」
「ああ……」
「思い出したくないくらい辛かったのかって思ったら、ちょっとショックだったな」
「そうじゃないだろ……実際、一時的なもので、治ったんだし」
「あいつが何を思い出したくなかったのか、本当に事故による障害だけだったのかは分からないけれど、とにかく、俺があいつに辛い思いをさせていたことは事実だ」
貴虎は、グラスを空けて早口で言った。
「好きな相手にそんな思いさせてんじゃ、世話ないよな」
「タカトラ……」
美樹原が、ふっと笑った。
「ミコトくんがそんなに辛いのも、本当にタカトラのことが好きだからだよ。知っていて手を出す僕も僕だけどね」
貴虎は、普段滅多に見せない照れたような顔で笑った。
「ミコトが記憶を失ってから、昔のことやたら思い出したんだけど、なんかあいつの泣いている顔ばっかりだったんだよな。いや、笑っている顔も少しは思い出せるんだけど、泣き顔の方が多いんだよ。なんだか、いっつも泣かしていたのかと思って情けなくなっちまった」
「タカトラ、おかわり作ろうか?」
黙っていたアキが手を伸ばす。
「ああ、さんきゅ」
「僕も」
美樹原は、自分もグラスを空けて一緒に差し出した。
「ミコトくんは、泣き虫だからね」
「ああ」
「タカトラなんか好きでいたら、それこそ、ずっと泣くことになっちゃうって思ったんだけど……」
「反省した」
「らしくないね。似合わない」
「だから、お前のおかげだって」
「はい、お待ちどうさま」
アキは自分のグラスにも並々と注いで、
「快気祝いなんだから、そろそろパッとやりましょう」
綺麗に片目をつむって見せた。
「改めて、ミコトちゃんの記憶復活にカンパーイ」
カチャンカチャンとグラスを合わせる。
美樹原に向かって、
「あ、そうだ。ワタシあれから『人魚姫』検索したんだけど、あの隣の国のお姫様っていうのは、別に王子様を騙していたわけじゃなかったみたいよ?」
「それはもういいって」
「なんだよ、人魚姫って」
「だから、もういいってば……」



* * *


巳琴は、ベッドの中で貴虎の帰りを待っていた。
今日は大学に行って美樹原たちに巳琴のことを伝えてから、すぐ帰ってくると言っていた。
(何時くらいに帰ってくるのかな……)
早く帰ってきて欲しかった。記憶が戻ってきたら、貴虎を好きだという気持ちが溢れ出して止まらなくなった。
ずっとそばにいて欲しい。
(まだ、帰ってこないのかな……)
時折顔を出す母親に尋ねてみても
「ミコちゃんが治ったから安心して、また出かけちゃったのかもよ」
などと、巳琴の気も知らず笑っている。
(兄さん……)


夜になって、貴虎が帰ってきた。
「ごめん、ミコト、遅くなった」
部屋に入ってきた貴虎はお酒の匂いがした。
巳琴は、悲しくなった。
自分は、ずっと帰りを待っていたのに、飲んできている。
じわっと涙が浮かんだ。
貴虎はフラフラとヘッドに近寄り
「ミキたちと一緒に……って、ミコト?」
慌ててしゃがんで、顔を覗き込む。
「何、泣いてんだよ」
「だって……ずっと、帰ってくるの、待ってたのに……」
ウルウルと大きな涙の粒が、巳琴の両目に盛り上がる。
「ごめん、ミコト」
『二度とミコトを泣かさない』と、美樹原に誓ってきたばかりでこれだ。貴虎は両手で巳琴のふっくらした頬を包んで、親指の先で涙を拭う。
「ごめんな……俺が悪かった」
「…………」
黙ったまま、唇を尖らせる巳琴に、貴虎はそっと口づけた。
「やっ、お酒くさいっ」
巳琴が左手で突き飛ばす。
「あ、何する、こいつ」
「だって、兄さん、お酒臭いんだもんっ」
泣きながら、左手を振り回す巳琴。
「だったら、こうしてやる」
後ろに回って巳琴に覆い被さる。
「やだ、やめてっ」
嫌がる巳琴の顎を掴んで上向けて、おもいっきりディープキス。
「んーっ……」
片手でポカポカ殴っても、貴虎の腕は緩まない。
「ん……んっ……」
次第に巳琴の抵抗が弱まって、いつのまにかその左手は貴虎のシャツを掴んでいた。
長い口づけの後、ゆっくり唇を離すと、巳琴はうっとりと目を開けた。
貴虎の顔を見て、またボロボロと泣き出した。
「ミコト?」
「……お酒臭いよっ」
照れ隠しにそう言って、枕を投げつける。
「ごめん」
そして、貴虎はすねたような巳琴の横顔を見て思った。

『二度と、ミコトを泣かさない』
美樹原と約束したけれど、守れそうにない。

こんなに可愛い泣き顔を、二度と見られないなんて、つまらない。
でも、せめて次に思い出すときには、泣き顔と笑顔半々くらいになるようにはしておきたい。
でないと、いつまたこのかわいい小鳥が手の中から飛んでいってしまうか分からない。


じっと見つめる貴虎の視線を感じ、巳琴はそっと振り向いた。
「何?兄さん」
「……もう、どこにも行くなよ」
貴虎の言葉に、巳琴は首まで真っ赤になって、そして小さく頷いた。




END

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