久しぶりの外は、思った以上に気持ちが良かった。巳琴は初秋の風に深呼吸した。
「寒くないか?」
「う、うん……」
それでも、貴虎に話し掛けられるとビクッとする。
病院の中庭に出て花壇のそばに行きかけた時、ガタッと車椅子が傾いだ。
「わっ」
「あっ、と……悪い。石に引っ掛かった」
「……うん」
車椅子は倒れなかったけれど、巳琴は十分驚いた。
(わざとじゃないよね)
スロープが近づいた時には、巳琴は自分の想像で青くなった。
(もし、ここで手を離されちゃったら……)
左手だけでは滑り落ちていく車椅子を止められないだろう。その図を思い浮かべると背中に冷や汗が滲んだ。
貴虎に対する疑心暗鬼で、巳琴は気持ちが悪くなってきた。


貴虎はスロープの手前で、車椅子を止めた。
ちょうど銀杏の木の下で、黄色く染まった三角形の葉っぱが地面の上で舞っている。
貴虎は、その昔巳琴が銀杏の実を手で掴んで泣いていたのを思い出した。手が痒いとか臭いとか言って泣いていた。


「……何も、思い出せないか?」
突然貴虎が訊ねる。
巳琴はそれまでの想像もあって小さく悲鳴をあげた。
「ひゃ」
もともと想像力は過多な巳琴だ。
「何?」
貴虎が、不審そうに聞き返した。
「な、何でも……」
「そっか……医者は、一時的なものだって言っていたんだけどな」
貴虎が呟く。
「精神的に……何か、忘れたいことでもあるんなら……」
それが記憶を取り戻すことを妨げているかもしれないとも言った。
「忘れたいこと……」
巳琴は口の中で呟いた。
(僕が、忘れてしまいたいこと……)
「兄さんとのこと…」
「えっ?」
しまった!巳琴はゾクッと背中を震わせた。
何で口に出してしまったんだろう。
(バカバカ!僕のバカ!!)
貴虎は巳琴を凝視した。けれども、後ろからなのでお互いの表情はわからない。
「お前……何か、思い出したのか?」
貴虎の声が震える。
「ち…」
巳琴は、違うと言いたいけれど、喉に何か引っ掛かったように声が出ない。
そっと貴虎の腕が両肩に乗った。
(殺されるっ)
想像力過多の巳琴はギュッと目をつぶった。
けれど―――――
その手はそっと前に回され、胸の前で交差した。
貴虎の額が後ろから肩口に押し付けられる。
「思い出したのか?ミコト……」
ふわりと貴虎の整髪料の香りがし、懐かしい気持ちが押し寄せてくる。
(この……感じ……)
何か思い出せそうで、記憶の糸を手繰ろうとしたら、突然頭の芯が痛んだ。
「いたっ…痛い……」
「ミコト?」
「頭が、痛い……」
唯一自由になる左手で頭を抱える。
「大丈夫か?ミコト」
ひどく心配する貴虎の声を聞きながら、巳琴は自分が何か思い違いをしているような気がしたけれど、とにかく頭が痛くてそれ以上は考えられなかった。





* * *

眠る巳琴の顔を見つめながら、貴虎は考えていた。

『兄さんとのこと』

(あれは、どういう意味だったんだ?)
巳琴が、自分とのことを思い出したくなくて記憶を封じ込めている――そういう意味か。
(でも、それをどうしてミコトが知っている?美樹原に何か聞いたのか?)
そんなに、自分とのことは辛い思い出なのか?
巳琴の閉じた瞳、長い睫毛が頬に影を落とす。
額にかかる前髪をそっと払いのけながら、貴虎はあることを決意していた。
(このまま、ミコトの記憶が戻らなかったら……)
そこに、小さくドアの開く音がした。
振り向くと、美樹原が顔を覗かせて貴虎を目で呼んだ。
「何だ?」
「ちょっと……」
美樹原に促がされて、病室を出る。
美樹原は黙ったまま歩く。貴虎も黙って後を付いて行く。二人は、中庭にでた。
風が冷たくなって来ている。
昼間よりも強い風に、銀杏の木が鳴っていた。
「何だよ、ミキ」
「タカトラに……本当のこと、言っておかないと」
「本当のこと?」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ貴虎が、不審気に眉を上げると、美樹原は思いつめた顔で言った。
「ミコトくんが事故にあったのは、僕のせいだ」
「え?」
「すまない。警察にも、お母さんにも、本当のことが言えなかった……」
巳琴のためだと言いながら保身だってあったはずだ。美樹原は自分のいやらしさに唇を噛んだ。
「本当のこと、話すよ」
そして、美樹原はあの夜のことを語った。貴虎がいなくなって泣きながら電話をかけてきた巳琴のこと。そんな巳琴にほんの少し苛ついて、車の中で自分のやってしまったこと。
巳琴がそれから逃げだして道路に飛び出したという話になったとき、貴虎は小さく唸った。
「何、だとぉ」
美樹原は殴られることを覚悟して目を閉じた。
「僕のせいだ。すまない」
けれども、いつまで待っても貴虎の拳は来なかった。
そっと目を開けると、両手を固く握り締めた貴虎が歯を食いしばったような顔で立っている。
「殴らないのか?」
むしろ殴って欲しいと、美樹原は貴虎の前に歩み寄った。それに対して、
「……それでも、俺が出て行かなかったら、ミコトはお前を呼び出すことは無かったんだ」
絞り出すような声で、貴虎が言った。
「結局は、俺のせいだよ」
「タカトラ……」
そして貴虎は真剣な顔で美樹原に向き合った。
「俺も、お前に話があった」
その言葉に、美樹原が美しい眉を顰める。
「お前に言った、アレ……取り消させて欲しい」
「あれ?」
「ミコトを頼むって言ったこと……」
(ああ)
美樹原は、心の中で頷いた。
「お前に、譲れない……俺は、やっぱり、ミコトが好きだ……こうなってみて、本当によくわかった」
貴虎の言葉を美樹原は黙って聞いた。
「あいつが、記憶を失ってしまったんなら、もう一度一緒に思い出を作りたい。今度こそ、あいつを泣かせない……」
突然、貴虎は頭を下げた。
「たのむ。あの言葉、無かったことにしてくれ」
「タカトラ……」
美樹原は、貴虎の肩にそっと手をかけた。
「お前がそう言うんなら、僕に何ができる?」
顔をあげた貴虎に美樹原は微笑んだ。
「もともと、ミコトくんはタカトラのことが、大好きなんだから……」
「……すまない」
「何が?」
うつむいて歩き出す美樹原に、貴虎も並んで歩く。


「そうだ。ミコトくんに、言わなくちゃね」
「何を?」
「事故にあった本当の理由」
「まさか……あいつが混乱するだけだろ」
「嘘ついているのに感謝されたままでいるのは、落ち着かない」
「いいじゃないか……別に」
「記憶が戻った時、恨まれそうだ」
「そんなヤツじゃねえし……」
(記憶が戻るかどうかなんて……)
わからない。
それでもいいと、貴虎は思った。
巳琴の眠る顔を見つめて、考えたのだ。
このまま巳琴の記憶が戻らなくても、この先、今までの十六年に負けない未来を二人で積み重ねていきたいと。






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