「はい、三分たちました」 バタンとドアを開けて、美樹原が入って来た。 巳琴は瞬間ビクッとし、美樹原の顔を見て安堵のため息をついた。 「どうしたの?」 美樹原が心配そうに尋ねる。 「ううん、何でもないんです」 「そう?」 弘明を見て、 「じゃあ、面会時間、終了」 巳琴から引き剥がすように立たせると、ドアの外へと押しやった。 「あっ、なんだよっ、まだ巳琴と話が」 「だーめ。大体、面会許可取ってきてないだろ、お前」 「ああっ、巳琴おおっ」 ドアの外にちょうど看護婦が通りかかる。 「あ、すみません、看護婦さん」 「はい?」 「この子、面会許可なく病室にやって来て……」 「まあ、それはいけませんわ」 困ったように微笑む美樹原の美貌にポウッとなりながら、大柄で力のありそうな看護婦は、押し付けられた弘明を受け取る。 「じゃ、あとヨロシク」 「あっ、おい……」 弘明の叫びを綺麗に無視して、ドアをきっちり閉めると、美樹原は巳琴を振り返った。 「ミコトくん」 巳琴は、何か思いつめたように自分の膝の上のシーツを見つめていた。 美樹原は、そっとベッドサイドに腰掛けて、巳琴の背中に腕を回した。 「あの子と何を話したの?」 「…………」 巳琴はしばらく考え込んで、ゆっくりと顔を上げて訊ねた。 「僕の、兄さんのこと……」 「え?」 貴虎のことと聞いて、美樹原はギクリとする。 「美樹原さんは、僕と兄さんのこと……何か、知っています?」 「な、何かって?」 美樹原が探るように尋ねるのに、巳琴は答えられなかった。 あの彼――今の巳琴には弘明の名前は思い出せない――は、二人だけの秘密といったのだから、自分が兄から暴力を受けていたことは、兄の友人だという美樹原でも知らないのかもしれない。母親だって知っているのかどうか。普段の様子から察するに、たぶん知らないのだ。 だったら、ここで美樹原に言っていいものか?そして、訊ねていいものか? 巳琴は、黙ってうつむいた。 美樹原といえば、巳琴と貴虎のことといったら知りすぎるほど知っている。 しかし、それを語っていいものか? (ダメだろう、今は) せっかく自分と恋人同士だったということを納得させようとしているこの時に、貴虎のことまで持ち出したら、巳琴が混乱するのは目に見えている。 「ミコトくんとタカトラのことは、兄弟だから色々あると思うけど……」 「そうですよね」 巳琴は、美樹原の言葉を遮るように言って 「すみません、変なこと聞いて」 ニコッと笑った。 「ミコトくん……」 「すみません、僕、なんか美樹原さんに甘えているみたいです」 「え?」 「自分のことだから……自分で思い出さないといけないのに……」 うつむいた巳琴の頬が朱に染まる。目元が赤いのは泣きそうなのか。 美樹原は、背中に回していた腕を強く引き寄せて、巳琴を抱きしめた。 巳琴はされるがままに身体を預けて、美樹原の胸の中で呟いた。 「……ありがとうございます」 「え? 何?」 「よく考えたら、ちゃんとお礼を言っていなかった」 「お礼……」 「僕を、助けてくれたんですよね。事故のとき……」 ズキッ 美樹原の胸の痛む音。 「美樹原さんが、傍にいて、すぐ救急車呼んでくれたんですよね」 ズキズキズキ…… 「美樹原さんがいてくれなかったら、もっと酷いことになっていたかも知れないです」 ズキズキズキズキズキズキズキ…… 「本当に、ありがとうございます」 胸の中の巳琴はたまらなくかわいらしくて愛しかったが、さすがの美樹原も良心の呵責に耐えかね、口づけることもかなわなかった。 そっと巳琴を離して、ゆっくりとベッドに寝かせる。 上掛けを首まで引き上げてやって 「少し、おやすみ」 優しく微笑と、巳琴は小さく頷いて瞳を閉じた。 巳琴の閉じた瞳に映るのは、優しい美樹原の顔でなく、あの兄の顔。 (あの人が……僕に……暴力……) 巳琴は、信じられない思いで、けれども何か腑に落ちるような気もして、自分の失った記憶をたぐる。 美樹原は、巳琴の寝顔を見つめ、思わず出そうになったため息を押し殺した。 次の日、美樹原は、珍しく病室に顔を出さなかった。 何処に居るかというと、アキの部屋。 「ちょっと、うちはいつから癒し系のお店になったのよ」 そう言いながらも、昼間から水割りを作るアキ。昨日貴虎に散々飲まれたので、買ってきたのがまたすぐ無くなりそうだ。 「看板出そうかな。学生向け、非合法スナック《イブ》」 アキの冗談にも、美樹原は浮かない顔のまま。 「お願いだから、ミッキーまでそんな顔しないでよ。アタシだって辛いんだから」 ドンとグラスを置くアキに美樹原は突然 「人魚姫ってあるだろ」 「えっ? あ、何? アリエルちゃん?」 この間見たばかりのディズニーシーのショウを思い出すアキ。 「物語のほう……あれ、溺れた王子を助けたのは、人間のお姫様だってことになるだろ?」 「そうだったわね。あれ? お姫様だったっけ? 村娘じゃなかった?」 「よく知らないけど、人魚姫じゃないよね」 「そうね。助けたことになって感謝されたのはね」 「その人間のお姫様は、王子様に『助けてもらってありがとう』って感謝された時、どんな気持ちだったんだろうな」 「どんな?」 どんな、と聞かれて、アキは考えた。 昨日聞かれた質問よりは、答えやすそうだ。 「どんなって……ラッキー! とか」 アキの返事に美樹原が露骨に眉を顰めた。 「ちょっと違うかしら」 愛想笑いのアキに、 「いや……」 眉間にしわを寄せたまま、美樹原は頷く。 「それもある」 「そお?」 「でも、王子様がずっと純粋に感謝し続けたら、辛くなるよね」 「まあ、騙してるんだもんね」 「騙してるのか」 「騙してるんでしょ? あれ? 違ったっけ?」 「騙している女が、王子様と結婚して幸せになりましたって、変じゃないかな?」 「だから、人魚姫って悲しい物語じゃないの?……っていうか、何で、アタシたちこんな話してんの?」 美樹原はため息をついて、座っていたソファに寝そべった。 「騙してるんだよな、結果的に……」 * * * カチカチカチカチ…… 秒針の音が響くのを、巳琴は自分の心臓の音のように聞いていた。 ドキドキドキドキ…… 病室の中で、貴虎と二人っきり。 貴虎は巳琴の枕もとから少しはなれた位置に椅子を置いて、雑誌をめくっている。 巳琴は、その横顔をそっと窺った。 少し長めの前髪、伏せられた睫毛もくっきりした眉も真っ黒で、硬質な印象を受ける。よく通った鼻筋に、形のいい唇。男らしくハンサムな顔。自分とは全然似ていない。 (本当に、僕の兄さんなのかな) 兄のことを考えると、胸が苦しくなる。昨日からは、何か思い出そうとすると、頭の奥もキンと痛んだ。 (やっぱり、暴力を受けていたのかな) 色々と考えていると、ふいに貴虎が口を開いた。 「今日は、ミキ…美樹原は、来ないんだな」 ドクン、と巳琴の心臓が跳ねた。 「え、あ……そうみたい、です」 貴虎に話し掛けられただけでこんなに動揺するのは、やはり普通じゃないと巳琴は思った。 答える声も震えてしまう。 そして貴虎は、そんな巳琴を見て眉根を寄せる。 (何で、そんなに緊張しているんだ) 母親や美樹原の前では笑うくせに、自分と一緒の時はこわばっている。 しかし、それは自分も同じだ。巳琴が記憶を失って、まるで他人のような顔をするので、どうしていいかわからない。 自分らしくもなく、巳琴との距離を測りかねている。 自分のせいでこうなったという負い目もあった。あの日、自分が突然出て行ったりしなかったら、巳琴が外に出ることも無く、事故にあうこともなかったのだ。 巳琴の記憶喪失の原因が自分にある――そう思うと、胸苦しくて巳琴の顔をまっすぐ見ることができない。 そして何より、自分と巳琴の十六年間が巳琴の中からすっかり消えてしまっていると思うと辛かった。 言葉を探してそれでも上手く見つからず、貴虎が黙ると再び沈黙が病室を支配する。 白い部屋の中で、兄弟は、黙ったまま時を過ごした。 そこに母親が帰ってきた。 「ミコちゃん、ほら」 にこやかに笑う母親は、両手で車椅子を押していた。 「ずっと部屋の中も退屈でしょう? これ使って、庭に出てもいいって」 ベッドサイドに車椅子を寄せて言った。 「お兄ちゃんに、散歩に連れて行ってもらいなさいよ」 「えっ、いいよ」 とっさに断る巳琴。 母親は不思議そうに首をかしげた。 「どうして? 外、出たくない?」 「そっ…」 「お医者様も、少し気分転換したほうが、色々思い出せるかもって言ってるのよ」 「……でも……」 貴虎と散歩―――なんだか、怖い。 「お、お母さんと……一緒がいい」 「えっ?」 母親は、目を見開いて 「ミコちゃんたら、もう、甘えん坊ねえ」 嬉しそうに笑う。 貴虎は、複雑な表情で目を逸らした。 母親はそんな兄に気がつかず 「でも、車椅子って、これでけっこう重いのよ。ミコちゃん乗せて色々連れて行くのって、お母さんじゃちょっと大変」 貴虎を見て言う。 「やっぱり、お兄ちゃん、連れて行ってあげて。ねっ」 「ああ」 貴虎はそっけなく答えると、車椅子に近寄った。 ベッドに平行に並べ、ストッパーで車輪を固定すると、巳琴の背中に腕を差し入れた。 「起こすぞ」 「あっ」 巳琴は身体を硬くした。 貴虎はそれに気がつかないふりで巳琴を抱き上げ、そっと車椅子に下ろした。 「ずっと部屋の中だったから、少し外の空気を吸っていらっしゃいよ。お母さん、その間お掃除しておくから」 「う、うん……」 心臓が震えるのを自分で感じながら、巳琴は頷く。 (兄さんと……) 自分のすぐ後ろに兄がいて、そして車椅子を押す。 その兄は、自分の記憶が無くなる前、自分に暴力をふるっていたかも知れないのだ。 巳琴は、まるで何かホラー映画の登場人物になったような気がしてきた。 |
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