巳琴が入院して一週間がたった。 相変わらず記憶は戻らないのだが、なんとなく――― (お母さんはお母さんだと思えるようになってきた……) かいがいしく世話を焼いてくれるこの女の人が母親でなくてなんだというのだ。 巳琴はそう思って、最初遠慮がちだった態度も自然に親子らしくなってきた。 しかし――― 「ミコト、何か食いたいもんあったら、買ってくるけど」 「あっ、いいえ、結構です」 貴虎を前にすると、何故だか緊張してしまう。 そんな巳琴の態度に貴虎は眉を顰めるけれど、何も言わない。 その横顔はどこか寂しそうな気もして巳琴の胸も締め付けられるけれど、でも―― (この人といると、なんだか苦しいんだもん……) 巳琴には、何故そうなるかもわからない。 そして、美樹原もあれ以来、かいがいしく毎日顔を出していた。 「ミコトくん、身体の具合はどう?」 「あっ、こんにちは、美樹原さん」 自分が事故にあったとき傍にいて助けてくれたのがこの美樹原だと、母親から聞いている。 兄という人と違って、いつも微笑んでいて優しそうだ。 「プリン、買って来たんだけど、食べられる?」 巳琴の好きなプランタンのかぼちゃプリン。 「はい。あ、でも……」 右手が不自由だ。 「左手ですくえなかったら、僕が手伝ってあげるから」 「でも……」 「いいから、はい」 背中に腕を差し入れて、ゆっくりと起こしてくれる ふわりとかおる髪の香が何かを思い出させてくれそうな、そんな気持ちになる。 巳琴は、目の前の女性的で美しい顔に見惚れた。 「何?」 美樹原が微笑む。 「あっ、いいえ」 巳琴は、はにかんで頬を染める。 「俺、出かけるから……」 不機嫌そうに言い捨てて病室を出て行く貴虎。 「あ、いたんだ?」 本当に気づいていなかった美樹原。 「じゃあ、私も買い物に行って来るんで、美樹原さん、ちょっとミコちゃんお願いします」 「あっ、どうぞ、どうぞ」 (……お母さんもいたんだ) 本当に、巳琴しか見えていなかった美樹原。 (人間、見たいものしか見えないというのは本当だな……) 遅ればせながら、つい最近になって京極夏彦のデビュー作を読んだ美樹原だった。読んでいない人には、全くわからない話だ。 (そんなことは、どうでもいい) 美樹原は自分の差し出すスプーンからプリンを食べる巳琴に夢中になる。 ぷるぷると震えるプリンに巳琴の薄く開いた唇が近づいて、そしてその愛らしい唇がスプーンの先を咥えると同時に、ちゅるるんとプリンが吸い込まれていく。 (エロティック〜) 何を考えているんだ、美樹原。 しかし、確かに艶めかしい。 「ミコトくん……」 その唇を見つめながら、美樹原は巳琴に尋ねた。 「何か……思い出した?」 巳琴が、はっと美樹原を見る。 困ったように睫毛を震わせる。トレードマークの黒縁眼鏡は入院中は必要ないのでかけていない。 「いいえ……」 「そう……」 美樹原はプリンをサイドテーブルに置いて、そっと巳琴の手を握った。 「無理して思い出さなくてもいいんだよ……でも……」 でも、という言葉に、巳琴が僅かに首を傾げた。 「一つだけ思い出して欲しいことがあるんだ」 自分を見つめる美樹原の瞳に、巳琴は吸い込まれそうな気持ちになる。 「な、に……?」 「僕と……」 美樹原は、一瞬、言葉を捜すように黙った。けれども、すぐに真剣な眼差しで言った。 「僕と巳琴くんが、恋人同士だったこと……」 (え!) 巳琴はこれ以上無いくらい驚いた。 「う、嘘ですよね?冗談……」 「嘘でも冗談でもないよ」 美樹原は綺麗な顔を辛そうに歪めた。 「少なくとも..事故にあう前の日に、巳琴くんは僕とお付き合いしてくれるって言ってくれたんだから……」 「そ…んな…」 巳琴は混乱した。美樹原に握られていた手をそっと取り戻して、自分の膝の上で握り締める。 「だって、美樹原さん……男の人だし……僕も……」 だんだん声が小さくなる。 男の人を好き――自分で言ってそんな気もしてきた。 自分は、女の人じゃなくて男の人を好きになるような人間だった。 ショック! だけれど、少しだけ自分の記憶に近づいたような気もする。 「僕……本当に、美樹原さんと?」 確かめるように見上げる瞳が不安そうに揺れるのも壮絶に色っぽい。 眼鏡の無い巳琴は、向かうところ敵なしのフェロモン少年だ。 「ミコトくんっ」 我慢できず、美樹原が巳琴を抱きしめた時、病室のドアがバタンと開いた。 「巳琴っ!!」 学級委員長、弘明だった。 「大丈夫か、巳琴ぉぉぉっ」 美樹原を押し退けて、巳琴の膝にすがりつく。 巳琴は焦って美樹原と弘明を交互に見た。 弘明は、そんな巳琴にかまわず 「お前が事故にあったって聞いて、心配で心配で……」 泣きながら訴える。 「先生に聞いても絶対教えてくれないし、面会謝絶なんて、お前どうなっちまったんだって思って、それで、俺、先生とお前んちのお母さんが話してるの盗み聞きして……」 「はいはいはいはい」 美樹原が弘明を巳琴の膝から引き剥がす。 「あっ、何だよっ、お前、いたのかよ、何でいるんだ」 弘明もまたウブメな男だった。って、だからこれは知らない人にはわからないネタだって。 「ミコトくんはまだ具合悪いんだから、かってに病室に入ってきたら困るんだよ」 美樹原が秀麗な眉を顰めて冷たい視線を送ると、弘明は却ってむきになって巳琴にしがみついた。 「だったら、なんでお前はここにいるんだよっ」 「僕はミコトくんのご家族に頼まれたんだ」 弘明の眉が跳ね上がる。 「お、俺だって、巳琴と約束したんだ」 「約束?」 口を開いたのは巳琴。弘明を見つめて、 「僕と?」 小首をかしげた。 「ああっ、俺たちだけの大切な約束だからなっ」 「それって……」 何か自分の記憶を取り戻す手がかりになるかも……巳琴はそう考えた。 「ど、どんな約束をしていたの?」 「えっ?」 弘明が驚いた顔をしたので、巳琴は慌てて付け加える。 「あっ、僕、事故のショックでところどころ記憶が曖昧で……」 本当は、ところどころではなく綺麗さっぱりなのだが、余計な心配はかけない方がいいだろう。けれども、その言葉にも弘明は酷く反応した。 「だっ、大丈夫なのかっ、巳琴ぉぉっ」 「う、うん……」 「ほら、だからもう帰れ」 美樹原が二人の間に割って入ると、意外にも巳琴がそれを遮って言った。 「美樹原さん、僕、彼と少し話がしたいんだけど」 「え?」 「巳琴おおおっ」 弘明は再び巳琴の膝にすがりつく。巳琴は、その背中をさすって 「その約束ってなんだったか、教えてくれないかな」 優しく訊ねた。弘明は顔をあげて巳琴を見た後、ふりかえって美樹原を見上げた。 「こいつの前じゃ、言えない」 「なんだと?」 二人の間に、不穏な空気が流れる。 美樹原は、強硬手段で弘明をつまみ出してやろうかと迫ったが、 「ごめんなさい、美樹原さん。ちょっとの間だけ、二人で話しさせて」 巳琴の言葉に動きを止めた。 「お願いします」 巳琴にお願いされて『NO』と言える美樹原ではない。 「……わかった。三分だけ」 そう言って、部屋の外に出た。巳琴は病室のドアがしっかり閉まったのを確認して、 「ね、僕たちの秘密って何?」 弘明を見つめた。弘明は眼鏡を外した巳琴の顔にぼうっとなりながら言った。 「お前を、あの暴力兄貴から、俺が守ってやるっていう話だよ」 そのころ、その貴虎はアキの部屋で飲んでいた。 ちなみにアキは貴虎のサークルに最近入ったばかりの学生だ。趣味でオカマをやっているが、三浪もしているので苦労した分人間ができている。アキというのは本名の明彦からだがもう一つの呼び名イブは『三浪しているからサンローランからとった』という事実はあまり知られていない。 そんなことはどうでもいい。 その苦労人のイブことアキが、貴虎を心配そうに見つめる。 「病院、戻った方がいいんじゃないの?」 「…………」 「ミコトちゃんが、待っているんでしょ?」 「待ってねえよ」 貴虎は、自嘲ぎみに笑った。 記憶を失った巳琴は、まるで他人を見るように自分を見る。 自分のことを好きだと言って泣いた巳琴はもうどこにもいない。 (どこにも……) 貴虎の胸が疼いた。 「なあ、記憶が無くなるって、どんなんだろうな」 アキの家にサークルの連中がキープしていた洋酒を全て空けてしまう勢いで飲みながら、貴虎が呟いた。 アキは答えられずに、黙ったまま。 巳琴が事故で記憶喪失になったことは聞いていた。 事故の夜、貴虎はアキの家に居て、アキが美樹原からの電話を受けているのだ。 その後心配して連絡をとったところ、美樹原と貴虎、両方からその話を聞いた。 今回の件で、アキは呵責を感じていた。 あの日、昼間、貴虎に会って巳琴の話を聞いた時、うちに来てはどうかと誘ったのはアキだ。 巳琴の顔を見るのが辛いのなら、しばらく距離を置けばいい。 良かれと思って提案したのが、結果的にはあだになった気がする。 そもそも、ディズニーシーで二人が喧嘩したところから、自分がかかわっていると思うと、根は人のいいアキとしては、心苦しいこと極まりない。 「あいつ……」 貴虎は、アキの答えを待つでもなく、ポツポツと語り始めた。 「歩けるようになった頃からずっと俺の後ろついてきて……いっつも、俺のこと追っかけてきて……いつだったか……あいつが小学校入った頃かな?やっぱり、俺のあと追いかけてきて、俺が飛び越えたドブ越えられなくて、落ちちまってさ」 クスッと思い出して笑う。 「ドブのなかにしゃがみこんでわんわん泣いてたんだけど……あれ……おかしかったな……」 クックッと笑う貴虎は、酔っ払っているようだ。 ひとしきり笑って、ぽつりと呟く。 「……ああいうのも、全部忘れちまったんだよな」 「タカトラ……」 「あいつが生まれてからずっと、十六年間も傍にいて……いろんな思い出作ったはずなのに……一瞬でリセットされちまうもんなんだな」 「人は……ゲーム機じゃないから、そう簡単にリセットなんかされないわよ」 アキの言葉は、貴虎には届いていない。 自分を追いかけて来て、事故にあったという巳琴。 自分のせいで、記憶をなくしてしまった巳琴。 自分のことを、忘れてしまった―――。 人前で泣いたことなど無い男が両手で顔を覆ってうつむくのを、アキはただ見つめることしか出来なかった。 * * * 「暴力?」 「ああ……お前、あの兄貴に殴られたりしてただろ」 「殴られ……」 「そのほっぺた」 「あ」 事故の傷より前の、顔の痣。 「それも、兄貴にやられたんだよ」 神妙な顔で声をひそめる弘明の言葉に、巳琴は背中を震わせた。 (あの人に……暴力……) だからなのかと、巳琴は思った。 貴虎を見るとドキドキしたり、胸が苦しくなったりするのは、記憶を失った自分が以前に受けた暴力を思い出して怯えているのだ。 |
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