「CTの結果でも、特に異常は見受けられませんでしたから、事故のショックによる一時的な記憶障害でしょう。しばらく様子を見てみましょう」
医者の言葉に、母親は青ざめた。
「このまま、記憶が戻らないなんてことはありませんよねっ、ねっ、先生っ」
「それは、今のところはなんとも言えませんが。よくあるケースでは一時的なものが殆どですから」
そして、医者はちょっと考える顔をして付け加えた。
「特に記憶から消したいことがあるとか、精神的なものでもなければ」
美樹原はギクリとした。
そこに貴虎が駆け込んで来た。荒々しくドアを開ける音に、看護婦が悲鳴をあげた。
「ミコトはっ?」
美樹原がサークルの友人たちに連絡をとったところ貴虎は、想像通りというか、アキのところに転がり込んでいた。
巳琴が事故にあったと聞いてとんで来た。
「ミコトは、どこだ?」
「お兄ちゃん、あなた、こんな時にホントどこ行って」
「わかったから、ミコトは?」
「お父さんだって出張で、すぐ戻れないんだから、あなたが長男らしく」
「文句は後で聞くから、ミコトは」
「病室だよ。この階の一番奥」
美樹原が親子の会話に口を挟む。
貴虎は、美樹原をキッと睨むと、また荒々しく部屋を飛び出した。
「病院内では、静かにしてください」
看護婦が叫んだけれど、聞いてはいない。
「あっ、待て、タカトラ」
美樹原は大切なことを聞かずに行った貴虎を追いかけた。



巳琴は、ぼうっとしていた。
ベッドに横になって白い天井を見つめる。
頭の中にもやもやと霧がかかっているような感じ。身体がだるい。
熱っぽいのは骨折のせいだ。右手の骨が折れている。肩と腰の骨にも、ひびが入っていると医者が言っていた。
(交通事故……?)
自分がどうして事故にあったのか、全く覚えていない。
それよりなにより、自分が誰かもはっきりしない。
不安になるより混乱している。けれどもその混乱がパニックまでいかないのは、やはり身体がだるいせいだろう。薬のせいかもしれない。
寝返りもうてない状態で、ため息をついて目を閉じたとき、病室のドアが突然開いた。
「ミコトっ」
巳琴はギクリと目を開けた。
目の前に知らない男が立っている。怒っているような顔が恐ろしい。
男はじっと巳琴を見つめた。何か、言いたそうだ。唇が震えている。精悍な顔だと思った。知っている顔かもしれない。巳琴はその男の顔を見つめ、自分の心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。
「ど…どなた……ですか?」
巳琴の言葉に、その男は目を瞠った。


「なっ、何……」
貴虎は、カッとした。
「てめえ、心配かけといて何だっ、その態度はっ!!」
巳琴の首をしめる。
「やっ、やめ」
「やめろ、タカトラ」
遅れて病室に入った美樹原が、慌てて貴虎を羽交い絞めにして巳琴から引き離した。
巳琴は怯えている。
「ちょっと、こっち」
「なんだよ、ミキ」
「いいから、まったく」
美樹原は、貴虎を病室の外に引っ張って行った。
取り残された巳琴は、呆然と二人の出て行ったドアを見つめる。
(な、なんだったんだろう……今の人……)
突然、首をしめられた。
それより、あの人の顔を見ただけで、こんなにドキドキするのは何だろう。
(胸が…苦しい……)
身体の中で一動かせる左手を胸に当てる。
(今の……誰……?)




「記憶喪失?」
貴虎は素っ頓狂な大声をあげ、通りすがりの看護婦に睨まれた。
「だから、いきなりな行動はやめてくれよ」
「何でそんなことに」
貴虎は眉間にしわを寄せて呟く。
「事故による一時的なものだろうって」
「大体、何で事故なんかにあっているんだ」
貴虎が詰め寄るのに、美樹原は困った顔で視線をそらせた。
本当のことをいうのはためらわれる。
事故の直後、救急車を呼んで、巳琴の母親に電話をかけた。
とんで来た母親には、自分と会って話をしているうちに感情的になった巳琴が、誤って道路にとび出し跳ねられたと言った。
救急隊員にも警察にも、同じことを言っている。
(当たり前……)
車の中で巳琴を襲ってしまい、それで逃げ出した巳琴が跳ねられたなどとどうして言えるだろうか。
いや、巳琴が言えというなら言うだろう。言って、母親に土下座することだっていとわない。
しかし、それは巳琴がそうして欲しいと言った場合。
この嘘はとりあえず、巳琴を守るためでもあったのだ。
「お兄ちゃんっ」
鋭い声に振り向くと、宇喜多兄弟の母親が腰に手を当てて仁王立ち。
「あなたが勝手に家を出て行ったりするから、ミコちゃんが心配して捜しに出たんでしょっ!そして、いないから美樹原さんを呼び出したのよ」
美樹原を見て、ねっ!と念を押す。美樹原は曖昧に頷く。
「あなたを捜して、道路にとび出したのよ。美樹原さんがいなかったら、どうなっていたか……」
母親の言葉に、美樹原は良心が疼いた。
「俺を……捜して……」
さすがの貴虎も神妙な顔。美樹原は二人の顔が見られない。
「わるかったな、ミキ」
貴虎が頭を下げたとき、美樹原の良心の呵責は最高潮に達した。
(しかし、本当の事は言えない……まだ……)

巳琴の記憶が戻るまでは、この嘘を続けていくしかない。




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