夜になって、貴虎が帰って来た。
「お兄ちゃん、ご飯は?」
母親がたずねるのに
「食ってきた」
ひと言応えて、自室に入る。
巳琴は、隣の部屋でその物音に聞き耳立てながら、明日からどういう顔をして貴虎に会えばいいのかと考えた。
(同じ屋根の下に住んでいる相手に失恋したときって、大変なんだ……)
いつの間にか、自分が失恋した立場になっている巳琴。
兄の部屋からの物音は、珍しくいつまでも続いている。
(タンスを開けている?)
なんだろう、と巳琴が不思議に思った頃、貴虎の部屋のドアが開く音がした。
続いて、母親の声。
「お兄ちゃん、どこ行くの?こんな時間に」
「友達んとこ」
貴虎の返事に、巳琴は驚いて部屋を飛び出した。
「友達って、あなた……」
「しばらくそっちに泊まるから、なんかあったら携帯に電話して」
玄関で靴を履く貴虎の後ろ姿に巳琴は叫んだ。
「兄さんっ」
貴虎は一瞬手を止め、けれども何事も無かったように背中を向けたまま靴紐を結んで、立ち上がった。
「兄さん……」
今度は弱々しげに呼びかける巳琴に、貴虎はゆっくり振り向いた。
「元気でな」
まるでもう二度と会えないような口ぶりに、巳琴はその場に凍りついたように固まる。
玄関のドアを開けた貴虎を母親が追いかけて
「ちょっと!どこに泊まるのかくらい言って行きなさいっ」
怒鳴っているが、巳琴の耳にはもう入ってこなかった。
(兄さんが……)
去ってしまった。



「まったく、お兄ちゃんは、いつも……」
母親はぶつぶつ呟きながらリビングへと戻っていく。結局のところ、しっかり者の長男のことはそれほど心配していないのだ。
巳琴は呆然と玄関に佇んでいたが、
「ミコちゃん、お兄ちゃんのことはいいから、部屋に戻りなさい」
声掛けられて、はっと我に返った。
衝動的に玄関を飛び出した。
「ミコちゃん?」
母親の声も聞かずに道路に出て、きょろきょろと見回したけれど、貴虎の姿はなかった。
そのまま駅に向かって走った。
どうしてだか、このまま貴虎と会えなくなってしまうような気がする。
「兄さんっ」
駅まで巳琴にとっては全速力で走ったけれど、それでも貴虎には追いつけない。巳琴は知らないことだが、貴虎は大通りに出てすぐやってきたタクシーに乗り込んでいた。学生の分際で生意気だが、貴虎はそういう男だ。
駅まで走って、ぜいぜいと荒い息をつきながら貴虎を捜すけれども、やっぱりいない。
巳琴は途方にくれて、フラフラとベンチに歩み寄り、崩れるように腰掛けた。
無意識にパーカーのポケットに手を入れると、固いものが触れた。
携帯電話だ。
少し前に弘明から掛かって来たとき、そのままポケットに突っ込んでいたもの。
巳琴は貴虎の番号を押した。
何を話せばいいかわからない。けれども、このままでは貴虎を失ってしまいそうで――それは自分から決心していたことだったけれど――とにかく、もう一度、貴虎と話がしたかった。祈るような気持ちでコール音を待ったが、聞こえて来たのは『電波の届かないところにあるか電源が入っていないので掛かりません』と言う、無機質なメッセージだけだった。
(兄さん……)
悲しくなった。
心細くて、寂しくて、どうしていいかわからなくて、巳琴はもう一度携帯電話を鳴らした。
今度の番号は、すぐに応対があった。
『どうしたの?ミコトくん』
「美樹原さん……」
『どうしたの?何かあった?』
「兄さんが……」
『タカトラがどうしたの?』
「兄さんが……出ていっ……」
『ミコトくん?泣いてるの?』
「出て…って……兄さん……もう……」
『ミコトくん、今、どこにいるの?』
「う……」
『ミコトくん』


美樹原は、ものの十分たらずでやって来た。愛車のRX−7(スピリットR)をかっ飛ばして。
「ミコトくん」
「美樹原さん……僕……」
どうしていいかわからない。
「兄さんが……出て行ってしまったんです」
眼鏡の奥の瞳を潤ませる巳琴を見て
「とにかく、車に乗って」
美樹原は、助手席のドアを開けると押し込んだ。
「どうしよう…どこに行ったんだろ……」
顔を歪めて呟く巳琴を横目で見ながら車を走らせる。
「タカトラの行ったところなんて、すぐにわかるよ」
とりあえず落ち着ける場所ということで自分のマンションに向かうあたり、下心が全く無いとは言えないが、それよりも
「僕と、顔をあわせたくないから……だから、出て行ったんです……兄さん……」
貴虎を思ってべそべそ泣く巳琴に、ほんの少しだけ苛ついた。
「ミコトくんは、タカトラから卒業しようとしたんでしょう?」
「え?」
巳琴が顔をあげる。
「タカトラを好きでいるのは辛いから、離れようと思ったんでしょう?」
「美樹原さん……」
美樹原は、突然車を端に寄せて止めた。
じっと巳琴を見つめて言う。
「だったら、タカトラが出て行ったのは、ミコトくんにとっても良かったんだよ」
「……でも」
眼鏡を外して涙を拭う巳琴の、伏せた睫毛が不安げに揺れるのを見て、美樹原はそのまま眼鏡を奪うと巳琴に覆い被さった。
「言ったでしょう、僕がタカトラのことは忘れさせてあげるから」
「あ……」
助手席のシートに背中を押し付けられ、巳琴は美樹原の口づけを受けた。
「んっ、う…」
抗っても、許してもらえない。
美樹原は深く口づけながら、右手で巳琴のシャツを捲り上げた。
(やっ)
美樹原の指が性急に胸を弄り、尖りを愛撫しようとした時、巳琴は後ろ手に助手席のドアを開けた。
開いたドアから転げ落ちるように車外に出ると、運転席から身を乗りだしていた美樹原が驚いた顔で見上げる。
巳琴は、そのまま駆け出した。
「ミコトくん、待って」
美喜原が叫ぶ。
「危ないっ!」
急ブレーキをかける派手な音。
避けそこなった車が、電柱に激突する。
跳ね飛ばされた巳琴の身体が宙に浮いたのを、美樹原はスローモーションのように見た。



* * *


目を覚ました巳琴が最初に目にしたのは、真っ白な天井だった。
「ミコトくんっ」
「ミコちゃんっ」
美樹原と巳琴の母親が揃って大声を上げ、看護婦さんに
「お静かにお願いします」
やんわり注意された。
頭を包帯でグルグルに巻かれた巳琴は、じっと二人の顔を見て徐に言った。
「ここは、どこ?あなたは、誰?」
美樹原と母親が凍りついた。

『僕が忘れさせてあげるから』
決してそういう意味じゃなかったはずだ。





HOME

小説TOP

NEXT