『ミコトのこと、たのむ』 聞き間違いかと、美樹原は思った。 あの貴虎がそんな言葉を吐くとは、天地がひっくり返ってもありえない。そう思ったが 「何、ぼけっとしてんだよ」 貴虎が不機嫌そうに言うので、美樹原ははっとして返事した。 「あ、ありがとう」 「礼言われる筋合いないだろ。頼んだのはこっちなんだから」 貴虎は、ジーンズのポケットから千円札を二枚取り出すと、立ち上がりながら叩きつけるようにテーブルに置いた。 「用件は、済んだな」 「……あ、ああ……」 美樹原を一人残して、貴虎は店を出て行った。 美樹原は貴虎の言葉を胸の内に繰り返して、例えようのない幸福感を味わっていた。 『ミコトのこと、たのむ』 「あああ……」 思わず頬が緩む。 嬉しさのあまりテーブルに突っ伏してしまう。突っ伏したまま考えた。 (早くミコトくんに、このこと言わないと……) 貴虎は不機嫌に大股で歩いていた。突然後ろから腕をつかまれる。 「タカトラ、ここまで来たんなら部室寄っていきなさいよ」 長身の美女。ディズニーシーで貴虎と一緒だった相手。 「アキヒコ」 「やめてっ」 長身美女は、眉間におもいっきりしわを寄せた。 「どうしたのよ、タカトラ」 アキヒコと呼ばれた美女――いや、女ではなかった――は、再び歩き出した貴虎に並んで歩く。 「あんたがワタシを本名で呼ぶときって、すっごく不機嫌なときよね」 「ほっとけよ」 「ほっとけないわよ。まさかと思うけど、昨日のことで何かあった?」 美樹原の言った台詞 『アキのこと、お前の恋人じゃないかって心配してた』 それについては少しばかり気にかかっていたアキである。 「ワタシがディズニーシー連れて行けって言ったのが、まずかった?」 「別に……」 確かに今回のきっかけにはなったかもしれないが、巳琴と自分との問題はもっと以前からのものだ。自分の頓着しない性格が、知らずに巳琴を傷つけていた。 そう考えて、貴虎は無意識に奥歯を噛みしめた。その表情にアキが言った。 「やっぱり、まずかったのね」 「アレは、賭けで負けたんだからしょうがない」 「でもー」 「うっせえな。関係ないって言ったら無いんだよ」 「関係ないなら、そんな怒ることないじゃないっ」 「ウザイんだよ、オカマっ」 「きゃあ!やめてっ!!そのオカマっていうのっ!!!」 「オカマをオカマと呼んで何が悪い」 と、貴虎たちが往来で悪目立ちしていた頃、巳琴はようやく弘明に解放されていた。 (弘明くん、何か勘違いしている……) 自分がまるで兄から暴力を受けているように言われ、何度『違う』と言っても、兄が恐くて本当のことが言えないのだとしか思ってくれない。 「弘明くんって、けっこう思い込みが激しいんだ……」 抱きしめられたことも思い出して、巳琴はちょっと赤くなった。 そこに携帯のベルが鳴る。 「あっ」 美樹原の名前を見つけて、心臓が跳ねた。 「も、もしもし?」 「あ、ミコトくん?今、どこ?」 「学校の近くです。もう、駅に近い……」 「ちょうど良かった。会って話がしたいから、そのまま電車に乗ってうちの駅で降りて」 「えっ?」 「僕も急いで行くから、あの二階の喫茶店で待ってて」 「あ、はい……」 昨日のことを思い出し、巳琴はドキドキと鼓動を早めた。 そのドキドキは、愛する人に会う喜びからというよりはむしろ、これからのことに対しての不安から。 (本当に、美樹原さんとお付き合いするのかな) 巳琴には、もう何がなんだかわからなくなっていた。 「それでね、タカトラが僕に、ミコトくんのこと頼むって……」 喫茶店で向かい合った美樹原が、美しい顔で微笑む。 巳琴はその言葉に、思いの外のショックを受けた。 (僕のこと……美樹原さんに……) 貴虎がそう言ったということは、完全に自分のことは切ってしまったのだ。 もう、自分のことは、どうでもいいのだ。 好きでも何でもないのだ。 兄さんのこと好きでいるのは辛いと自分から別れるつもりで言ったのに、この美樹原の言葉は心臓を抉る。 「そ……う、ですか」 下を向いてしまった巳琴に、美樹原はそっと手を伸ばした。 「ミコトくん」 怪我していないほうの頬をふわりと包んで上を向かせると、涙の滲んだ瞳を覗き込んで優しく囁いた。 「まだ……辛いかもしれないけれど……僕がタカトラよりずっとたくさん、君を愛すよ」 そっと身体を乗り出して、顔を近づける。 「僕が、忘れさせてあげるから……」 ついばむように口づける。 巳琴の閉じた瞼の端から、涙の雫が糸を引いて零れた。 ここはごく普通の商店街の喫茶店。二つはなれた席に座っていた客が目を瞠った。 通りかかったウェイトレスは、トレイを落としかけた。 喫茶店のママ、三十三歳独身実はヤオラー、はカウンターの奥から身を乗り出した。 しかし、それぞれの思いでいっぱいの二人には、赤の他人の目など気にならなかった。その時は。 * * * 家に帰ると、巳琴は珍しく着替えもせずにベッドに横になった。 美樹原と喫茶店を出る時になって初めて、自分が店の中でキスシーンを演じてしまっていたことに気がついて、地球の裏まで穴を掘って入りたくなった。 美樹原は堂々としたもので、喫茶店のママが 『彼?可愛いわね』 と、目尻を下げて言うのに、 『ありがとうございます』 と、巳琴の肩を抱いて答えた。 『じゃあ、ミコトくん、また明日ね』 そう言って微笑んだ美樹原の顔を思い浮かべると、その横には貴虎の顔が浮かんでくる。 「兄さん……」 諦めようと思ったのに、その兄に見捨てられたという思いはこんなにも胸を苦しくする。 両腕を重ねて額に当てて、しばらくじっとしていたが、ふと思いついて身体を起こした。 机の引き出しから日記を取り出す。 こんな辛い気持ちも、混乱している気持ちも、文章にしてしまったら少しは落ち着くのだろうか? 悩みがあったら日記に書け、読み返してみたら大したことじゃない――そう教えてくれたのは他ならぬ兄、貴虎だ。その兄は、日記などつけるタイプではなかったが。 日記をつけようかと思いパラリと開くと、そこにぎっしり書かれた兄への想いに目眩がした。 (こんなに……) 貴虎のことが好きなのだ。 巳琴はまた涙が出そうになった。 それをぐっと我慢して、日記帳を閉じる。 (ダメだ、こんなんじゃ) 巳琴は思い切って立ち上がった。日記を持って、下におりる。 「燃やしてしまおう」 巳琴の目が、涙で充血したそれが、ちょっと据わっている。 (兄さんのこと本当に諦めるなら、いつまでもこんなもの持ってちゃダメだ) 庭で燃やそうと思ったけれど芝生が燃えると大変だ。裏庭の狭いスペースに剥き出しの地面があるのを見つけて、そこに枯葉を集めた。 しかし、初秋とはいえまだまだ枯葉の季節ではない。その上、都心の住宅街。それほど樹木に恵まれているわけでもなく、燃やすには全然足りない。 (もっと集めなくちゃ) 竹箒とちりとりを持ってきて、家の外でレレレのおじさん(古いですか?)よろしく枯葉をかき集めていると、そこに母親が買い物から帰って来た。 「あら、ミコちゃん、お掃除してくれているの?」 「あっ」 「えらい!えらいわ、ミコちゃん」 「う、ううん……これは」 「昨日、帰りが遅くなったから、反省しているのね」 「ちが……」 「いいのよ、もう。ほら、おやつ買って来たから早くお家に入りなさい」 「あ……」 そして戸惑っている巳琴の背中を押しながら玄関に入った母親は、下駄箱の上に白いノートが置いてあるのに気がついた。 「あら、これ何?」 「わあっ」 巳琴の秘密日記だ。 手にとってまさに開こうとする母親から慌てて奪うと、巳琴はバタバタと階段を駆け上がった。 自分の部屋できょろきょろと見回して、咄嗟にベッドマットの下に隠した。 「ミコちゃん、どうしたのよ?」 母親が、顔を覗かせる。 「なんでもない」 「じゃあ、おやつ買って来たから、手を洗っていらっしゃい」 「うん」 結局、燃やすタイミングを逃してしまった。 |
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