大学に行く気にもならず、貴虎はベッドにごろりと横たわっていた。 天井を見つめて、巳琴の言葉の意味を考える。 『兄さんのこと好きでいるのって辛いってわかった。美樹原さんなら、辛くない』 「何でだよ……」 思わず口を付いて出る。 何故自分を好きだということがつらいのか―――? (実の兄弟だからか?) 実の兄弟だから――血がつながっているから、ダメなのか? 貴虎はそう考えた。 自分ではダメで美樹原ならいいという事実に、真っ先に思い当るのはそれくらい。 (確かに、あいつは妙に固いところがあるからな) 巳琴の性格をつらつらと思いやる貴虎。 (でも、そんなのホモになった時点で一緒じゃねえか) ムッと眉間にしわを寄せる。 巳琴の顔と美樹原の顔が同時に浮かぶ。 『美樹原さんなら、辛くない』 (う…) 巳琴のこの言葉は、思った以上に貴虎の胸を抉っていた。 今まで何につけても挫折とか敗北とかというものに無縁だった貴虎が、今、人生で最初の敗北感を味わっている。 慣れない胸苦しさに寝返りをうったとき、携帯の着信音が部屋に響いた。 手を伸ばして、表示を見て額のしわが深くなる。 (美樹原) 今、一番、話などしたくない男。 そのまま携帯を放り投げた。 着信音が消え、留守番電話に切り替わる。 貴虎はふいに思い直して、携帯を掴んだ。 「なんだ」 「あ、起きてた?」 「ああ」 「授業、出ないのか?岩淵、今日レポート締めだろ」 「…………」 何で、そんなこと? 美樹原が自分の単位を心配して電話を掛けてきたとは思えない。 貴虎が黙っていると、美樹原はため息混じりに言葉をつないだ。 「なんてね。そんな用じゃないんだけど」 「だろうな」 「昨日、話が途中だったろ?」 「ああ」 「出て来いよ。話がしたい」 「ああ」 それで自分も携帯に出たのだ。貴虎は頷いて時計を見た。 「スィングに、二時」 「わかった」 音をたてて携帯を閉じると、貴虎は跳ね起きた。 スィングというのは大学の近くの喫茶店だ。しかしながらこのご時世にコーヒー一杯九百円もするので大学生は滅多に入らない。スノッブな教授連や近隣の有閑主婦、そしてちょっと背伸びしたい女子大生の御用達。コーヒー豆と食器にこだわりのあるマスターの趣味の店だ。 貴虎たちのサークルも、普段はもっと安くて長居のできる喫茶店を集会所にしている。 けれども、人に聞かれたくない話をするには、テーブルが離れている上にいつも半分くらいしか埋まっていないその店は都合が良かった。 入り口から一番奥の観葉植物に隠されたような席で美樹原は待っていた。 貴虎の長身が喫茶店のドアを開けて入って来たとたんに、店中の女性の視線が注がれた。 「待たせたな」 「いや」 チラチラとこっちを見る女子大生の視線を感じて、美樹原は苦笑した。 (どうして、この男は……) フェロモンを撒き散らして歩いているんだろう。 (これじゃ、ミコトくんが落ち着かないのも無理ない) 笑いを堪えたような美樹原の表情に、貴虎はあからさまに嫌な顔をした。 オーダーを取りに来たウェイトレスにブレンドを頼んで、貴虎は美樹原を睨んで言った。 「昨日のことだが」 「ああ、待って」 美樹原が片手を上げて遮る。 「先に謝らせてくれないか。ミコトくんを怪我させたのは僕だ」 美樹原の言葉に、貴虎は口をつぐんだ。 「僕が引き止めて帰りを遅くしてしまったのはもちろん。あそこで、ミコトくんが僕を庇ったりしなかったら、あの可愛い顔が殴られることはなかったんだから」 美樹原の言葉に貴虎はカッとした。 巳琴が美樹原を庇ったというのをことさら強調された気がする。 貴虎の気配に、 「頼むから、ここで僕を殴るとかはよしてくれよ」 美樹原が冗談ともつかない口ぶりで言うと、貴虎は椅子を引いて座りなおし、長い足を組んだ。 「そんなことするかよ。話し合いに来たんだからな」 「助かるよ」 美樹原は、繊細な造りの顔を優雅に綻ばせた。 * * * 「守る……って?」 その少し前の話。巳琴は学級委員長吉村弘明の言葉にきょとんとして訊ね返した。 「だから、お前を兄貴から守ってやるよ」 「はい?」 「家に帰りたくないなら、俺んちに来ていいぜ」 「そ、んなことないよ?」 「だって、殴られたりするんだろ?」 「ちがうよ、これは……」 巳琴は慌てて手を振る。 「たまたま、偶然あたっちゃって……」 「たまたまっ?」 そんなことあるはずがない。と、弘明は思った。 『たまたま偶然』当たっただけで、こんなひどい怪我になるわけがない。 もしそうなら、それこそ危険人物といえよう。歩くだけで周りを破壊するクラッシャー。 しかしこの場合、巳琴は兄を庇っているのだと弘明は理解した。 「無理すんなよ。俺にだけは、本当のこと言っていいんだから」 「本当の?」 「他にも、色々されてんじゃねえのか?」 「えっ?」 巳琴の心臓がドキンと鳴った。 「親は知ってんのか」 兄の暴力を。 「お、かあさんたちは……」 巳琴は赤くなった。 「知らないのかっ? そうだよな、当たり前だよなっ、そんなの知っていたら、許すわけねえよな」 兄の暴力を。 「……うん」 巳琴の中では話がすり替わっている。貴虎と自分の関係。 「俺、お前のこと、心配……」 「弘明くん?」 「俺でよかったら……相談に乗るから」 学級委員長の真摯な瞳に、巳琴は感動した。 (どうしよう……) 相談してしまうのか? その時、始業の予鈴が鳴り響いた。 どやどやと皆が教室に入って来る。巳琴もはっとして、 「あ、じゃあまた後で」 そう言って、席についた。 隣の席の武志が、やはり心配そうに話し掛けてきた。 「その顔、大丈夫か?」 「うん……」 「昨日、アレからどうした」 「あ、あれから……」 巳琴が言いよどむと 「こら、そこ、おしゃべりしない」 いつの間にか担任の中村先生が前に立っていて、身を乗り出している武志にチョークを投げつける真似をした。 「ち、また後でな」 武志が椅子に座りなおす。 巳琴は助かったと胸をなでおろした。 (やっぱり、あんなこと、誰にも相談できないよ) 斜め前に座る弘明を見て、胸の中で手を合わせた。 (ごめんね、弘明くん。どうもありがとう) しかし、弘明はしつこかった。 放課後、巳琴を呼び出して、二人っきりになると朝の話題を持ち出した。 「なあ、俺にだけ、本当のこと言ってくれよ」 「それは……」 「お前が嫌なら、誰にも言わない」 むしろ、誰にも言いたくなどない。 弘明にとって、巳琴から相談されるとか、二人だけの秘密を持つとかいうのは、この上なく嬉しい状況だ。 「お兄さんのこと……悩んでんだろ?」 巳琴は、無意識に頬を押さえた。 貴虎に殴られた怪我は痛むけれど、それよりも 『悪かった』 そう言って、優しく触れられた感触のほうがよみがえる。 その兄と別れるのだ。これからは、美樹原と付き合うことにしたのだ。と、そう考えると胸が痛くなって、つい涙ぐんでしまう。 「巳琴っ!」 弘明は、巳琴の肩を掴んだ。 「え?」 顔を上げた巳琴は、目許を赤くして瞳を潤ませ、困ったような表情が頼りなさげ。頬に張られたばんそう膏も痛々しくて、学級委員長気質の弘明の保護欲をかき立てるには十分だ。 「俺が……俺が、お前を守るからなっ」 すっかり何かを誤解している弘明は、巳琴を抱きしめた。 そのころ貴虎は、美樹原と向かい合って二杯目のコーヒーを飲んでいた。それも、すっかり冷めている。 「……だから、僕たちが付き合うのを認めて欲しいんだよ」 美樹原は、テーブルの上に乗せた長い指の爪の先を弄びながら言った。 美樹原の考えごとをするときの癖だということを、貴虎は知っている。 それも、ひどく真剣に考えているときの。 「ミコトは、お前のこと……」 貴虎は自分の声がかすれそうになるのに気が付いて、もう一度カップに口をつけた。 「お前のこと、好きなのか?」 美樹原は、それには答えなかった。 「少なくとも、僕はミコトくんのことが好きだ」 「お前の気持ちは関係ない」 「あるよ。ミコトくんは、愛されたがっているんだから」 カップを手にしたままの貴虎は、上目遣いに美樹原を見た。美樹原は伏し目がちに、まだ爪の先を弄りながらゆっくりと言葉をつなぐ。 「ミコトくんはね、不安なんだよ。タカトラはミコトくんのことを好きだとか言いながら、他の女と遊び歩いているし。実際、僕の目からみても目にあまる……」 「お前に、関係ない」 「だから、あるって」 「…………」 「ぼくはミコトくんが好きだから、その彼が辛い想いをするのが嫌なんだよ」 (辛い……?) 『兄さんのこと好きでいるのって辛いってわかった。美樹原さんなら、辛くない』 巳琴の言葉がよみがえる。 貴虎は、眉間にしわを寄せて言った。 「ミコトがお前に何か言ったのか?」 「何も」 「だったら、何で……」 「何で、ミコトくんが不安だってこと、わからない?」 逆に言い返し、美樹原は冷たいともいえる目で貴虎を見つめた。 「タカトラが何かで不安になったり、怯えたりするような性格じゃないのは知ってるけどね。でも、ミコトくんが自分と違うってことも知ってるんだろう?」 「俺と……」 貴虎は目を伏せた。 巳琴が自分と同じだなどと、今まで一度だって考えたことなどない。 幼稚園から今の今まで、ずっと『似ていない兄弟』と言われ続けてきたのだ。 「俺が……他の女と、遊んでるのが……嫌だって?」 「はっきりとは言ってないけどね。好きな相手が自分以外の人と遊んでるのを喜ぶヤツがいるか?」 「遊んでる……か」 「だろ?」 「確かに」 貴虎は、クッと笑った。 (遊んでる……その通り、遊びでしかなかったんだがな……) 男だから三日もセックスしないとタマってくる。 しかし、愛する巳琴とは一度も最後までできなかった。巳琴が、ひどく痛がるから。 自分でヌクこともできるけれど、貴虎には誘いが多すぎた。 『右手でだってヌケる』 巳琴にはそう言ったこともあったけれど、実際、そうでもしないと収まらない夜も多かったけれど……右手がわりに遊びと割り切った女と寝たことも無いとは言えなかった。 巳琴を抱けなかった日に、自分でヌクなんて虚しすぎる。 そう思って、グルーピー化しているファンの子を呼び出したこともあった。 (でも……その時、ミコトはどう思ってたんだろうな) あからさまに女とヤルことを知らせるような真似はしなかったけれど、家にいない貴虎を心配して、そして色々と考えただろう。 すぐに悩むところがあるから、余計な想像までして、ひょっとして一人で泣いたりしたかも知れない。 巳琴の顔を思い浮かべ、胸の奥が痛むのを感じた。貴虎には珍しいこと。 「お前は、右手の代わりに女と寝たこと、ないのか?」 その言葉に美樹原は眉を顰めた。 「少なくとも……セックスの相手を右手の代わりなんて思ったことはないね」 「そうか……」 「それに、ミコトくんと付き合う事になったら、絶対に他の女と寝るようなことはしないよ。僕はね」 それを聞いて貴虎は言った。 「確かにお前のほうが、ミコトにとっちゃ、いい相手なんだろうな」 「タカトラ?」 『美樹原さんなら、辛くない』 巳琴はそう言ったのだ。 「ミコトのこと、頼む」 |
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