もともと翌日学校がある巳琴のことを考えてホテルに宿泊するつもりはなく、目覚し時計は夜九時にセットしていた。
「シャワー浴びたら、軽くご飯食べて帰ろう」
美樹原の言葉に、巳琴は黙って頷いた。

ホテルの真っ白なバスルームで、巳琴はシャワーを浴びながら自分の身体をそっと点検した。
喉元、鎖骨の下、そして胸の周りに紅い斑点がついている。
これがキスマークだということは、もう知っている。
大きな鏡に背中を映すと、うなじに散った紅い痕だけでなく、右肩に薄く歯型が残っていて驚いた。
そっと擦って痕を消そうとしたが、もともと白い肌が紅くなっただけだった。
だんだん恥ずかしくなって顔に血が上ってくる。
壁にコツンと頭をつけて、ため息をついた。
(兄さん……)
本当に、美樹原とつき合った方がいいのか、実のところよくわかっていない。
でも、美樹原とこういうことになったのなら、それが自然なのかもしれない。
貴虎とは、二、三度こういう機会があったけれど、結局最後まで出来なかったし、その度に貴虎が嫌そうな顔をするので巳琴は密かに傷ついていた。
最近では、貴虎も無理に迫って来ることもなくなっていた。
(そのかわり、出歩くことが増えたんだよね……)
自分じゃダメだから貴虎が外で女の人と遊んでいるのだと思うと、巳琴は辛かった。
だから、貴虎の外のことはあまり考えないようにしていた。
ライブだって見たくないとあれだけ拒んだのは、貴虎の周りにいる女性を目にしたくなかったのだ。
(苦しい……)
貴虎のことを考え始めると、胸が苦しくなる。
そのまま、ずるずるとしゃがみこむ。

この苦しい気持ちが『真剣に好きだから』だという事実から、巳琴は無意識に逃げようとしていた。

「ミコトくん、大丈夫?」
美樹原がバスルームのドアを開けて覗き込んだ。
「あんまり長いから、倒れているのかと思った」
「あ、大丈夫です」
巳琴は立ち上がった。恥ずかしくて後ろを向くと、美樹原がシャワーのお湯を止めてバスタオルをかけてくれた。フワフワの大きなタオルに包まれて、巳琴は安心した。
美樹原がフェイスタオルを取って、巳琴の髪の雫を拭う。
「自分で……」
「いいよ。疲れているみたいだし、そこに座って」
ユニットバスの縁に座らせて、巳琴の髪をタオルで包んで優しく水気を吸い取って行く。
巳琴はその指の感触に、うっとりと瞳を閉じた。
「美容師とか、なってみたかったな」
冗談っぽく言う美樹原に、巳琴は小さく笑った。
(やっぱり、美樹原さんといる方が落ち着ける気がする)
気が休まるのと、恋とは別物。
けれど、高校一年生の巳琴にそんなことが分かる筈もなかった。



* * *

家に着いたのは十一時をまわっていた。なるべく急いで食事もそこそこに帰ってきたのだが、それでもかなり遅い時間。
心配しないように電話は入れていたが、巳琴の顔は緊張している。
「ご両親には、僕から謝るからね」
美樹原が励ますように言って微笑んだ。
玄関に近づいた途端、気配を察したらしい貴虎が飛び出してきた。
「ミコトっ!」
厳しい声に、巳琴の身体がビクッと震えた。
美樹原が庇うように前に立つ。
「どけ」
「僕が引きとめたんだ」
「んなこたあ、わかってんだよ。ミコト、こっち来い」
「いた……」
貴虎が腕を強く掴んで、巳琴はちょっと顔を顰めた。
「やめろよ」
美樹原がその腕を取る。
「お前のことは後回しだ。ほら、ミコトっ」
貴虎がなおも巳琴を引っ張ると、美樹原はいつにない強い口調で言った。
「僕の方から、お前に先に話がある」
「何?」
貴虎が美樹原を睨んだ。
巳琴が怯えた目で二人を見る。
「ミコトくんと付き合うことになったから、恋人として」
真っ直ぐに貴虎の目を見据える美樹原。
「……は?」
貴虎は男らしい眉を釣り上げて目を瞠った。
「何、言ってんだお前」
巳琴の腕を放して、貴虎が美樹原に向き直った。
「言ったとおりだよ。ミコトくんは僕の恋人だから手荒な真似はやめてくれ」
「ふ…」
貴虎は息を吐いて
「ふざけんなっ!」
短く叫んだ。
「人んちの弟夜中まで連れまわして、訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ」
「遅くなったことは申し訳ないと思っているよ。でも、僕とミコトくんがそういう関係になったということを、タカトラにも知っておいて貰いたいんでね」
「そ……?」
『そういう関係』――貴虎は、巳琴を振り返った。
頬を赤く染めた巳琴の、怯えた瞳が潤んでいる。
「な、んだよ……」
貴虎が初めて声を震わせた。
巳琴に大股に近づいて、シャツのボタンを引きちぎるように肌蹴た。
「やっ」
「タカトラっ」
巳琴を庇うように美樹原が割りこむ。
巳琴は真っ赤な顔でうつむいている。
貴虎は、巳琴の鎖骨の紅い痕を見逃さなかった。
「こっ、の……」
カッとして美樹原を殴ろうとしたら、
「やめて、兄さんっ」
巳琴が前に出た。
とっさに拳を引こうとしたが間に合わず、巳琴の華奢な身体が地面に倒れた。
「ミコトっ」
「ミコトくんっ」
二人同時に叫ぶと、玄関から母親が飛び出してきた。
「何やってるのっ?」
倒れている巳琴に駆け寄る。
「ミコちゃん、大丈夫?」
貴虎を睨んで
「お兄ちゃん、乱暴はやめなさい」
帰りが遅くなったことで貴虎が怒っているのだと思った母親は、巳琴を立たせると膝の泥をはたいて言った。
「ミコちゃんだって反省しているわよ。ほら、泣いてるじゃない。殴ることないでしょ、まったく、お兄ちゃんは。お父さんより、手が早いんだから」
母親の小言も聴こえず、貴虎は呆然としていた。
自分が殴った巳琴が、唇を噛んで泣いている。みるみる左の顔が腫れていく。
「お母さん、申し訳ありません」
美樹原はさり気なく巳琴の襟元を合わせて、
「僕が、引きとめたものですから、こんな時間になってしまって」
頭を下げる。
「あっ、いいえ、一緒だって電話貰ってましたから……まあ、ちょっと……遅いですけれどね」
「本当に、すみません」
母親と美樹原の会話を聞きながら、巳琴は自分の部屋に走った。
「あ、ミコちゃん?」
母親の声を無視して、シャツの前をかき合わせて、自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドの上に倒れこむ。枕があたる頬が痛い。
でも、それより痛いのは―――。
たった今見た貴虎の顔が浮かぶ。
美樹原を庇ったことが、信じられないという顔をしていた。

(でも、しょうがないよ。僕が悪いんだから…….)


翌朝、巳琴はいつもより一時間も早く目が覚めた。
(昨日、変な時間に一回寝ているからだ……)
けれども、それは都合が良かった。
そっと足音を忍ばせて洗面所に行った。
(うわ……すごい)
貴虎が誤って殴った左の頬は青紫になっていた。
再びそっと湿布薬を取りに行く。まだ両親にも起きてきては欲しくない。まして兄とは、できれば顔を合わせずに学校に行きたかった。

昨日の夜、貴虎が部屋に入って来たとき巳琴は眠ったふりをした。
起こされるかと思ったけれど、貴虎はそっと巳琴の額に手を伸ばして名前を呼び、巳琴が起きないのを知ると自分の部屋に帰っていった。
(ごめんね……兄さん……)

洗面所の鏡を見ながら頬に湿布をしていると、
「ミコト」
後ろから声がかかり、鏡の中に貴虎の顔が映った。
鏡を通して目が合う。
貴虎は、巳琴の顔の大きなばんそう膏を見て眉を顰めた。
「大丈夫か?」
近寄って、巳琴を振り向かせると、そのばんそう膏にそっと触れる。
「あ……」
「悪かった。お前を殴るつもりはなかったんだ」
苦しそうな声の貴虎に、巳琴は微笑んだ。
「わかってるよ、そんなの」
巳琴の胸がきゅっと痛んだ。
貴虎に触れられるだけで、優しい言葉をかけてもらうだけで、今でもこんなに胸が熱くなる。
でも―――
「あの、僕、今日早く行かないと……」
貴虎の腕をすり抜けて洗面所を出る。
「待てよ、ミコト。昨日のこと」
「ごめんね、兄さん」
言い捨てて、巳琴は部屋に戻る。
「待てって」
貴虎の言葉を無視して、巳琴は仕度をした。
「美樹原と付き合うって?」
貴虎が部屋に入って来て、巳琴の前に立つ。
「お母さんたちが起きてくるよ」
「かまわねえよ」
貴虎は両手で巳琴を壁に押し付けるようにすると、逃げられないようにして、じっと見つめた。
「美樹原と……本当に寝たのか?」
巳琴は、顔に血が上るのを感じた。頬がズキズキした。
心臓もそれに負けないほど痛く、鼓動を打つ。
「……うん」
それだけようやく口にすると、貴虎の顔が歪んだ。
「……なんで……」
搾り出すような声。
「何で、そんなこと……」
「ごめんなさい」
巳琴はうつむいた。
「ミコト」
「僕、兄さんのこと、好きだよ……たぶん、一番好き……」
「ミコト」
「だけど、僕じゃダメなんだ」
「何が?」
貴虎の問いには答えず、巳琴は爪先を見つめて言葉をつなぐ。
「そして、ダメだってことに気が付くたんび……辛いんだ……」
巳琴は鼻の奥が痛くなるのを感じたけれど、ぐっと堪えて顔を上げた。
「兄さんのこと好きでいるのって辛いってわかった。美樹原さんなら、辛くない」
巳琴の言葉に、貴虎は息を飲んだ。
その隙に巳琴は貴虎の腕をすりぬけ、鞄をとって階段を下りていった。
貴虎は、壁に背中を預けると、巳琴の言葉を胸中に繰り返した。

『兄さんのこと好きでいるのって辛いってわかった。美樹原さんなら、辛くない』



* * *

「巳琴っ!どうしたんだよ、その顔っ」
教室に入る前に、廊下で弘明に呼び止められた。
「あ、弘明くん、昨日はごめん」
「それより、その顔」
弘明は青褪めている。
「ま、まさか、あのお兄さんにやられたのかっ?」
弘明の言葉に、巳琴は曖昧に笑った。
(そうなんだ!)
弘明は、拳を握った。
あの男、宇喜多貴虎が、この学校始まって以来の秀才だとか運動部の助っ人で数々の伝説を作ったとか、そういったことはもうどうでも良かった。
(あいつは、実の弟に暴力ふるうような最低男だ!)
弘明は、ブルブル震えて言った。
「巳琴っ、お前のこと、俺が守るから」
「えっ?」
巳琴は訳がわからず、小首をかしげた。




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