巳琴が家の中に入ると、淀んだ空気の匂いがした。
(なんだろ?煙草?)
 リビングに足を踏み入れて、ギョッとした。
 ソファに貴虎が座って、こっちを見ている。
「兄さん、帰ってたの?」
 貴虎は何も応えなかった。
 ただ、巳琴の顔を見ている。
 巳琴は落ち着かずリビングを見渡して、閉めきっていたカーテンを開けた。
「部屋、臭くなってるよ。リビングで煙草吸う時は、換気扇とエアコン両方つけろって、お母さんも言ってたじゃないか」
 ソファテーブルの上の灰皿からは吸殻が溢れている。一晩中吸い続けたとしてもこれほどにはたまるまいというほどの量。
「ああっ、灰、落としてるし。怒られるよ」
 巳琴は、朝帰りの気まずさをごまかすように、一人でしゃべりながら、灰皿を片付ける。
 その時、貴虎の目が、目の前でしゃがんだ巳琴のうなじを見た。
 短く綺麗に切りそろえられた髪の先、夏だというのにあまり焼けていない白い首に、その痕はあった。

 薄い赤紫の所有の印。
(っ……)
 貴虎の脳裏に、喉をそらした巳琴の裸体が浮かんだ。
 昨日の夜から、一晩中自分を苦しめた妄想。
 貴虎は、思わず巳琴の肩を掴んだ。
「わっ」
 突然掴まれて、巳琴は灰皿を落としてしまった。
 リビングのフローリングの床に吸殻と灰が散らばる。
「何するんだよ、兄さん」
 汚れた床の悲惨な有様に、巳琴は眉を寄せて貴虎を見上げた。
「美樹原と寝たのか?」
 貴虎は、ぼそりと言った。
「えっ?」
 巳琴は、驚いて貴虎を見返した。
「寝たのか?」
「寝た、って……」
 巳琴の顔が、かあっと赤くなる。
 貴虎は、その表情にカッと来て、巳琴の腕を引くとそのまま自分の座っていたソファに押し倒した。
「やっ、何っ……」
「なんで、あいつとなら出来んだよ」
「兄さん?」
「俺のことが好きだったんじゃ、ないのか?」
 貴虎の目が赤く充血しているのに気がついて、巳琴は、ゾクッと背中を震わせた。
 その反応に気がついて、貴虎は唇を歪めて笑った。
「なんだよ、恐いのか? 俺が」
「や、やだ……」
「何が、嫌なんだよ」
「やっ、やめてよ。にい、さん……」
 巳琴が怯えた顔で見つめるのを、貴虎もじっと見つめたまま、噛み付くように口づけた。
「んっ…」
 巳琴が喉を逸らす。
 貴虎は、巳琴をソファに押し付け、体重をかけて抵抗を封じた。
「んんっ」
 巳琴の顔が左右に揺れる。貴虎は邪魔臭そうに巳琴の眼鏡を取ると、 テーブルの上に投げ捨てた。
 左手で巳琴を封じて、空いた右手で、巳琴のシャツを引きちぎるようにはだけた。
(やめてっ!)
 巳琴は、足をジタバタと動かしたが、貴虎の膝に押さえ込まれただけだった。
 貴虎の大きな掌が、巳琴の胸を滑る。
 巳琴の身体が、ビクッと震える。
 貴虎は口づけていた唇を外すと、顔を下ろして、いきなり胸の突起を含んだ。
「ひゃ……っん」
 巳琴が、泣きそうな声をあげた。
「嫌だ、やめて、兄さんっ」
 貴虎は、次第に固くなる巳琴のそれを執拗に舐め、唇の先でくすぐった。
「やっ……」
 ゾクゾクと背中を走る痺れに、巳琴は動揺した。
 けれどもその甘い痺れ以上に、貴虎が自分の薄い胸に口づけている事実が辛い。
 昨日の夜貴虎を取り巻いていたたくさんの綺麗な女性に比べて、固くて貧相な自分の身体。それを、兄の目に晒したくない。さっきカーテンを開けてしまったことも後悔した。リビングに差し込む光のもとで、自分の身体は、みっともないだろう。
「やめて……兄さん」
 ぽすぽすと力なく、それでも懸命に、兄の肩を拳で叩く。
 叩きながら、涙が出てくる。
 何で、こんなことしているんだろう。

『タマってんだけど、やらせてくれる?』

 貴虎の言葉が浮かんだ。
(昨日、女の人のところ、いかなかったのかな……)
 灰皿を見れば、すぐわかったことだ。
 けれども、それだけの量の煙草を吸いながら貴虎が考えていた事までは、巳琴にはわからなかった。
(タマってるから、やりたいのかな)
 そう思ったときに、巳琴の身体から力が抜けた。
(僕なんかで、いいなら……)
 胸がなくても、なんでも。誰でも、いいなら。
 あの女(ひと)たちの所に行かれるよりは、いい。
 巳琴は、そう思った。


 巳琴の抵抗が突然やんだので、貴虎は、顔を上げた。
 僅かに身を起こして巳琴を見ると、巳琴は固く目を閉じて小さく唇を噛んでいた。眉根を寄せた顔が痛々しい。
「ミコト……」
 呟くと、巳琴はそっと目を開けた。
 いつもは眼鏡のおかげで目立たない長い睫毛が揺れる。
 大きな瞳が、じっと貴虎を見つめる。
 貴虎は、自分のやっていることに気がついて、息を飲み込んだ。


 昨日の夜。
 最後に美樹原の胸に抱かれた巳琴の姿が頭からはなれず、一睡も出来なかった。一晩中、巳琴が美樹原に抱かれている想像に悩まされた。そして、巳琴のうなじのキスマークに、自分を失うほどのショックを受けた。――今まで、どんな相手にも感じたことのない、気の狂いそうな嫉妬。


「悪い」
 貴虎は、のろのろと起き上がった。
 巳琴は、訳がわからずに貴虎を見返す。真っ直ぐな瞳が胸に突き刺さった。
「もう、しねえよ」
 そう言ってから、貴虎は
「って、この前も言ったか」
 はは……と、乾いた笑い声を上げる。
「兄さん?」
「ごめんな、ミコト」

 立ち上がる貴虎に、巳琴は、すがりついた。
「待って、兄さん」
「ミコト?」
「やっ、嫌だ……」
 巳琴は、ボロボロ泣きながら貴虎の腰に腕を廻す。貴虎の腹に顔を擦りつけるようにして、泣いて訴えた。
「行かないでよ……あの人たちのとこ……」
「え?」
「僕じゃ、ダメ、なんで、しょ……でも、嫌だ。行かないで」
「ミコト?」
「やだ……嫌だ」
 一度は覚悟を決めたのに、また貴虎は去っていこうとする。
『もう、しねえよ』
 それは、別れの言葉にもきこえた。

 自分の身体の魅力のなさは、充分わかっているけれど、もう昨日みたいなことが繰り返されるのは耐えられない。巳琴は、貴虎のシャツを握り締め、行かないでくれとすすり泣いた。




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