「大丈夫?」
 美樹原は、巳琴を店の外に連れ出した。
 喧騒が消えて、巳琴は、ようやく息ができるようになった。
 さっきまで、胸が何かにふさがれたように苦しかったのだ。
「あ、あの……」
「ミコトくんが、泣きそうに見えたんで、つい余計なことしてしまったんだけど、悪かったかな」
「い、いいえ……」
 事実、あのままあそこにいたら泣いていたかも知れない。
 綺麗な女性に囲まれた貴虎の姿が甦る。

『タカトラには、全然似てないの』
『似てない、似てない』
『おとなしそーな、メガネ君』
『つまらなかったわね』

『おかげで、タマってんだけど、やらせてくれる?』

 ぐっと吐き気が込み上げて、巳琴はその場にうずくまった。
「ミコトくん?」
 美樹原も慌てて、添うようにしゃがみこむ。
「あ、大丈夫です」
「顔色、悪いよ」
「夕飯……あたっちゃったのかも」
「何、言って」
「本当に…だい……」
 無理に立ち上がろうとして、巳琴の身体がグラリと揺れるのを、美樹原は両腕で支えた。
「送って行こう」
「いえ……」
 そう言いながらも巳琴は苦しそうに口許に手を当て、身体を曲げる。
「無理しないで」
 美樹原は、胸で巳琴を支えた。
「すみま、せん……」
 そこに、貴虎が店から出て来た。
 やっぱり巳琴が気になって、飛び出してきたというところ。
 美樹原の胸にすがりつく巳琴を見て足を止める。美樹原は巳琴の頭を抱くようにして、静かに貴虎を見つめた。
 巳琴には貴虎が見えていない。ただ吐き気を堪えて小さく喘いでいる。

 貴虎と美樹原はしばらく見つめ合い、そして、貴虎は黙って店に戻って行った。





* * *

「大丈夫?」
 もう何度目かの言葉を繰り返し、美樹原は巳琴の背中をさする。
「は、い」
 ここは、美樹原のマンション。
 吐きそうになっている巳琴を見て、タクシーを拾うと、美樹原は、自分の家のほうが近いと言って行き先を告げた。
 トイレで吐いた巳琴は、涙目で振り返る。眼鏡はとうに外されていた。
「本当にすみません」
「いいんだよ。本当に、あたっちゃったのかな」
「ずっと抜いてて…夜、急に食べたから、たぶん、胃が……」
 昔から、胃も腸も強い方ではない。
「病院、行かなくてもいいかな」
「はい……」


 ようやく落ち着いて、顔を洗わせてもらって柔らかなタオルで拭うと、巳琴は眼鏡を探した。
「どうしたの?」
「あっ、眼鏡を」
「リビングのカウンターに置いてあるけど」
 巳琴がそれを取りに行こうとするのを、そっと止めると
「かけなくてもいいでしょ。見なきゃいけない物も無いよ」
 美樹原は笑った。
「でも……」
「ミコトくんは、寝るときも眼鏡かけるの」
「いえ、まさか」
「だったら、かけなくていい。今日はもう遅いから泊まっておいで」
「え?」
 時計を見て驚いた。
(もう、こんな時間)
 思えば、貴虎を探しに出た時、もう七時を回っていた。
 その後電車にも乗って、三軒、店を探したのだ。
 そして――――。
 巳琴は、溜息をついた。
 美樹原に迷惑をかけている自分が嫌になった。
「遅くまで、すみません。帰ります」
「なぜ?泊まっていけばいい」
「でも」
「何も、しないよ」
「そっ……」
 巳琴の頬が赤くなった。
「……そう言う意味じゃ、ありません」
 小声でうつむく巳琴の、睫毛が揺れるのを見ながら、美樹原は優しく囁いた。
「リビングのソファをベッドにするから、そこで休むといいよ」
 巳琴は、まだ迷っているように、うつむいたまま。
「帰っても、一人じゃ心細いでしょ?」
 美樹原の言葉に、巳琴は、はっと顔を上げた。
(帰っても、独り…….)
 貴虎は、女の人の所だろう。
 あの家に帰っても、誰もいない。
 巳琴は、また、胃が疼くような気がした。
 心細げに揺れた瞳を、美樹原が見逃すはずも無く
「終電だって、もう無くなる」
 巳琴の肩に手を廻して、ゆっくりと促がした。


「寂しかったら、僕もここで寝るけど?」
 冗談っぽく訊ねる美樹原に首を振って、巳琴はソファベッドに潜り込んだ。美樹原のパジャマは意外に大きくて、中で身体が泳ぐようだったけれど、柔らかな布の肌触りはまるで美樹原自身のように心地いい。
 急に眠気が襲ってきて、巳琴は横になった。上下の瞼が閉じそうだ。
「ご迷惑……おかけして……すみません」
「他人行儀だね」
 美樹原は、ちょっと切なげに笑って出て行った。



 その頃、宇喜多家では、貴虎が独り煙草をふかして天井を見つめていた。



 翌日。
 巳琴は、目を覚まして自分がどこにいるのかわからなかった。
 見慣れない天井と照明。感じる空気の色も自分の家とは違う。
「あっ……」
 美樹原の家に泊まった事を思い出した。
 身体を起こして、ぐるりと眺め回して不思議な気分になる。

 親戚以外の誰かの家に泊まったのは初めてだ。勿論、学校に友達はいるけれど、今まで外泊までは許してもらえなかった。
 両親が旅行中に外泊してしまって、怒られるだろうか?
(でも、兄さんが帰ってなければ、わからないんだよね)
 貴虎の顔を思い出すと、また気持ちが沈む。
「今日は、帰ってくるかな……兄さん」

「おはよう」
 リビングのドアが開いて、美樹原が顔を覗かせた。
「あっ、おはようございます」
 巳琴は、ペコリと頭を下げた。
「眠れた?コーヒー飲む?」
「は、はい」
 美樹原は、そのままリビングを突っ切ってカウンターで区切られただけのキッチンに入ると、コーヒーメーカーに粉を落とした。
「卵、どうする?」
「え?」
 分からずに聞き返すと
「普通に目玉焼きにする? スクランブルにする?」
 と訊ねてくる。
(美樹原さんが、作るの?)
 ぽかんと見つめると、
「ゆで卵もできるよ?」
 美樹原はクスクス笑った。
「あっ、あの普通で」
 何が普通か分からないが、巳琴がそう応えると、美樹原は

「オッケー」
 冷蔵庫から取り出した卵を片手で器用に割った。


 巳琴が寝ていたソファのテーブルに、トーストと目玉焼き、コーヒーとミルクそしてブルーベリージャムの入ったヨーグルトが運ばれてきた。あっという間の、見事な手際に、巳琴はただ見惚れていて
「野菜がなくてごめんね」
 と言う美樹原の言葉に、慌ててソファベッドから降りた。
「ごめんなさい。何も手伝わないで」
「いいよ。手伝ってもらうほどのことじゃないし」
 その言葉に、巳琴は美樹原が一人暮らしをしていることを改めて思い出した。宇喜多家では母親が毎日料理をするから、貴虎も巳琴も自分で何かを作るということは殆ど無い。昨日は、レンジでチンすら、億劫だった。
(でも、美樹原さんは、毎日自分で作ってるんだ)
 実際は、毎日ではないし、しかも朝くらいしか作ることはないのだが、巳琴は素直に驚いて、そして感動した。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 美樹原と二人で食べる朝食は、昨日の夕飯に比べて楽しくて美味しくて、何だか巳琴は嬉しかった。そんな気持ちが、美樹原にも伝わったのか、
「誰かとこうして朝ご飯食べるなんて、こんなものでもおいしく感じるんだから、不思議だよね」
 トーストをちぎりながら、美樹原が言った。
「そんな、本当においしいですから」
「焼いただけだよ」
 クスクス笑う美樹原の顔を、巳琴は綺麗だと感じた。
「でも、おいしいです……」
「そう? ミコトくんがそう言ってくれるなら、そうだね」
 頬杖をついて、巳琴を見つめる。
 そのままずっと、あまりに長い間見つめ続けるので、巳琴は落ち着かなくなる。
「なんですか?」
「ううん」
 美樹原は微笑んだ。
「さっきの言葉、一つ訂正しようかな」
「えっ?」
「『誰か』と一緒だからおいしいんじゃなくて『ミコトくんと一緒だから』だ」
 美樹原の言葉に、巳琴は赤くなった。
「パンもう一枚焼く?」
「あ、いいえ」
「育ち盛りなんだから、たくさん食べないとダメだよ」
「もう、お腹いっぱいです」
 本当に、たった今の美樹原の言葉に胸もお腹もいっぱいの気分だった。

 ちゃんと断ったはずなのに、それでも美樹原は優しい。
 いろいろな形で、自分のことを好きだと言ってくれている。
(僕は、それに甘えている……)
 巳琴は、自己嫌悪を感じて、暗くなった。
「どうしたの?」
「いいえ……ごめんなさい」
「何が?」
「僕、美樹原さんに、甘えてる」
「ミコトくん?」
「お付き合いを断った人に、こんな風に、泊めてもらったり、ご飯ご馳走になって……」
 ―――寂しい気持ちを埋めてもらっている。
「本当に、ごめんなさい」
 テーブルの端に両手の指先をついて頭を下げる巳琴を見て、美樹原は 困ったように首をかしげて、微苦笑する。
(こんなところも、むちゃくちゃ可愛い)
 思わず手を伸ばして、その白い指を握る。
「いいんだよ。僕は、ミコトくんにだったら、いくらでも甘えてもらっていい」
「美樹原さん……」
 巳琴は、美樹原の瞳を見つめ返し、惹き込まれそうになり、そしてハッと指を引いた。
「あっ、あの……ご馳走さまでした。あの、もう、帰ります」
「ミコトくん?」
「兄さんが帰る前に、家にいないと……」
 とっさに言い訳がましいことを言って、また自己嫌悪が深くなる。
「そう……そうだね。じゃあ、送るよ」
「えっ、いいえ、いいです」
「車の方が、早いでしょ」
「でも」
「いいから、ちょっと待ってて……と、その間に着替えてて、か」
 美樹原は、立ち上がってリビングを出た。車の鍵を取りに行ったのだろう。巳琴は皿を片付けて、美樹原に借りたパジャマを丁寧にたたむと、昨日のシャツとジーンズに着替えた。

「すぐ出られるよ」
 自分も着替えた美樹原が、車のキーを指先で振る。
「すみません」
 助手席に座ると二人で海に行った日のことを思い出して、申し訳なさと切なさで胸がいっぱいになる。美樹原は、そんな巳琴に気づいているのかいないのか。運転用のサングラスをかけた横顔からは、何も読めない。
 巳琴は、車の中でぼんやり考えた。
(僕が、美樹原さんを好きだったら、何もかも上手くいったのに……)
 優しくて、綺麗で、こんなにいい人が、こんな僕を好きだっていってくれているのに、どうして僕は兄さんじゃないとダメなんだろう。
 兄、貴虎の顔を思い浮かべて、ますます切なくなる巳琴だった。

「あの、ここで」
 自分の家からは、まだ角二つ分くらい離れたところで、巳琴は車を止めてもらった。
 家の前まで車を乗りつけるのが憚られた。誰に見られると言うわけでもないのだけれど。
「そう?ここで、いいの?」
「はい……」

 美樹原は、車を道路の端に寄せて止めると、シートベルトを外して巳琴を見た。
 巳琴は、いつものあどけない顔で
「本当に、お世話になりました」
 どこか他人行儀な挨拶をする。
(こんなところで止めてなんて、不倫している人妻みたいなこと言ってて……)
 美樹原の心に、ちろりと暗い火が点いた。
「ねえ、ミコトくん」
「はい」
「ひとつだけ、お礼もらっていいかな」
「え?」
 驚いたように瞳を見開く、その表情も可愛らしい。
 たまにひどく苛めてみたい気にもさせる、小動物のような愛らしさ。
 美樹原は、巳琴の肩を掴むと、ぐっと引き寄せた。

「み、っ……」
 美樹原の唇が耳の後ろの首筋に落とされて、巳琴はビクリと身体を震わせた。
(ん……)
 強く吸われて、背中が痺れた。
 美樹原の唇が離れても、巳琴は真っ赤になって口もきけずにいた。
「ごめん、ちょっと、ドラキュラぽかった?」
「……」
 美樹原は、固まったまま動けない巳琴に微笑むと、シートベルトを代わりに外してやった。
 ハッとした巳琴が、慌てて車のドアを開けて飛び出す。思い直したようにくるりと振り向いて、ドアを半開きにして覗き込んで
「あの、本当に……お世話になりました……」
 頬を染めたまま、もう一度、同じ言葉を繰り返す。
「どういたしまして」
 運転席に座ったまま、美樹原はニッコリ笑って手を振った。
「あの、それじゃあ……」
「うん、またね」

 角を曲がる巳琴の後ろ姿を目で追いながら、美樹原は自分の悪戯にチクリと胸を痛めた。
(ミコトくんは、きっと知らないよね……)
 キスマーク。
 そんなものが存在することすら、あのオクテの少年は知らないかも知れない。
(でも、タカトラは見慣れているから、すぐ気がつくだろうね)








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