優しい手が、髪を撫でる。
 額からすくように指を通されて、頭の形を確かめるようにゆっくりと、耳の後ろ、うなじへと滑っていく。
(ん……)
 温かいものが、唇に触れる。
 しっとりと、包み込むように塞がれて、湿った何かが下の唇をくすぐった。
(ん、うん……)
 なんだか息苦しくて、空気を求めるように口をあけると、その温かく湿ったものがするりと忍び込んできた。
「んっ、んんんっ??ん――――――」

 巳琴は、焦った。
 自分の上に、兄、貴虎が乗っかっている。
 乗っかっているだけじゃない。
 自分の口が、兄のそれで塞がれている。
(やっ、や、や、やーめーてーっ)
 叫び出そうにも、舌を絡め取られて呻き声すら出せない。
(なんで? なんで?? なんで???)
 自分は、昨日の夜日記を書いて、夏休みの宿題をほんの少しだけ片付けて、そして寂しいくらいに静かな家で一人眠ったはずだ。
 貴虎は、出かけたまま帰ってこなかった。
(なのに、何で、今、こんなことになってるの?)
 簡単だ。
 貴虎が、巳琴の寝込みを襲ったのである。


 目の前に、兄の端正な顔があって、巳琴はつい惹き込まれそうになる。薄目を開けた貴虎と目が合って、恥ずかしさのあまりきつく目を閉じると、貴虎は喉の奥で笑って唇の角度を変えた。かみ合うように強く重なった唇。貴虎の舌に攻め立てられて、巳琴は次第にぼうっとしてくる。
 寝起きのせいだけでない靄のかかったような頭の中に、ときおり真っ白な光がスパークする。
(兄さん……)
 薄いパジャマの袖から覗く指先で、貴虎のシャツをぎゅっと握った。
 貴虎の指が、巳琴のパジャマの下に滑り込む。脇腹を撫で上げられて、巳琴はビクッと身体を震わせた。貴虎の指は、そのまま這い上がって、巳琴の胸の突起を探る。
(あっ)
 指がそれに触れた瞬間、巳琴は意識を取り戻し、そして大きく顔を捩った。
「やっ、やだ、やめてっ」
 抵抗がなくなって油断していただけに、貴虎は簡単に唇を外されてしまった。
「やめて、兄さんっ」
「何だよ」
 まだ焦らすかコイツ、と貴虎は改めて巳琴の上に覆い被さると、うなじに唇を這わせながら、再び胸を弄る。
 それが、巳琴には、絶対恐怖。
(兄さんが、僕の、胸をさわってるうっっ!!)
 巨乳好きの貴虎が、自分のペッチャンコの――男だから当たり前だが――胸を触ったりしたらがっかりするに決まっている。そして、あげくに嫌われる、と巳琴は思っている。
 何が何でも、胸は死守しないといけない。
「やだっ、やだ、そこは……やだ」
 可愛い声を出して身を捩る巳琴、それがかえって貴虎を煽っていることに気がついていない。
「ミコト……」
 愛しげに囁いて、貴虎の片方の手が巳琴の髪を撫でようと持ち上げられた時、巳琴は目の前に迫った貴虎の肩を思いっきり噛んだ。
「ん――んっ」
「ってぇ――っ」

『窮鼠猫を噛む』
 貴虎の頭に浮かんだ諺。
(キュウソってどんな字書いたっけ……?)
 麻雀牌のキューソーなんかも思い浮かべつつ、貴虎は巳琴の顔をじっと見た。
 巳琴は、真っ赤になりながら怯えた顔で
「助けて、お母さあん」
 と涙声で叫んだ。

『お母さん……』
 この場合巳琴の言うお母さんとは、貴虎にとっても母親の、脳天気な専業主婦最近太り気味の四十五歳だ。
 エッチの最中に母親の顔を思い出すと萎えるというのは、本当だった。貴虎は、しおしおと萎れる自分自身を感じつつ、ガックリとベッドに両手をついた。
「お前……勘弁しろよ」

 巳琴は、肌掛け布団を引っ張って、その中に包まると小さくなった。
「兄さんの、変態」
「は?」
「寝ているところ襲うなんて、卑怯だよ」
「ほお?」
「大体、昨日は、女の人のところに行っていたんでしょ」
「…………」
「何で、帰ってきて、こんなことするんだよ」
 巳琴は睫毛をふせて、唇を尖らせる。
 貴虎は、ボソリと言った。
「こんなこと……お前はしたくねえのかよ」
「え?」
「美樹原は、自分から誘ったんだろ?」
 巳琴は、言葉の意味が分からず、困ったように貴虎を見上げた。
「美樹原とはやりたくて、俺とはやりたくねえって……どういうことだ?」
(自分から?)
 巳琴にとっては、まったく心当たりの無い言葉。
 訳がわからず、言葉も浮かばず。
 ただ、じっと貴虎の顔を見ると、貴虎はチッと舌打ちした。

「もういいよ」
 髪をガシガシと掻きながら立ち上がる。
「おれ、めんどくせえの嫌いだし」
「兄さん……」
「やってる時、お母さんとか言われたら、そりゃ、もうダメだわ」
「にい……」
「悪かったな、じゃ」
 すたすたと出て行く兄の後ろ姿を目で追って、巳琴は、何かとんでもない間違いをしてしまったと感じた。





* * *

「兄さん、今日も帰ってこないのかな……」
 朝、ぷいと出かけていった貴虎は、そのまま夜まで帰ってこなかった。
 巳琴は、一日中、家にいた。
 貴虎が帰ってきたら、謝ろうと思っていた。よく分からないけれど、貴虎は怒っていたから。
 部屋を出て行ったときの背中が怒っていた。
 元々、嫌われたくなくて拒んでいたのだ。これで、嫌われたなら本末転倒というものだ。
(帰ってきたら、絶対、謝ろう)
 そう思って、一日中リビングで膝を抱えて、玄関のドアが開くのを待っていた。
 けれども、貴虎は帰ってこない。
 食欲が湧かなくて、一日何も食べていなかったのだが、さすがに夜になってお腹がすいてきた。台所にたって、炊飯器の蓋を開ける。昨日も今日も貴虎が全然食べていないので、その上、今日は巳琴も食べていないので、保温しすぎて固くなったご飯がぎっしりつまっている。
 のろのろとお椀についで、冷蔵庫を開ける。
 母親が作っていったレンジで温めるだけのおかずが、タッパーに入ってたくさん並んでいたが、何だかどれも食べたくない。レンジでチンするのも億劫だ。
 冷たいまま食べられそうなもの一つとお漬物の皿をとって、それで済ますことにした。
 テーブルに座って、もそもそと箸を動かす。
 四人掛けのダイニングテーブルは、いつも貴虎が座ると窮屈なくらいなのに、今日は広すぎて、寒々しい。
(……夏なのに)
 エアコンの必要が無いくらい、寒い気がした。
 巳琴は、機械的に箸を動かす。
 ご飯が喉に詰まる。
 上手く飲み込めない。
(おいしくない)
 巳琴は、箸を置いた。

「このまま、帰ってこないのかな」
 呟いて、ゾクッとした。
 今までも、飲みに出かけて三日間帰ってこないなんてこと、ざらだった。けれど、今日は、違う。
 自分に背中を向けて出て行った貴虎。
(このまま、帰ってこなかったら……)
 急に、恐ろしくなった。
 誰もいない家。
 家族の誰もいない家で、今夜も、たった独りで過ごすなんて―――。
 巳琴は、立ち上がった。

 自分の部屋に入って、クローゼットから上着を取り出すと、それまで着ていたTシャツと着替えた。
(兄さんに、会いに行こう)
 女の人のところなら、分からないけれど、よく行くお店なら知っている。
「だてに何年もストーカーやってないんだから……」
 いつもの日記を取り出して、古いページをめくる。貴虎から聞いた、よく行く店の名前が書いてある。貴虎は、こと店に関しては、あまり浮気をしない。気に入った店にずっと通う。店のほうでも目立つ貴虎を良く覚えていて、何かと常連扱いで優遇してくれるので、わざわざ他に店を探す必要も無いらしい。
 その中のどこかにきっといる。そう、巳琴は思った。
 シーンズのベルトを締めて、財布と鍵を持つと、玄関に走った。
(謝って、帰ってきてもらおう)


 生バンドの演奏とドリンクの種類が自慢のその店は、月曜だというのに混んでいた。貴虎たちのウッキーズも何度か演奏した店だ。巳琴は、三軒目にあたるそこに、貴虎がいる気がした。
 ちょうど一つのバンドの演奏が終わったところらしく、次のバンドの演奏が始まるまでの間、人々は忙しくドリンクを注文したり、化粧室に走ったりしている。巳琴は身体を小さくしてテーブルの間をすり抜けながら、貴虎の姿を探した。

 長く伸ばした髪の毛と広い肩幅の見慣れた背中が、奥のひときわ華やかな席にあった。
(いた……)
 ホッとした気持ちで、近づくと、会話も聴こえてきた。
 貴虎は、女ばかり五人に囲まれている。
「タカトラ、ホント、久し振りじゃない」
「どっか行ってたの?」
「別に」
「何してたのよ」
「夏休みだから、弟の守りしてた」
「弟?」
「モリ? お守り?」
「やだ、そんな小さい弟いたの?」
「小さくは無いわよ。私、知ってる。会ったことあるもん」
「私もぉ」
 そう言った派手な顔だちの女性二人は、確かに貴虎が、それぞれ別々に家に連れてきたことがあった。気おくれした上に自分の話題で、巳琴はその場で立ち止まる。
「中学生よね」
「今年、高校じゃなかった?」
「タカトラには、全然似てないの」
「なんだ、似てないの?」
「似てない、似てない」
「おとなしそーな、メガネくんだった」
「うっそー」
 何がおかしいのか、嬌声があがる。
「タカトラ、お勉強、教えてたの?」
「ま、そんなところ」
 貴虎は、適当に返事をしている。
「じゃあ、つまらなかったわね」
「ああ」
「もう、いいの?」
「何が?」
「オトウト」
「ああ、もういい」
 貴虎は、グラスを空ける。
「じゃ、遊びましょう」
 隣にいる女が、その自慢らしい長く伸ばした爪の先で貴虎の耳朶をくすぐった。貴虎はクッと笑うと、わざとらしく下品に言った。
「おかげでタマってんだけど、やらせてくれる?」
 キャ――――――ッ
 女達が一斉に悲鳴に近い声を出す
 店中の視線が、このテーブルに集まって、そしてその中で巳琴は固まっていた。
「あら?」
 女の一人が、巳琴に気がついた。
 次々に、綺麗な顔の女達が巳琴を見つめる。
 最後に、貴虎が顔を上げた。
 巳琴の姿に、一瞬、目を瞠る。
 巳琴は、貧血の前のように身体が揺れそうになるのを我慢した。
「お前……」
 貴虎が、立ち上がる。
「何で、こんなとこ来てんだよ」
 巳琴は、応えない。
 いや、応えようとしたが、言葉にならなかった。身体がグラグラと揺れて、一歩後ろに後ずさった時、背中を支える腕があった。
「僕が呼んだんだよ」
 ニッコリ微笑む、美しい顔。
「ミキ……」
 貴虎の眉間に、深いしわが寄る。
「僕が呼んだんだけど……タカトラも来てたなんて奇遇だね」
 美樹原は、巳琴の肩に腕を廻して
「ほら、ここにいるとお姉さん達に食べられちゃうから、こっち行こう」
 そのまま連れて行く。
「失礼ねっ」
「もーっ、ミッキー相変わらず」
 女達がキーキー騒ぐのをぼんやり聞きつつ、巳琴は、フラフラとついて歩いた。

 貴虎は、不機嫌そうにその姿を目で追った。




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