《めもりー》 巳琴は、嬉しかった。 兄、貴虎が自分を助けにきてくれたこと。 貴虎の胸の中で泣きじゃくりながら、背中に廻された腕の暖かな感触に、切ないほどの幸せを感じた。 「うっ、ふっ……うっ……」 クスンクスンとすすり上げて、ようやく落ち着いた巳琴に、 「ったく、男のくせに、メソメソ泣くなよ」 貴虎は微笑んだ。 巳琴は、顔を上げて涙でぐしょぐしょの泣き顔で、笑った。 「昔、そう、よく、言ったよね……兄さん」 『男なんだから、メソメソ泣くな』 自分が苛められていると飛んできて、相手をやっつけてくれて、そして泣いてる自分にそう言った。 巳琴は、子供のころの記憶を甘酸っぱい気持ちで思い出す。 「マサルくんに苛められたとき」 小学校に入ったころ、三月生まれの巳琴は女の子よりも小さくて可愛くて、男の子達の苛めの、恰好の対象だった。その度に、貴虎が『敵をとって』くれたのだ。 「あったな、そんなこと」 「あと、ショウタにも」 「ああ、あのデブ……今、どうしてっかな」 あの太ったガキは、巳琴のことが好きだったんだ、と、貴虎は思い出した。 (それが分かったから、あいつは他の奴ら以上に苛め返してやったな……) 「いっつも、兄さんが、助けてくれたよね」 巳琴は、貴虎の腕の中で小さく呟く。 「ん」 「なんで、僕が苛められていると、分かったんだろう……今だって……」 助けてと心で叫んだ時に、現れてくれるなんて出来すぎている。 「そりゃあ、あれだな」 「え?」 「兄弟同士、赤い糸で結ばれてるんだよ」 貴虎の言葉に、巳琴は小さく吹き出した。 「赤い糸は、違うよ」 「そうか?」 「うん……」 (でも……) もし、本当に赤い糸が二人の小指を結んでくれているのなら、こんなに幸せなことはないのに――――。 巳琴はそう思いながら、名残惜しい気持ちを我慢して貴虎の腕をすり抜けた。すると、貴虎の指が自然に自分の指を絡め取って、巳琴はドキッとした。 貴虎は、知らん顔で 「じゃ、遅くなったから急いで帰るか。お袋、心配しているぞ」 巳琴の手を握る。 小さな頃、いつもそうやって家に帰った。二人並んで、手をつないで。 巳琴はまた胸が熱くなって涙が出そうになったが、今度は我慢した。 並んで歩きながら、小さな子供の頃に戻ったような気がして、甘えて貴虎の手をきゅっと握った。 子供の頃の記憶と違って、骨太の大きな手だが、その包み込んでくれる温かさは紛れもなく大好きな兄のそれだ。 (兄さん……やっぱり、兄さんが、好きだよ) 心の中で、呼びかける。 貴虎は、うつむきかげんの横顔で薄く微笑んだまま。 帰り道、二人は、ずっと黙って歩いた。 家の前につくと、玄関のポーチに人の影が浮かんで、話し声がしていた。 母親と話しているのは、美樹原だった。 巳琴と貴虎の姿に、二人同時に駆け寄ってきた。 「ミコト!」 「ミコちゃんっ」 母親が、巳琴の肩を掴んで、 「どこに行ってたの!」 きつく叱りかけて、その赤い目にハッとしたように黙った。慌てて、傍らの貴虎を見上げる。 「変な奴らに絡まれていたんだよ。巳琴のせいじゃない」 「なんだって」 絡まれていたという言葉に、美樹原が過剰に反応する。 「大丈夫なのか?」 巳琴の顔に手を伸ばそうとして、身体ごと間に割って入った貴虎に遮られた。 「今日は、もう遅いから、またな」 「タカトラ」 「大丈夫、特に怪我も何も無い」 貴虎の言葉に、巳琴もこっくり頷く。 美樹原は何か言いかけたが、巳琴たちの母親の前でもあり、そして今が遅い時間であることも充分わかっており、黙って頷いた。 「夜分、失礼しました」 「ご心配おかけして……」 「いえ」 頭を下げる美樹原に、母親も慌てて挨拶する。 「じゃあ、また、明日……」 美樹原は、巳琴にだけ分かるような、想いのこもった真摯な眼差しを送った。 ズキンと巳琴の胸が痛んだ。 美樹原が帰ったあと、巳琴は考えた。 (やっぱり、ちゃんと言って断らなきゃ) 机の引き出しを開けると、日記と携帯を取り出す。 今日は、携帯を忘れていたのだ。 着信履歴に美樹原の名前がある。詳細を見ると、十時過ぎから何度もかかってきていた。 (心配かけちゃった……ごめんね、美樹原さん) その美樹原に、自分から別れを切り出す。申し訳なさで、胸がいっぱいになる。 けれども、今日、改めてわかった。 (僕は、やっぱり兄さんじゃないと、ダメなんだ……) 意を決して、携帯のボタンを押す。 (これも、返さないと) 美樹原は、すぐに出た。 「ミコトくん」 「さっきは、すみませんでした」 「いいんだよ……何も無くて、よかった」 どこか確認するような口調に 「はい」 安心させるように明るく答えて、思い切って切り出す。 「それで、美樹原さんに話があって……明日、会えませんか?」 「話? 電話じゃ、話せないこと?」 「はい」 巳琴の返事に、美樹原は、しばらく黙って 「いいよ。何時? 場所はどこにする?」 優しく訊ねてきた。 「じゃあ四時に、この前、初めて入った喫茶店」 「ああ、『メモリー』ね。美容室の二階の」 「あ、そうです」 「わかった、じゃあ、明日」 「はい」 携帯を切ろうとしたとき、 「あっ、ミコトくん」 美樹原が、慌てたように続けた。 「は、はい」 何だろうと、改めて携帯に耳を押し当てると 「愛してる」 そう囁かれて、巳琴は何も言えなくなった。 しばらく繋がっていたらしい携帯は、突然切れて、無機質な音だけが耳に伝わってくる。 『愛してる』 ごめんなさい。美樹原さん。 僕がその言葉を言える相手は、この世に一人しかいない。 * * * 巳琴の部屋を覗いてみたが、まだ帰ってきてはいないようだ。貴虎は、いつものように躊躇なく弟の部屋に入る。ぐるりと眺め回して、綺麗に整頓された部屋に、几帳面な弟の性格を改めて知る。 「漫画の一冊も落ちていないんだからな」 ベッドの下を覗き込んで 「これで、エロ本とか隠していたら面白いんだが、まあ、絶対無いだろうな」 クッと笑った。 そのままベッドに腰掛けて、ぼんやり考える。 巳琴は、ここで美樹原に抱きしめられていた。 白い小さい顔。薄く染まった頬。閉じた瞳。震える睫毛。いちいち思い出せるのが腹立たしい。 「ったく、何で美樹原だよ。俺の方がいい男だろ」 ゴロンと仰向けになって、天井を見上げる。 (何、言ってんだ、俺) まさか、実の弟を好きになるなんて、思ってもいなかった。 (俺の好みは、巨乳だっちゅーの。なんで、あんな胸ペッタンコの……いや、胸あったら気持ちわりいって……その、あいつなんか……) と、つい、風呂場で見た巳琴の裸の胸を思い出し、次の瞬ゾクッと背中が震えた。 「やべ……」 実の弟の裸に欲情してどうする。 貴虎は、起き上がった。 このまま巳琴のベッドに寝ていたら、おかしなことを始めそうだ。 頭をガシガシとかいて、立ち上がる。 しょうがない。 あいつには、もう美樹原がいる。 気づいたのが遅かった。 いや、もし、先に気がついていたとしても、どうなるものでもなかっただろう。 『ずっと……』 ずっと前から、美樹原のことを好きだったと巳琴は言ったのだ。 涙を零して言ったのだ。 だったら、俺は、あいつが望むようにしてやろう。 誰よりも、幸せにしてやろう。 「美樹原が、浮気したら、ぶっ殺す」 (気づいた時には失恋だったな) 生まれて初めての失恋の相手が実の弟ってのは、かなり痛いな、と自嘲気味に口許を歪めた時、 ブ――――ン 機械音が鳴った。 (携帯?) 聞き覚えのあるその音の出所を探って、貴虎は机の引き出しを開けた。 「あいつ、携帯なんかいつの間に持ってたんだ?」 引き出しの中で、メタリックシルバーの小さな携帯が震えている。 (美樹原……) 着信表示を見て、出ようかどうか躊躇った。 (勝手に出るのも悪いか) それに、今、美樹原と話す気分でもない。 知らん顔で引き出しに戻すと、しばらくして音は消え、携帯は大人しくなった。 ふと、その隣に白い小さなノートを見つける。 気まぐれに、手にとった。 何の気なしに、開いてみた。 そして――― ノートを見つめる貴虎の頬に血が上ってくる。 巳琴の日記には、本当に兄のことばかり、書かれているのだ。 |
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