《いりてぃとはーと》


 貴虎の視線に耐えられずに、顔を伏せる巳琴。それを庇うように前に立ちふさがる美樹原の姿に、貴虎は溜息をついた。
「もう、いいよ」
 貴虎の言葉に、巳琴はピクリと震えた。
「お前らが付き合おうが何しようが、俺には関係ねえからな」
 貴虎は、帰り道に買ってきたアイスクリームの入った袋を机の上に投げ出し、既にそこにプリンやジュースの類が置かれているのを見て、唇を歪めた。
「邪魔したな」
 部屋を出て行こうとして、思い出したように振り返る。
「あ、かわりっちゃあ、なんだけど……ミキ、ライブ出ろよ」
「タカトラ?」
「いいだろ、それくらい」
「それで、僕とミコト君のこと、許しくれるっての?」
 美樹原の目が、嬉しそうに輝いた。
「ああ、兄として、な」
 言ってから、貴虎は忌々しそうに唇を噛んだ。
「じゃ、そういうことで」
 貴虎が部屋を出て行ったあとも、美樹原はしばらくドアを見つめていた。
 再び、巳琴のすすり泣きの声に気がついたのは、その後だった。
「ミコト君?」
「う……うっく……」

『お前らが、付き合おうが――俺には関係ねえからな』

 突き放すような貴虎の言葉が、悲しかった。
(やっぱり、兄さん、僕のこと……)
 同性を、しかも実の兄を好きになるなんて、おかしいに決まっている。
 気持ち悪いと思ったかも。嫌われてしまったかも。
 そう思うと、巳琴の目からは、次から次に涙が零れる。

「ミコト」
 そんな巳琴を美樹原は、優しく抱きしめて耳元で囁く。
「僕じゃ、だめ?」
「う……うっ……ふっ……」
「僕じゃ、代わりになれないかな」
「う……」
「十五年の月日に負けないくらい、君を愛すよ」
「ふ、っ……うぅ」
 ふぇーんと、巳琴は声をあげて、美樹原に縋りついた。
 その腕は、兄とは違うものだけれど、今の自分には温かくて必要なものだった。



 自分の部屋に入ってから、貴虎は、落ち着きなく煙草に火をつけた。
 カチッ カチッ カチッ
 ガス切れらしいライターが、むなしく小さな火花を散らすのを見て、窓から庭に放り投げる。
「っ、たく」
 代わりのライターを探すのだが、こういうときに限っていつもその辺に落ちているライターが見つからない。
「ああっ、ムカつく」
 下におりて、台所のガスレンジで火をつけた。前髪をかきあげながらレンジ台の炎に唇の先の煙草を寄せると、チリと焦げ臭い匂いが鼻をつく。右頬あたりの髪の毛が焦げている。
(ついてねえときは、ついてねえんだよ)
 焦げた髪の先を指で握りつぶして、貴虎は、自分のこのイライラの原因を探った。

 大切な弟が、よその男に取られたからか?
 よその男というのが、美樹原だからか?
 そもそも大切な弟がホモだったからか?
 全部が当てはまるようで、何かが違う。

 けれども間違いなく言えるのは、自分以外の腕の中で泣く巳琴を見てしまったこと―――これは先日のキスシーン以上の衝撃だった。





* * *

「タカトラ、最近、荒れてるわネ」
「どうしたの?」
「何か、あったの?」
 新宿のいつもの店で、ウッキーズの追っかけを公言する女たちが、貴虎を取り囲む。
「あっ、あの巨乳の彼女と別れたんだ?」
 貴虎の水割りのグラスに氷を落としながら、ミエという女が笑った。
「っせえ、よ」
 煩わしそうにグラスを受け取って、そのまま一気に空ける。
 女達が、嬉しそうに笑った。
「それにしても、この間のライブ、カッコよかったわよねぇ」
「そぉそぉ! ミッキーのアレ、演出? 誰、考えたの?」
 美樹原は、顔の傷をごまかすために、上半身裸の胸、腕、額にも血糊付きの包帯を巻きつけてライブの舞台に立った。客席の女性たちからは悲鳴が上がり、いつも以上に興奮した盛り上がりを見せた。
「普段、上品そうだから、いきなりああいうカッコされると萌えよねぇ」
「ねぇえ」

 ダン!

 貴虎が、グラスを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「きゃ」
「どうしたの? タカトラ?」
「帰る」
 ふらりと立ち上がる貴虎に、数人の腕が絡みつく。
「やだ、怒ったの?」
「らしくないじゃん」
「私ら、みんな、タカトラのファンだよ」
「そうよお、ミッキーは確かに綺麗だけど、タカトラのほうがずっと……」
「うるせえよ」
 貴虎は吐き捨てるように短く叫んだ。
 見上げる視線をねめつけて、ぼそりと呟く。
「お前らといても、つまんねえんだよ」
 店を出て行く貴虎の姿を、女たちは毒気を抜かれたように呆然と見た。

(つまんねえ……)
 あれから、毎日、胸が重苦しくて、何をやってもつまらない。
 以前はあれだけ楽しかったライブですら、この前のやつは、気が乗らなくてつまらなくて、散々だった。
 自分に反して美樹原はノリノリで、バンドとしては上手くいったライブだったのだろうが、その夜は、打ち上げも蹴って家に帰った。
 家に帰ったら帰ったで、ムカつくことが多い。
 あれから、巳琴は美樹原とよく会っているようだ。
 そんなのは、勝手にすればいい。
 しかし、その巳琴の態度が、気に触る。
 もうばれているんだから、堂々とすりゃいいものを。自分と目が合うと、ビクついたように目を伏せる。まるで恥らうようなその態度。
 長い睫毛を伏せて震わせていたあの時の顔が浮かぶ。あれを思い出すと、胸の中にドロドロに濁った水が湧くような、気分の悪さに襲われる。
(何なんだよ、まったく)




 そして家に帰った貴虎は、巳琴がまだ帰ってきていないと母親に聞いて、時計に目をやった。十時を回った時間にうろたえる。
 こんなに遅くなるなんて、巳琴に限って考えられない。

「どうしましょう。ミコちゃん、何かあったのかしら?」
「…………」
 貴虎は携帯電話を取り出すと、美樹原の番号を押した。
 コール三回で、当の相手が出た。
「なに? どうしたの?」
 平和そうな声に、一瞬ムッとして
「ミコト、いるんだろ? だせ」
 そう言うと、
「えっ?」
 美樹原は、訝し気な声を上げた。
「いないけど」
「何だと」
「ずい分前に帰ったよ。別れたのは八時前だ」
 美樹原の言葉に貴虎は青褪めた。
 プツッと携帯を切ると、玄関を出る。
「あっ、お兄ちゃん?」
 母親が、慌てた声を出す。
「探してくる」
 行き先はわからないが、じっとはしていられなかった。



 そのころ巳琴は、家に帰る途中の道を逆方向に曲がって、ふらふらと歩き回っていた。
 真っ直ぐ家に帰れない。帰ると兄と顔をあわせてしまう。
 何より、巳琴は考えることが沢山あって、頭の中がパニックを起こしかけていた。


 今日、美樹原の家に初めて行った。
 いつも外で会っていたから、自宅でくつろいだ表情を見せる美樹原は、いつも以上に優しくて居心地が良かった。
 マンションで一人暮らしと聞いていたから、狭いワンルームを想像していたのに、リビングとは別に部屋が二つ以上あって、驚いた。きょろきょろと珍しそうに眺め回す巳琴に、
「親が税金対策に買ってるんだよ。僕にも賃貸していることになってる」
 美樹原は笑って言った。

 美樹原の入れたコーヒーを飲んで、得意だというグランツーリズモの腕を見せてもらって、自分もコントローラーを握って悪戦苦闘していたときに、ふいに後ろから抱きしめられた。
「あっ……」
 ビクンと背筋が震えた。
 コントローラーを取り落とす。画面では、車が派手な音を立ててクラッシュを起こす。
 そのまま、顎を掴まれてキスされた。

 その時のことを思い出すと、顔が熱くなる。
 美樹原はそれ以上のことはしなかったけれど―――
(きっと、そのうち……)
 巳琴は、心臓が激しく鳴るのを感じた。
(いいのかな……)
 だめだ……と、思った。
 美樹原のキスは、気持ちがいい。
 だから、つい夢中になってしまう。
 でも、自分が本当に好きなのは、美樹原じゃない。

『僕じゃ、だめ?』
『十五年の月日に負けないくらい、君を愛すよ』

 美樹原の言葉が、罪悪感を生む。
(僕は……そんなにしてもらえるような、人間じゃない……)
 貴虎に嫌われた辛さや寂しさを埋めるために、美樹原を利用している。
 巳琴は、自分のことをそう思った。

 貴虎に嫌われた―――そのことを思うと、また涙が出そうになるくらい悲しい。
 あれから、貴虎は変わった。
 それまでは、口は悪くても過保護なくらい自分を可愛がってくれて、冗談からのスキンシップも多かった。ヘッドロックをかけてきたり後ろから負ぶさったり、ふざけて絡んでくるその腕を、巳琴は嫌がるそぶりをしながら甘い気持ちで受け止めていた。

(なのに、あれ以来、ちっとも僕に近寄らない……ううん、避けてる……)

 台所で、リビングで、バスルームで。
 すれ違うたびに、巳琴はビクリとする。
 貴虎の目が気になって。
(僕のこと、どう思っているだろう)
 そして貴虎は、いつもどこか不機嫌そうに自分を見る。
(やっぱり、気持ち悪いって、思っているのかな……)
 貴虎の目に嫌悪の色を見つけたら、自分は家にはいられない。
 そう思うと、次第に貴虎の顔を見ることができなくなった。
 それと同時に、貴虎も、巳琴に近づかなくなっていた。
 どちらが先ということもないのだが、巳琴は、自分の気持ちを知った貴虎が、自分を避けているのだと思った。

「どうしよう……」
 貴虎に嫌われた悲しみを埋めるのに、このまま美樹原と付き合っていいものだろうか?
 巳琴の悩みは、今、そこにある。
 今日キスされて、真剣に思った。
(このまま付き合っていたら、美樹原さんに悪いよ……)

 そして、悩みながらふらふらと街を彷徨っていたのである。
 巳琴は、自分が一体どれくらいの間歩き回っているのか、そして今が健全な高校生が出歩くには遅い時間だということも、全く分からなかった。

 ドン!

 正面から歩いてきた男に突き飛ばされて、巳琴はよろけた。
「ってえなあっ」
 よろめいた自分ではなく、ガタイの大きい男が大袈裟に肩をさするので、巳琴は驚いた。
「おい、兄ちゃん、何すんだよ」
(何するって?)
 巳琴は、呆然と目の前の男を見る。
 その隣に、これまた感じの悪い、髪を金色に染めた男がニヤニヤと笑っている。
「病院、行くから、金よこしな」
 ぶつかってきた男の言葉に、
(ああ、これがカツアゲってやつか……)
 巳琴は、ぼんやり考えた。



「何、ぼうっとしてんだよ」
「しゃべれねえのか」
「あ、いいえ……」
 巳琴は、唇を震わせて
「あの、申し訳ないんですが、僕、お金あまり持っていません」
 巳琴の小遣いは、月五千円だ。特に大きな買い物があるときは別に頼むので不自由を感じたことはないが、今、財布には五百円くらいしか入っていない。
「ざけんな、財布だせ」
 凄まれて、ズボンのポケットから財布を出して見せると、
「けっ、なんだ、これ」
 男は中を確認して、財布を道に捨てた。
「あっ」
 その財布を拾い上げようとしたら
「じゃあ、お前が、金作って来な」
 金髪の男が、その財布を蹴って言った。
「作る?」
 どうやって?
 錬金術師じゃあるまいし、と、心の中で呟くと
「おまえも、カツアゲしてこいよ」
 金髪が笑った。
「そんな……無理ですよ」
 巳琴は、真面目な顔で言った。
「あなたたちなら、ともかく、僕がどう頑張っても、誰もお金なんか出しませんよ?」
 その言葉に、二人はしげしげと巳琴を眺め回し
「確かにな」
 と、顔を見合わせた。
「こんなメガネ君じゃ、なあ」
 男が、巳琴の眼鏡を取った。
「あっ、やめ、返してください」
 巳琴が慌てて腕を伸ばす。
 男はふざけたようにその眼鏡を高く振り上げて、遠くに投げる真似をして、そして次の瞬間、目を瞠った。
 巳琴の腕を掴んで、ねじりながら金髪に向かって言う。
「おい、見ろよ。こいつ、結構マブだぜ」
「おっ、本当だ。ハヤリのメガネっ子だったか」
 二人に顔を覗き込まれて、巳琴は嫌な予感がした。
「二丁目に立たせたら、四、五万稼いでくれんじゃねえか」
「二丁目まで行かなくても、エンコー橋立たせれば、三万はカタイっしょ」
 言っている意味が、良く分からないが、お金以上に危険な気がする。
 巳琴は、力いっぱい腕を振り解いて、その場を逃げようとした。
「逃げんなよ」
 男の手が素早く、巳琴を掴む。
「やっ、めろっ」
「へへぇ」
 男は巳琴を羽交い絞めにして、腕の中でもがく様子に、舌なめずりした。
「立たせる前に、味見させてもらうか」
 細い目に、嗜虐的な色を浮かべる。
「立たせる前に、勃たせてもらうってか? 好きだね。アニキも」
「や…っ…放せ……」
 華奢な巳琴がどんなに身体を捩っても、男の腕はびくともしない。
「たす」
 助けてくれと大声を出しかけたとき、口をふさがれた。
 同時に腕を後ろに捻られて、巳琴は言葉を失った。

(助けて……兄さん…….)

 さびれかけた飲み屋の裏の、細い路地に連れ込まれそうになった時、
「何してるっ」
 大きな声がした。
(兄さんっ!)
 信じられない思いで、巳琴は目を瞠った。
 貴虎が、恐ろしい顔で立っている。
「手を離せ、この野郎っ」
 男に掴みかかって、巳琴を助ける。
 虚を突かれた男は一瞬怯んだが、すぐに態勢を立て直して、貴虎に向かい合った。
「何だ、てめえ」
「そいつの兄貴だよ」
「嘘つけ、似てねえよ」
「大きなお世話なんだよっ」
 二人が同時に殴りかかるのを、巳琴は路地に蹲って見た。


 貴虎の長身が素早く動いて、男の顔に拳をめり込ませる。
 喧嘩慣れしているはずの男が地面に倒れるのを、巳琴は震えながら見た。
 金髪の男は、貴虎の強さに慌てて、酒屋の裏に積み上げられていたボトルを握ると、

 ガシャン!!

 コンクリートの壁にぶつけ、派手な音をたてて割った。

 底の割れたボトルをナイフ代わりに突きつけるように握りしめ、金髪男は薄気味悪く笑った。握りしめたビンの口から、濁った液体がとろりと零れてズボンに染みを作った。
「下手に近寄ったら、腹に穴あけるぜ」
 金髪の言葉に、
「そんなとこ濡らして、何、いきがってんだよ」
 貴虎は嘲笑って、ポケットから煙草を取り出した。
 地面の男は、気を失っているらしく、倒れたまま。
 巳琴は、カタカタと小さく震えている。
 貴虎は、ジーパンのポケットからマッチを取りだした。
「ライターはイラつくんで、マッチにしたんだけど、正解だったな」
 独り言のように言うと、それを擦って、煙草に近づけるふりをして、ピッと金髪の方に放った。

「なん……?」
 金髪は、何の真似だという顔で貴虎を見る。
 その足元で、火の消えたマッチが微かに煙を揺らしている。
「ああ、はずれちまったな」
 貴虎はニヤリと笑った。
「バーボンだろ? 度数高いから火がついたらあっという間だったんだけどな」
「何っ」
 貴虎のマッチの火が、自分のズボンの染みを狙ったと知って、金髪は青褪めた。
 貴虎は、男らしい顔に凄みを滲ませて
「今度は、真剣に狙うぜ」
 マッチを擦ると、指先で弾いて投げつけた。
「やっ、やめろ」
 金髪は、焼けた鉄板の上で踊るような、不自然な脚の動きでそれを避けると
「おぼえてろよっ」
 割れた空き瓶を投げ捨てて、倒れている男に目もくれずに、走って逃げて行った。

 その後ろ姿に、貴虎は
「バーカ」
 嘲笑って舌を出した。
「燃えるかっつーの。雨水だろ、そりゃ」
 振り返って、巳琴を見る。
「大丈夫か?」
「兄、さん……」
 巳琴は立ち上がると、貴虎に抱きついた。

「兄さんっ、兄さん、兄さん……」

 しがみついて泣きじゃくる巳琴に、貴虎は、胸が熱くなった。
 そっと背中に腕を廻して、華奢な身体を抱きしめる。
 昨日までの、いや、今日の数時間前までの苛つきが、湯につけた氷のように解けていく。
 そして、不意に気が付いた。
 自分は、こうして巳琴を腕の中に抱きしめたかったのだ。
 巳琴が泣くのは、自分の胸でないと嫌だったのだ。
 そして自分は、巳琴のことを、たぶん美樹原と同じ意味で愛しているのだと。




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