《とらぶるめいかー》


 巳琴は、そのまま熱を出して、翌週の月曜も学校を休んだ。
「ミコちゃん、リンゴすったら食べる?」
 母親が、ドアから顔を覗かせた。
「いらない……」
 巳琴は、布団の中に潜り込んだ。
 本当は、昨日一日眠って熱は下がっている。起きようと思えば起き上がれるのに、そうしたくないのは兄、貴虎と顔を合わせたくないため。
 貴虎は、何も言わなかった。
(ずっと好きだったってこと、伝えたのに……)
 でも、落ち着いてきたら、何も言わないことが兄の精一杯の優しさだと思える。冷たく拒否されるくらいなら、聞かなかったことにしてもらった方がいい。
 女好きで、巨乳好きで、いつでも綺麗な女性たちに囲まれている――そんな、兄が、実の弟を恋愛の対象として見るはずが無い。
(まして、こんな僕じゃ……)
 長い間に培われた巳琴のコンプレックスには、根深いものがあった。





* * *

「嫌だね」
 美樹原は、顔に貼った大きなばんそうこうを指の先で撫でながら言った。
「おい、ミキィ、何があったか知らんが、落ち着いて考えてくれよ」
 宮川が情けない声で縋る。
「僕は落ち着いているよ。落ち着きが無いのは、君だ」
「まあまあ、とにかく、今さら取りやめるわけにはいかないだろ」
 年長の阿部が取りなす。
「何故?」
「何故って、チケットも売れてんだし、穴はあけられないだろ」
「ここのスタジオ代だって……今までの分だって……バカにならないんだぜ」
 宮川の情けない声に、
「そんなの、タカトラに弁償してもらえば?」
 美樹原は、スタジオの角でひとりギターのチューニングをしている貴虎を目で指して言った。
「顔は殴るなって言ったのに、殴ったのは彼なんだからね」
 黙っていた貴虎が、初めて口を開いた。
「てめえは、女優か」
「なんだって」
「ケッ」
「まあ、まあ、まあ、まあ」
「一体、何があったんだよ、二人とも」

 泥酔していた宮川は勿論、その相手をしていた阿部も、あの日、隣の部屋で起きていたことを全く知らない。
 異変に気が付いたのは、巳琴の部屋から出た二人が、廊下で激しい言い争いをはじめたとき。しかし、その理由も分からない。
 
 そして、今、貴虎に顔を殴られた美樹原が、ライブの舞台には立ちたくないと言っている。本来ならば最終音合わせのために押さえていたスタジオでの、美樹原の爆弾発言に、阿部と宮川の二人が焦っているところ。
「とにかく、こんな顔でライブに立たせようなんて、思わないでくれよ」
 美樹原は、スタジオのドアを開ける。
「失礼……顔の傷が痛むんで」
「あっ、おい……」
 美樹原が出て行った後、二人は貴虎に詰め寄った。
「なあ、何があったんだよ」
 貴虎は答えない。
「ミキが抜けたんじゃ、ライブできねえよ」
「殴ったお前が、あやまんないから……」
「謝る気はねえよ」
「タカトラ」
「別に、あいつがいなくったって、演奏はできるだろ?インストでもいいじゃねえか」
 貴虎の言葉に、阿部は溜息をついて言った。
「それじゃ『ウッキーズ』じゃないだろ」




「ったく、あいつら何も知らないくせして、好き勝手言いやがって」
 貴虎は、ギターを背に憮然とした顔で大股で歩いている。
 その姿にすれ違う女性が一斉に振り返るほどの美丈夫ぶリ。普段の貴虎なら、そこで気に入った女性には片目を瞑ってみせるくらいの芸もするのだが、今日に限ってそんな余裕は無かった。
 あの後、結局、二人に脅されすかされ泣きつかれ……で、美樹原を説得するように頼まれた。
 元々、本気で怒った美樹原にもの申せるのは貴虎くらいしかいない。今回は、その貴虎が怒らせているのだから始末に終えないが、それでも、貴虎が謝ることでしか収まらないというのが二人の主張。
「なんで、謝んなきゃなんねえんだよ」
(あいつが、大切な顔を傷つけられたというんなら、俺は、大切な弟を傷物にされたんだよっ)
 傷物と心で言ってしまってから、貴虎は、変に動揺した。
 あのとき、二人はキスしていた。
 美樹原の帰りが遅いのでふと気になって、下におりたのにいなかった。
 まさかと思って、巳琴の部屋をあけたら―――

 美樹原の腕の中で瞳を閉じていた巳琴の顔が甦る。
 白い頬に朱が散って、長い睫毛が切なそうに震えていた。美樹原の肩を握りしめる細い指。その桜色の爪までまざまざと思い出される。実は、あの場を見た瞬間、巳琴から目が離せなかった。
(誰だよ……こいつ…….)
 弟の、初めて見るその顔に、うっかりと見惚れてしまった。
 美樹原の指が巳琴のシャツのボタンを全部外すまで、身動きもできなかった。
「巳琴……」
 あれから、巳琴の顔が真っ直ぐ見られない。
 風邪で寝こんでいるのはわかっていたが、いつもの葛根湯を持っていくのだって憚られた。
 顔を見ると、思い出す。
 あの――すさまじく色っぽかった、あの顔。
「うーっ、何、考えてんだよ、俺」
 頭をぶるぶると振って、いっそう大股で歩く。
 駅について、思案した。
 美樹原の家に向かうのか、それとも家に帰ろうか。





* * *

 本当なら、六時間目の現国が終わって、みんなが帰る準備をしている時間。ズル休みをしてしまった後ろめたさを感じながら、もそもそと巳琴は起き上がった。母親が買い物に出掛けたので、家の中はひっそりとしている。貴虎は大学に行っている。バンドの練習があるから夕飯はいらないと言っているのを、朝、聞いた。
(そういえば、あれから美樹原さん、どうしただろう)
 自分が部屋を飛び出してから、二人の間に何があったのか?
 どんな会話が交わされたのか?
 気になるけれど、貴虎には聞けない。
 ベッドから出て机に目をやり、引き出しを開けると、ここ三日間つけていない日記と携帯電話が肩寄せあうようにちんまり並んでいる。
(とても、かける気分じゃない……上手い、座布団三枚)
 日記を書けると電話をかけるを掛言葉にしてみて、自分で気分を盛り上げようとしたけれど、やっぱり気持ちはへこんだままだ。
 携帯電話を手にして、そろそろ癖になりそうな溜息をついたところで、タイミングよくそれが震えた。
「ひゃ」
 慌てて取り落としそうになりながら、表示を確認する。
 美樹原の名前を見て一瞬躊躇したけれど、思い直してすぐに出た。
「あ、ミコトくん」
「はい」
「今、大丈夫?」
「はい」
「ごめんね、昨日すぐに電話しようと思ったんだけど」
「あ、いいえ……」
 昨日貰っても、自分は寝ていたから出られなかっただろう。
「タカトラ、大丈夫だった?」
「…………」
 巳琴の沈黙に、美樹原はほんの少し焦りを滲ませた声で言った。
「今から、会えないかな」
「今、から」
「もう、学校の近くなんだけど」
「あっ」
 美樹原の言葉に、巳琴は慌てる。
「今日は、学校休んでいて……行ってない」
「え?」
 今度は、美樹原が慌てた。
「タカトラに、何かされたの?」
「えっ? いいえ、そんなこと」
 質問の意味が分からなかったが
「雨に濡れて、風邪をひいてしまったんです」
 巳琴は素直に答えた。
「雨?」
 美樹原は、一昨日、夕方から雨が降った事を思い出した。
 そして、部屋を飛び出した巳琴がその雨にうたれたのだと思うと、胸が疼いた。
「じゃあ、今からそっちに行くよ」
「え?」
 貴虎の家だと思うと気分は良くないが、巳琴が風邪で倒れていると聞いたら、見舞いに行かないわけにはいかなかった。
(どうせ、僕がいなくても、せっかく借りたスタジオだから、インストの練習くらいしているだろう)
 だったらあと二時間は帰ってこないと、美樹原は考えた。




 玄関のベルが響く。
 巳琴はパジャマの上に薄いカーディガンを羽織った姿で現れて、密かに美樹原を喜ばせた。
「ごめんね、病人に開けさせて。誰も、居ないの?」
 巳琴は、ぽかんと美樹原の顔を見つめる。
 美樹原は、ちょっと照れたように顔のばんそうこうを撫でた。
「これ? 見た目ほど大したことないよ」
「どうしたんですか? まさか、兄さん?」
「ん? ああ、まあね」
「やっぱり…」
 あの後、そんなことがあったのかと巳琴は青褪めた。
「とりあえず、上がっていいかな」
 玄関で立ち話もなんだし、と、まるで自分の家のようなことを言いながら美樹原は靴を脱いだ。
「あっ、はい、どうぞ」

 美樹原を部屋に招きいれ、巳琴は
「お茶」
 と、立ち上がりかけて、その腕を捕らわれた。
「買って来たから。病人が気を使わないでよ」
 病人といわれて、巳琴はちょっと後ろめたい。今日は熱も下がっているし、なんでもないのだから。顔に怪我している美樹原のほうが、よほど痛々しかった。
 その美樹原は、相変わらず優しい顔で甲斐甲斐しく
「はい、ジュース。ポカリもあるよ」
 コンビニの袋からペットボトルを取り出す。紙コップまで用意している。
「風邪の時は、水分を取った方がいいからね」
「はあ」
「プリンは? 食べられる?」
「あ、はい……」
 ちょうどお腹がすいてきていたこともあって、巳琴は素直に受け取ると、スプーンをとってすくった。
 大人しくプリンを食べる巳琴を、美樹原は嬉しそうに目を細めて見る。
「あの……」
 巳琴は、こんな場合じゃない、と思った。
(聞かなくちゃ)
「あのっ」
「ん? 何?」
 巳琴の唇に見惚れていた美樹原が、今気がついたように目を瞠る。
「おととい……あの後、兄さんと……」
 どういう話をしたのか?
 殴られている美樹原を思うと恐ろしくて聞けないが、兄にはもっと聞けないだろう。
 勇気を出して訊ねると、美樹原は言葉を濁した。
「まあ……怒っていたね」
 そんなことは分かる。美樹原の顔の怪我だけで、充分想像がつく。
「ほかには?」
「ん?」
「僕のこと……何か……」
 自分の気持ちを知って、何か言っていたなら聞かせて欲しい。
 下を向いて両手で布団のカバーをぎゅっと握りしめている、巳琴の耳朶が紅く染まるのを見て、美樹原は黒い感情を抱いた。
「巳琴くんのこと……」
 巳琴は、上目遣いに盗み見るように、美樹原を見た。
「……何も言ってなかったけど。でも、困ったようではあったね」
「困っ、た……?」
 巳琴は、今回の件で、自分の気持ちは貴虎にばれてしまったと思っている。
 その兄が、困った―――そのことで。
「うん、まあ……あいつには、同性を好きになるって気持ちは分からないからね。根っからの女好きだし」
「………………」
「嫌悪感の方が強いかも。僕なんかには、容赦なかったからね」
 頬のばんそうこうを押さえる。
 巳琴は、小さく震え出した。
 それに気づいて、美樹原の心に罪悪感が芽生える。
「ああ、でも、ミコトくんは大事な弟だからね」
 ニッコリ笑って、布団の上の手を握る。
「大丈夫だよ」
 巳琴は、俯いたまま答えなかった。
 何が、大丈夫だと言うのだろう。
(何も、大丈夫じゃない……)
『同性を好きになるって気持ちは分からない』
 その兄に、嫌悪されてしまったなら―――。
 昨日からずっと心の奥底で悩んでいたことが、決定的になった。
 じわりと涙が滲んで、見つめる自分の手がかすんだ。
「ミコトくん?」
 美樹原がうろたえたように腕を伸ばす。膝立ちになって、その小さな頭を胸に抱きしめた。
「うっ…ふ…っ…う……」
「ミコト……」
(自分が泣かせてしまった……)
 美樹原は後悔したが、それでも、前言撤回はできなかった。
 嘘は吐いていない。最大のライバル貴虎を出し抜くには、ある程度の工作も必要だと覚悟している。
 それでも、勘違いしたまま胸の中で泣く巳琴は、可哀相でいじらしくて、そしてたまらなく愛しくて。
 美樹原は腕に力を込める。

 その時、またもや巳琴の部屋のドアが開いた。

 美樹原の家に行くのをやめ、真っ直ぐ帰ってきた貴虎だった。

「おまえら……」
 貴虎には、引き裂かれそうになっている恋人同士の泣きながらの抱擁にしか見えなかった。




HOME

小説TOP

NEXT