《ばーじんしょっく》 あれから、三回。 美樹原とデートした回数。 (男同士でも、デートって言っていいのかな?いいよね。だって、いかにも…だったし) 鉛筆を持ったまま、巳琴は首をかしげた。 一回目は、海に行った。 夏休み前だけれど日曜だったので家族連れやカップルも多く、それなりに賑わう明るい浜辺でおしゃべりした。 家に帰ったとき、緊張する巳琴に、貴虎は何ごともなかったような態度。それで巳琴は、ホッとすると同時にチリリと胸を痛めた。 二回目は、コンサート。 『高校時代の友人が、市民団体の演奏会でバイオリンを弾くんだ』 それに付き合ってくれといわれた。 『以前一度聴きに行ったら、また、無理やりチケット送ってきちゃって……』 無理やりとか言いながら、ちゃんと大きな花束を買って入れている美樹原を、巳琴は、えらいと思った。 その後、演奏されたマーラーのあまりの大曲ぶりに――要するに長かった――巳琴は途中で眠ってしまって、終わったと同時に目が覚め、かなりバツが悪かった。 『気持ち良さそうだったから』 起こさなかったんだよ、と微笑む美樹原の目がとても優しかった。 そして、この間の三回目は、動物園に行った。 高い木の枝の先でクルクルと回り続ける白い猿をずっと見あげていたら、笑われた。 『いつまで、猿を見てるの』 『だって…可愛いんだよ。あっ、です』 『だよ、でいいよ。そっちの方がいい。でも僕は、ミコトくんの方がずっと可愛いと思うな』 『そんな……猿と一緒にしないで下さい』 『ごめん』 美樹原は、何かにつけて巳琴のことを可愛いという。 巳琴はその度に、落ち着かない、くすぐったい思いをする。 巳琴は、机の上に置いてある小さな鏡を取り上げて覗きこんだ。 大きすぎる目は、眼鏡のせいで余計に大きく見えてバランスが悪いほどだし、小さい鼻は、形は悪くないけれど存在感が無い。口許は母親似だとよく言われるけれど、男にしては、小さく、薄すぎないだろうか? 巳琴は、眉を寄せた。 可愛いといわれる理由が分からない。 (美樹原さんも、目が悪いのかな?) 巳琴は、黒縁眼鏡を外して目頭を擦った。 その睫毛を伏せる横顔も、よく見えない視力で遠くをぼんやり見つめる儚げな素の顔も、はっとするほどの美少年であるということは、本人はたぶん一生気が付かない。 * * * ウッキーズのライブが迫ったある土曜日。 スタジオの練習も充分積んだ。 あとは当日のMCを含めた段取りの打ち合わせということで、メンバーが宇喜多家に集まった。いつもの貴虎の部屋での昼間っからの飲み会。 男四人が集まると、下ネタの一つや二つ出るのは仕方が無いが、いつもその中心は貴虎だ。 「だからさ、詐欺だよ。ありゃ」 缶ビールに口付けながら、貴虎が言う。阿部が頷く。 「ユミがバージンだったとは、俺もわからなかったな」 「だろ? 遊んでるふりしやがってさ」 「でも、遊んでない子の方が良くない?」 美樹原が言うと、 「そりゃ、本気で付き合う相手のときだけだろ」 あとの三人が口をそろえる。 「お前も相当遊んでいるくせして、よく言うぜ」 貴虎に言われて、美樹原は苦笑する。 貴虎は、まだ話を続ける。 「あんなでかい胸して、バージンはないよな」 「胸、関係あるか?」 「揉まれてでかくなったんだと思うだろ?」 と、そこに、外から帰ってきた巳琴が通りかかった。 煙草の煙の逃げ道を作るために細く明けられたドアの隙間から、貴虎の声がする。 「バージンなんてうっとーしくって、やってらんねえっての」 「うっとうしいか」 「俺の私見だが、バージンはウジウジジメジメしている」 「何だよ、それぇ」 貴虎の言葉に、酒の入った宮川が大笑いする。 「カラッとしてねんだよ。やるときはうざったく、やった後はウエット」 「ユミ、そうなんか?」 「世の中のオヤジは、バージンをありがたがるんだけどな」 「そりゃ、自分のセックスに自信がねえ奴らだよ。比べられないですむからな」 貴虎の言葉を、巳琴はドアの外で息を詰めて聞いていた。 「俺は宣言する。二度とバージンとはセックスしない。男も女も、バージンは百害あって一利なし」 ギャハハ……と、宮川の下品な笑い声がおきる。かなり、酔っ払っているらしい。 相当ユミがマズかったんだなと、阿部があいの手を入れる。 巳琴は、ドアの外で固まっていた。 かなりオクテの巳琴にも、バージンの意味は分かった。 巳琴広辞苑《バージン=セックスの経験がない人》 当然、自分もバージンだと思っている。 正確には違う――というようなことを、教えてもらう機会はなかった。巳琴をつかまえて下ネタをできる人はいなかったのだから。 『男も女も、バージンは百害あって一利なし』 貴虎は、女がバージンだと女も痛くて大変だけれど、相手する男だって苦労が多くて大変だと言ったのだが、巳琴はそう取らなかった。 (僕が、ウジウジしているのは……バージンだから!?) 貴虎と比べたら、日本人の九割はウジウジジメジメに分類されてしまうのだが、とにかく、巳琴はそう思ってしまった。 ふらりと膝の力が抜けかけたときに、いきなりドアが開いた。 出てきたのは、美樹原。下ネタ続きにほんの少し嫌気もさして、勝手知ったる他人の家、冷蔵庫からウーロン茶でも貰おうかと立ち上がったところ。 「ミコトくん?」 「あ…」 見上げる巳琴の顔が、上気して艶めかしい。 潤んだ瞳の中に、普段にない性的な色が浮かんでいるのを見て、美樹原は思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。 そして――― 巳琴は、何故今、自分の部屋で美樹原に抱きしめられているのか、分からなかった。 ぼうっとした頭に、さっきの貴虎の言葉がぐるぐる回る。 『バージンなんて、鬱陶しくって、やってらんねえ』 『男も女も、バージンは百害あって一利なし』 (ひょっとして、僕、バージンじゃなくなったほうが、いいのかしら――?) * * * 巳琴がふいに見せた艶めかしい表情(かお)に、美樹原は一瞬我を忘れ、けれど直後に取り戻し、チャンスをものにすべくさっと隣の部屋に引き入れた。そこが巳琴の部屋だというのは知っている。そっとベッドに腰掛けさせると、巳琴は人形のようにぼんやりしたまま素直に従う。 そのあまりの無防備さと愛らしさに、美樹原は、押し倒したい衝動を抑えるのに苦労した。 (落ち着け、自分) 何しろ、相手はこの無垢な巳琴だ。 片膝をベッドに乗り上げて、美樹原は巳琴を包みこむように優しく抱きしめ、そして片手でそっと顔を上向かせた。 黒縁眼鏡を外して、ベッドサイドのボックスの上に置く。 長い睫毛に縁どられた瞳はどこか焦点が合っていないが、今も潤んでいて誘うように揺れている。 「巳琴…」 囁いて、そうっと口づけた。 「ん…」 突然のキスに、巳琴は一瞬、意識を取り戻して身を捩った。 けれどもその途端、きつく抱きしめられて動けない。 するりと差し込まれた舌に、動揺する。 上顎をそっとなぞられたとき、背中がビクッと震えて、思わず美樹原の胸に置いた手を握りしめた。 美樹原のキスはあまりに上手くて、生まれて初めてキスを知った巳琴は、次第に頭の中が真っ白になる。 (気持ち…いい……) 美樹原の暴れる舌が、巳琴の舌を強く絡め取った時、 「んんっ…」 巳琴は小さくうめいて、肩に爪を立てた。 (熱い……) 身体中が熱くなって、中でも腰のあたりに熱が集まっていく。それは、巳琴にとっては初めての感覚。 貴虎の言葉も、何もかも、今の巳琴の頭には無かった。ただ、初めての快感にひどく素直な反応をしている。それが美樹原には、たまらなく魅力的だった。 子供のように素直で、そして、その反応が、目眩がするほどいやらしい。 舌を絡めるたびに、自分の肩を強く握ってくる指先。唾液を飲み込もうと上下する白い喉。 (無意識にやってるとしたら、犯罪的……) 次第に、自分の余裕が無くなってくるのがわかる。 美樹原は、巳琴のシャツのボタンに指を伸ばして、もどかしげに外していった。 そして、二人とも自分達の世界にまっしぐらに突入していたその時、 「何してんだ」 空気を切り裂くような低い声が、響いた。 はっと、美樹原が振り向くと、鬼のような形相の――ありきたりな表現だが、まさにそうとしか言えない顔の――貴虎が立っていた。 唇が離れても、巳琴は美樹原にすがり付いたまま、しばらくぼうっとしていた。 ようやく目の焦点が合って、部屋の入り口に恐ろしい顔の貴虎を見つけたとき、巳琴は自分の置かれた状況を知った。 「あっ…やっ」 羞恥に、顔が真っ赤になる。 顔だけではない。 はだけられた胸元まで、鮮やかな朱に染まった。 (なんで、なんで、なんで――――) 自分が、美樹原とこうなっているのか? 巳琴は混乱した。 はっと自分の姿を見て、シャツに手をやると、巳琴はとっさに美樹原の陰に隠れた。恥ずかしくて、貴虎の前にいられない。 それが、貴虎の気に触った。 「離れろ」 そう言って、貴虎が、美樹原の肩を掴んで力任せに引き剥がす。 「っ……何、する」 美樹原は、その腕を振り払う。 「何するだと? こっちの台詞だよ。ひとの弟に何してんだよ」 「見たとおりだよ。わからなかった?」 開き直った美樹原も、怯まない。 「いくら弟でも、プライベートまで口出しされたくないんじゃないの」 「何をっ」 カッとして、拳を振り上げる貴虎。 「顔は殴るなよ。ライブ近いんだから」 「ざけんな」 「やめてぇっ」 殴り合いになりそうな二人の間に入って、巳琴が叫ぶ。 「や、やめて、よ……僕……」 貴虎と美樹原が自分を見つめる。唇が震える。 「僕は……」 自分は、何をしていたのだろう。 何をしているのだろう。 こんな時に、何が、言えるだろう。 「ミコト」 貴虎が口を開いた瞬間、 「嫌だっ」 巳琴は、部屋を飛び出した。 逃げてもしょうがないのは分かっている。 でも、貴虎の前には、いたくない。 (ううん、いられない――――) 近所の児童公園まで夢中で走った。 子供の頃、よく貴虎と遊んだ場所。滑り台が桃色の象だったので『象さん公園』と呼んでいた。 もう夕方だからか、それとも雲行きがあやしいからか、珍しく子供の姿は無かった。 ベンチにぺたんと座り込んで、まだはだけている胸に気がついて、シャツのボタンを慌ててとめる。 上から二つ目のボタンは飛んでいた。 (どうしよう……) あんなところを貴虎に見られてしまった。 (どうしよう……) 美樹原は、話すだろうか。自分とのこと。 そして、自分の、兄に対する気持ちまで。 「どう、しょ…っ……」 胸が詰まって、涙が出てきた。 ポツポツと膝を濡らす涙に、空から降ってきたものが混ざる。 雨だ。 巳琴は、自然と公園の入り口を見た。目当てのものは既に無い。携帯電話の普及で、最近どこでも見かけなくなった。そこには、昔、電話ボックスがあった。小さい頃、二人で遊んでいて雨に降られて、そこで雨宿りした。 『ほら、ミコト、ここに入れば濡れないから』 『でも、電話、使わないのに』 『いいんだよ。使う人が来たら、譲れば』 『でも……』 『んー、じゃあ、ボクが電話使うから。その間、お前も入ってろよ』 『うん』 『あ、もしもし、お母さん?今、象さん公園。ミコトと遊んでいたら雨が降ってきて……』 貴虎は、雨が止むまで、ずっとしゃべっていた。自分のこと、巳琴のこと、その日遊んだことから、一昨日の給食についての文句まで、時には歌も―――巳琴に聞かせるように。 (あれ、兄さんのお芝居だったんだよね……) ベンチの上で膝を抱えて、クスッと笑う。 電話ボックスは電話を使う人しか入っちゃいけないと思っていた自分を納得させるのに、お金も入れずにしゃべり続けた兄。 帰ってから母親に電話のことを話したら、何も知らず驚いていた。 (あのころ、もう、兄さんのこと、好きだったのかも……) また、涙が出てくる。 電話ボックスが無くなってしまったように、あの頃の二人には、もう戻れない。 膝頭に瞼を押し付けて、雨が自分を叩くリズムを聞いていると、ふいにそのリズムが乱れた。 顔をあげると 「風邪、ひくだろ」 貴虎が、傘を差しかけていた。 「あ……」 一瞬、また逃げ出したい気持ち駆られたが、それより早く貴虎の腕が巳琴を掴んで立たせる。 「帰って、風呂入れよ。冷たくなっちまって……死人みてえじゃん」 「…………」 片手にはもう一本の傘を持っているのに、ひとつの傘に肩を抱くように入れられて、巳琴はきゅっと身を竦めた。 (美樹原さんから……聞いたのかな) 心臓がドキドキと鳴る。口の中が渇く。 顔があげられず、自分の爪先を見て歩く。 突然、貴虎が言った。 「……いつから、好きだったんだ?」 (え……?) 巳琴の頭の中をその言葉が回る。 『……いつから、好きだったんだ?』 『……いつから、好きだったんだ?』 (僕は……ずっと……ずっと……) ずっと、兄さんが好きだった―――ずっと前から――――。 震える声で、小さく答える。 「ずっと……前から……」 「そっか……」 貴虎は、それっきり黙った。 沈黙に耐えられず、巳琴はしゃくりあげた。 「うっ……う……」 ボタボタと涙を零して肩を震わせる弟の肩を抱いて、貴虎は、複雑な思いに胸を焼かれていた。 美樹原と巳琴が付き合うなんて、絶対に許せない。そう思った。 けれども、今、自分の隣で泣く巳琴の姿に、胸が痛む。 『ずっと……前から……』 そんなに泣くほど、美樹原を好きだったというのなら、たとえ男同士でも認めてやるべきだろうか。 けれども、そう考えたときに、こんなにもキリキリと心臓が痛むのは何故だ。 ひとつ傘の中で、微妙にすれ違った思いを抱えたまま、兄弟は雨の中を歩いた。 |
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