《しーくれっとらぶ》


 小教室の席はガラガラだった。
 試験の無いレポート提出のみの必修科目なんてそんなもんだと思いつつ、貴虎は、後期に足りなくなりそうな出席を確保するために座った。
 前方に、美樹原の姿を発見して、立ち上がって移動する。
「よう」
「あれ、珍しい。来たの」
「そりゃ、出られるときに出といた方がいいだろ」
「まあね」
 美樹原も同じクチだ。
 貴虎は、先日の巳琴の様子が気になっていた。
「なあ」
「うん?」
「お前、ミコトに、なんかしたか?」
「え?」
 ポーカーフェイスを心がけ、前方の黒板に視線を送ったまま美樹原は応えた。
「何を? ……ミコトくんが、どうかしたの?」
「……いや、別に」
 貴虎が考える風に顎を撫でさするのを横目で見て、美樹原は余裕の視線を返した。
「何だよ。何か、あったのか?」
「いや、なんでもない。気にすんな」
「そう」
 顔を再び前に向け、美樹原は、心の中でほくそえんだ。
 決して貴虎には気づかれないように。





* * *

 学校の正門を出たところで、ブルブルとポケットが震えた。
 巳琴は、慌てて携帯を取り出す。結局返すこともできず、どこかに置いておくことも憚られ、その名のとおり携帯していた。
 表示を見ると――美樹原裕也―――
「……かかってきちゃったよ」
 手の中の携帯電話をじっと見る。
 出ようかどうしようか、迷っているうちに切れた。
「あ……」
 そこで初めて、その電話に出て、携帯を返しに行く約束を取り付ければよかったのだと気が付いた。
(ああっ、ばかばか! 僕のばか!)
 自分で自分を叱っていると、再び手の中の電話が震えた。
 表示を見て、急いで出る。
「もしもしっ!」
「ダメじゃない。ちゃんとすぐに出なきゃ」
 電話の向こうの声は、笑いを含んでいた。
「ごめんなさい」
 ペコリと頭を下げると、プッと向こうで吹き出す音。
「可愛いなあ、ミコトくん」
「え?」
「道路の向かい、赤いポスト見て」
 目をやると、ポストの横に美樹原が立っていた。
 にこやかに笑い、胸元で小さく手をふっている。
「あう…」
「信号、渉っておいで」
 巳琴は、言われるままに歩いて行った。





「何でも、好きなもの食べていいよ」
「あ、紅茶で…いえ、紅茶が…いいです」
「食べないの?」
「夕御飯、ありますから」
「でも、高校生って食べ盛りじゃない。僕だって、高校の帰りにはマックとか寄ったよ?」
「はあ」
 美樹原の上品な顔にはマクドナルドとかあんまり似合わないな、と、巳琴はぼんやり考えた。
 ちなみに、ここはマックではなく、それなりに小洒落た喫茶店。
「あんまり食べないから、そんなに華奢なのかな」
 頬杖をついて、巳琴を見つめて美樹原が笑う。
 巳琴は、同級生の中でも小柄だ。でもそれは三月生まれだから仕方ない、と、巳琴は自分に言いきかせている。あと一週間遅く生まれていれば、一学年下だったのだ。四月生まれの貴虎が同級生の中でも目立つほどの長身であることも、誕生月が早いからだと巳琴は思っている。
「じゃあ、お茶飲んだら、どこに行こうか?」
 突然言われて、巳琴はびっくりして、コップを倒しそうになった。
 それをさっと庇ったのは、驚かせた当の美樹原だったが。
「どこって……」
 自分は、携帯電話を返すために店に入ったのだ。人目の多い商店街の、ポストの前じゃあんまりかと思って。
 巳琴が言葉を失っていると、美樹原は腕の時計を見て、言った。
「今からなら、映画も見れるけど。ミコトくん、何か見たいのある?」
「いいえ」
 こんな時間から映画を見たら、帰りは夜になってしまう。
 巳琴には、考えられない行動だ。
「そう?」
 美樹原は、首をひねって考えるふりをした。
「じゃあ、ちょっと遠いけど、ディズニーランド行こうか? スターライトチケットで花火見よう」
 もっと考えられなかった。




「すみません。遅くなるときは、ちゃんとおか、あ、親に、言っておかないと……」
「え? ああ、そうか」
 美樹原は、ちょっとがっかりした顔で
「そうだよね。今日は、突然だったもんね」
 柔らかそうな長い前髪を、軽くかきあげて言った。
「驚かそうって思ったんだけど、失敗だったな」
「あっ、いいえ」
 その表情に、申し訳ない気持になって、巳琴は慌てて否定する。
「僕が、いけないんです。その……うちって、普通の家より厳しいみたいで……」
 タカトラは、好き勝手やってるけどね、と、美樹原は思ったが、口には出さなかった。
 たぶん宇喜多家のご両親も、どこに行っても人を押し退けて生きていけるサバイバル能力に長けた兄と、どこか無防備で危なっかしい弟とは、違う育て方をしているに違いない。
(それが、親として当たり前)
 美樹原は、コーヒーカップに唇を当てて、ひとり頷いた。
「じゃあ、今度はちゃんと許可をもらって来てよ。そうだな、あさっての日曜、昼からずっとあけておいて」
「えっ?」
「どこに行くかは、僕が考えておくから」
「ち…」
「帰り遅くなるって、お母さんに言っておいて」
「遅く、って……」
 一体、何時と言えばいいのか、と、疑問に思って訊ねると
「そうだなぁ、最初からあんまり遅いとマズイから、九時」
 ねっ、と微笑まれて、巳琴はいつの間にか承諾したことになっているのに気が付いた。





* * *

 日曜の朝起きてからずっと、巳琴はそわそわと落ち着きが無かった。
そして、兄、貴虎がそれを見過ごすはずもなかった。
「おい、ミコト、どこ行くんだ?」
「えっ? ……どこにも」
「行かないときに、お前がそんな格好するか」
 巳琴の、きちんとボタンを上までとめた綿シャツと薄手のジーンズ姿を指差す。確かに、特に用事の無い日の巳琴は、Tシャツと短パンか、スウェットの上下が定番だ。
「ちょっと、友達と……」
「だれ?」
「……兄さんは、知らない人だよ」
 応えながら、巳琴は息が詰まりそうになっていた。
 貴虎に嘘をつくなんて、どう考えても無理なのだ。
 心臓はドキドキして、頭はクラクラして、それでも絶対本当のことは言えない。言ったら最後、美樹原の口から、自分の兄に対する想いまでが暴露されてしまう――巳琴は、そう思っていた。
「なんか、怪しいな」
 すれ違いざま、貴虎が巳琴の肩を掴もうとすると、巳琴は後ろめたさにそれを振り払った。
 一瞬、驚いた顔の貴虎と目が合って、巳琴は焦った。
 焦ったあまりに、逆ギレ。
「もうっ、子供じゃないんだから、誰とどこに行こうと勝手じゃないか!!」
 言ってしまって、自分でもびっくりして、そのまま玄関に駆け出した。

 ドキドキドキドキドキ……
 心臓が高鳴っている。
(兄さんに、あんなこと言っちゃった……)
 スニーカーに足を突っ込んでそのまま飛び出して、しばらく走って角を曲がってようやく立ち止まる。
 貴虎は、追いかけては来なかった。
(そりゃ、わざわざ追いかけてくるのも変だよ)
 息を整えながら、内心呟く。
 けれども、本当は追いかけてきて欲しかったのかも。
(……わけ分かんない)
 スニーカーの紐をきちんと結び直して、待ち合わせの駅へと向かう。
(なんで、こんなことやってんだろ?)
 弱みを握られたから?
 いや、別に、脅されたわけじゃない。
「やっぱり好きだって言われたのが、嬉しかったのかな」
 美樹原の線の細い美貌を思い浮かべて、巳琴は頬を赤くする。
 自分が好きなのは、貴虎だ。
 この気持ちは、変わらない。絶対。
 でも、美樹原のことも―――嫌いじゃない。
 自分の気持ちなのに、よくわからないまま、巳琴は生まれてはじめてのデートに向かった。





* * *

 駅に迎えに来た美樹原は、予想に反して車でやって来た。
「電車じゃ、ないんですか?」
「うん、恥ずかしながら、この春免許取ったばっかりなんでキャリアは若葉なんだけど。でも、運転は上手いと思うよ」
 グランツーリズモ得意だし、と美樹原は笑う。巳琴は、それは何か違うんじゃないかと思った。
「じゃあ、なんで、駅で?」
 待ち合わせたのか、と訊ねると、
「ロータリーになってて、拾いやすいから」
 と返事が返った。
「タカトラにばれても良ければ、家まで迎えに行ったんだけどね」
「それは……」
 巳琴が言葉に詰まると、美樹原は優しく背中を押して助手席へと誘った。

「どこに行くんですか」
 これも初めて座る他人の車の助手席に、緊張しながら訊ねると
「海」
 簡潔な答えが帰ってきた。
「海?」
「定番でしょ?」
 ふふふ、と前を向いたまま笑う美樹原の横顔を見て、何となく巳琴は落ち着かない。

 窓の外を流れる景色を眺め、美樹原と取り留めない話をしている間。
 出かけに見た、貴虎の顔が浮かんでは、消えた。
(ビックリしてたよね……兄さん……)

 生まれてはじめてのデートは思いのほか楽しかったのだけれど、やはりずっと、兄のことが頭から離れなかった。




HOME

小説TOP

NEXT