《あなざがーる あなざぼーい》


「ウッキーズって、名前、変じゃない?」

 日曜の朝。
 巳琴はライブの案内チラシをながめながら、兄、貴虎のバンドの名前について感想を洩らした。
 貴虎は何を今さらと言った顔で応える。
「宇喜多の作ったバンドで、ウッキーズのどこが変だよ」
「だって、何だかお猿さんみたいだよ? せっかく、ビジュアル系なのに」
「なんだと?」
 貴虎は、自分のバンドをビジュアル系扱いされるのは嫌いだった。
 巳琴にヘッドロックをかけながら、
「俺たちは、ビジュアル系バンドじゃねえぞ」
「いた、痛いよ、やっ」
 貴虎の腕を振り解こうともがきながら
「だって、本格派ロックバンドは目指してないって、前に、言ってたじゃないか」
 ジタバタすると、貴虎は、腕を首に巻きつけたまま、笑って応えた。
「当たり前だ。俺たちの目指す音楽は、スチャラカだからな」
「スチャラカ?」
「そっ、ルックスも良くて曲も良くて、でもスチャラカ。いいだろ?」
「よく、わかんないよ」
 貴虎の腕が緩んで楽になった巳琴は、今度はその腕の温もりを追いかけるように両手で掴んだ。
 解くふりをして、縋りついてしまう。
 そんな自分が女々しくて嫌だけれど、でも、この腕は温かくて気持ちいい。巳琴はうっとりと瞳を閉じた。

 
 そこに派手な着信音が響いた。貴虎の携帯電話だ。


 するりと貴虎の手が離れる。
「はい、あ?ああ、ユミ…あ?今から?」
 携帯の相手は、新しい彼女のようだった。
 巳琴の胸がチクリと痛む。
「はあ?もう来てんのかよ? ったく…じゃ、来いよ。あ? ああ、はいはい」
 貴虎は、眉間にしわを寄せながら話し終わると、パタンと携帯を閉じ、
「近くまで来てるってサ。確信犯」
 ウンザリしたように言った。


 五分もしないうちに玄関のベルが鳴った。
 ジーパンを穿き替えていた貴虎が、
「わり、ミコト、ちょっと待つように言って来てくれ」
 そう言うので、巳琴は仕方なく玄関に出た。

 初夏にはまだ早そうな、鮮やかな原色のタンクトップとミニスカート、腰にGジャンを巻いている。すらりと伸びた脚の先はかかとの高いサンダル。真っ赤なペディキュアが目に刺さる。
 しかし、何より巳琴が焦ったのは、その彼女の大きな胸だった。
 目のやり場に困るほど。
「あの、兄さん、今、来ますから……もう少し待ってて下さいとのことです」
「そう……あなた、タカトラの弟?」
 ユミとかいう彼女は、面白そうに巳琴を眺め回す。
 巳琴は応えずに、踵を返した。
「じゃあ……すみません」

 リビングに戻りながら自己嫌悪。
 ちゃんと挨拶もできない自分に? ……違う。
 あんな女に『すみません』とか言ってる自分に。
 
 そして――彼女と、あまりにも違う自分に―――。




「んじゃ、ちょっと出かけてくる」
 リビングのソファに沈んでいる巳琴に、貴虎は近づいて
「見たか? あの胸。でけえだろ?」
 と囁いた。
「かわりに、おつむは空っぽだけどな」
 ケッと笑って、貴虎は出て行く。
 巳琴は、ただ黙って膝を抱えた。


(おつむが空っぽでも、胸が大きければ、兄さんが好きになってくれるんなら、その方がいい……)
 自分の心臓の上に手をおいて、そのペッタンコの感触に、情けないけれど胸が痛んでそのままぎゅっとシャツを握った。
 自分の心臓が泣いている音が伝わってくる。
 今まで、色々な女性が貴虎の彼女として目の前に現れ、そのたびに、こんなに苦しい思いをしている。
(なんで、慣れないんだろう)
 膝をかかえてうずくまり、ころんと横になると、いつのまにかそのままソファで寝てしまった。



「おい、こら起きろよ」
 貴虎の声に目を覚ました。
「あれ? …もう、夜?」
「ねぼけてんじゃねえよ。お前、こんなところに寝ていたら、また風邪ひくぞ」
「う…ん」
 時計を見ると、まだ二時前だった。
 貴虎が出かけてから、三時間も経っていない。
(どうしたんだろう……)
 また喧嘩して別れたのかと思うと嬉しくなる自分に、再び自己嫌悪を感じつつも、やっぱり口許が緩んでしまう。
「お帰り、兄さん」
「おう」
 そして、貴虎が続けて
「これからバンドの連中来るから、買出し行ってくれよ」
 そう言ったとき、巳琴は改めて思い出した。
――――美樹原のこと。




* * *

「元気だった?」
 美樹原がニッコリと笑いかける。
 けれども巳琴は、視線を逸らして
「こんにちは」
 それだけ言うと、買ってきた菓子類の入ったコンビニの袋を手渡しして、そそくさと自分の部屋に戻った。
 美樹原にはからかわれたのだと思っているから、巳琴の態度は固い。
それに美樹原は、かすかに眉を寄せた。


「ふう…」
 自分の部屋で机に向かうと、頬杖をつく。眼鏡を外してレンズを拭いていると、後ろから人の気配がした。びくっと振り向くと、美樹原が立っている。
 しっ、と人差し指を立てるので、巳琴は、目を見開いたけれど声を出すのは我慢した。
「ごめんね、驚かせた?」
「ど、して……」
「トイレ借りるって言って抜けてきた」
 優しげな風情で微笑む顔に、巳琴はつい惹き込まれそうになったけれど、慌てて目を逸らした。
「ミコトくん、怒ってる?」
「え? ……いいえ」
 下を向いたまま応える。
「じゃあ、何で?」
「何でって…別に……」
「そんな態度されると気になるよ。告白までした身としては」
「そっ…」
 巳琴が顔をあげると、
「やっと見てくれた」
 美樹原が嬉しそうに笑った。
「そんな…からかうのは、やめてください」
 落ち着かない思いで視線を泳がせると、美樹原のほうは驚いたように目を瞠った。
「何を、からかってるって?」
「この…この間の、話です」
「僕と付き合って欲しいって行ったこと? からかってると思ったの?」
 だって、そうとしか思えない……そう巳琴は思ったけれど、口に出せなかった。
 黙って唇を噛んでいると
「ショック……結構、勇気がいったんだけどね」
 哀れっぽい声で言われた。
「そんな、だって、あの後、何にも……」
 思わず返すと、美樹原はクスクス笑った。
「なんだ。やっぱり、あの後ほったらかしていたから、怒ってるんだ」
「違います」
「どう違うの?」
「だから…こんな風に、からかわれるのが嫌なんです」
「何で、からかってると思うの?」
「だって、美樹原さんみたいな人が、男の僕に、そんなこと言うの変です」
「変かな」
「変です」
「だって、ミコトくんだって男なのに、男の、お兄さんの、タカトラが好きなんでしょ?」
 美樹原に言われて、かあぁっと顔に血が上った。
 首も耳も、鎖骨まで、真っ赤になってうつむくと、
「もう、ほんっと、可愛いったら」
 ぎゅっと抱きしめられてしまった。
 顔を美樹原の胸に押し付けられて、巳琴は慌てた。
「やっ、やめ…」
 胸に手をついて突き離そうとすると、意外にあっさり解放された。
「ミコトくん、携帯、持ってる?」
「え、いいえ」
「あ、そうなの?」
 番号を訊ねようとしていた美樹原は、
「お母さんが。大学生になってから、って」
 巳琴の返事に、新鮮な驚きを感じる。
(いまどき!)
「タカトラは持ってたよね。高校のときも」
「あれは、兄さんが勝手にバイトして買ったんです。自分で払ってるし」
「そっか」
 美樹原は、自分のポケットから携帯電話を取り出すと、器用な動作でいくつかボタンを押した。
 巳琴は、何だかわからずきょとんと見る。
「はい」
「え?」
「この携帯、預けるから」
「えっ?」
「掛けるのは自由に使っていいけど、掛かって来たのは、名前確認して、僕の名前が出たときだけ出て」
「さっきの……ひょっとしてメモリー、消したんですか?」
 巳琴は、手の中の携帯電話を見ながら、呟くように訊ねた。
「僕のだけ、入れといた」
「でも」
「もうひとつあるから。大丈夫だよ」
 美樹原はことも無げに笑う。
「困ります」
 つき返すと、
「何で? 預けただけだよ? 預かってもくれないの?」
「だって」
「僕以外から掛かってこないように、番号も変えるね」
「そんなの……」
「僕が、連絡とりたいからなんだけど……そんなに、迷惑かな」
 美樹原の再び哀れっぽい声に、巳琴は何も言えなくなる。
「じゃ、もうそろそろ戻らないとね」
 携帯を持たせたままの巳琴の手をぎゅっと握って、耳元で囁いた。
「タカトラには、絶対内緒だからね」

 巳琴は、何のリアクションもできず、呆然と取り残された。





「遅かったな、美樹原」
 部屋に戻ると、メンバーが待ちくたびれた顔をしていた。
「意外だったな、ミキ」
「えっ?」
 貴虎に言われて、美樹原は一瞬、ぎくりとした。
「お前が、他人の家でウンコできるヤツだとは思わなかったぜ」
「…………」
「あ、するなって意味じゃないから、気にすんなよ」
「……どうも」





* * *

 巳琴はドキドキしていた。
 美樹原を好きになってしまったとか、そう言うことではない。

『タカトラには、絶対内緒だからね』

 物心ついて以来、兄に隠し事などしたことは無かった。いや、その兄への恋心こそ一番の隠し事だけれど、それ以外には無かった。
「やっぱり、返さなきゃ……」
(でも、どうやって?)

 夕食の後、巳琴は貴虎にそっと訊ねた。
「兄さん」
「ん?」
「美樹原さんって、兄さんと同じ学部だよね」
「ああ、あいつと会ったのがうちの入試の時だからな。それが?」
「……授業とか……一緒になる?」
「そりゃ、一年のうちは必修が殆どだから。だから、何だよ」
「う、ううん」
 兄のいないところで、美樹原に会いたい。兄に知られず、返したいから。だから、兄の選択していない授業で美樹原が出席するものがあったら、その時間に大学まで返しに行こうと巳琴は考えた。
 けれども、その授業を兄から聞き出すのは至難の業だ。
「ミキ…美樹原が、どうかしたのか」
 貴虎に不審気に尋ねられて、巳琴は慌てて首を振った。
「なっ、なんでも、ない」
 赤くなった顔をふせて、自分の部屋に駆け込む。

 その後ろ姿を目で追って、貴虎は眉間にしわを寄せた。



「だめだ……」
 机に座って溜め息をつく巳琴。
 その預かった携帯のメモリーから美樹原に電話して呼び出せば良いものを、そこまで思いつかないのが巳琴だった。

 いつもの日記帳を開いて、また溜め息をつく。
「どうしよう……今日は……書くことが、多すぎる」





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