《ぶらざーこんぷれっくす》


「兄さんっ!」
 宇喜多巳琴(うきたみこと)は、大声で叫びながら、兄、貴虎(たかとら)の部屋のドアを開けた。
「なんだよ、突然開けんな」
 貴虎は寝転んでいたベッドから身を起こすと、長い足を誇示するように伸ばして降りた。ドアで立ち止まっている巳琴のところまで行き、
「マスかいてるとこだったらどーするよ?」
 前髪をかきあげながらニヤリと笑う。
「そ…んなこと知らないよっ、それよりこれっ!」
 巳琴は、右手に持っていたソレを貴虎の鼻先に突き出す。
「へっ?―――なんだ、コンドーサン」
 小さな袋を手にとって、
「どうした、これ?」
「僕が知るわけないだろっ、台所のカウンターに置きっぱなしになってたんだ」
「ああ、じゃあ、俺のか」
「当たり前だろ」
「まあ、オヤジのってこともあるけど」
「お父さんが、あんなところに置きっぱなしにするもんか」
「確かに……それにもう、こんなものの世話になることもないだろう、オヤジ……」
 遠い目をしてみせる貴虎。
「もう! どうでもいいけど、そんなものばら撒いて歩かないでよ」
 巳琴はぶりぶりと怒って部屋を出て行こうとした。
「あ、ちょっと待てよ」
 三つ年上の兄、貴虎は、その巳琴の肩をつかんで呼び止めた。
 巳琴は、赤い顔をしたまま振り返る。
「お前も高校生になったんだから、常備しといた方がいいんじゃないの? 一個やろうか」
「けっこうですっ!!」
 巳琴は、兄の胸を突き飛ばして、部屋のドアをバタンと閉めた。





* * *

 宇喜多巳琴は、高校一年生。ごく普通のサラリーマンの父と、お出かけ好きの明るい専業主婦の母、そしてかなりインパクトの強い兄を持つ四人家族の一番下っ端。もし犬でも飼っていたら、間違いなくその犬からもマウンティングされてしまうような立場。
 一見普通の高校生のようで、その実、決して人には言えない秘密があった。
 それは―――


「巳琴は、実の兄に恋しているのです」
(ぎゃーっ)
 自分で呟いて、恥ずかしさのあまり、机に突っ伏した。
 机の上には、中学から書き綴っている分厚い日記帳。
 自分のことより、兄のことばかり書かれている。
『台所で兄のコンドームを拾ったショック』をつづろうとして、その馬鹿馬鹿しさに溜め息をついた。
「なんかこれじゃ日記って言うより……ストーカー?」

 ページをめくると貴虎が―――
 バンドの仲間とどこどこに飲みに行ったとか
 そのまま三日帰ってこなかったとか
 いついつ彼女とどこどこに出かけたとか
 その彼女とは二週間で別れたとか
 すぐに新しい彼女を連れてきたとか
 その彼女とも一週間で別れたとか
 ―――どうでもいいようなことが、事細かに書かれている。

「どうでもいいようなことなんだけど。どうでもよくは……ないんだよ」
 もう一度溜め息をついて、巳琴は眼鏡を外してレンズを拭いた。
 家族の中で、眼鏡をかけているのは巳琴だけだ。殆ど勉強しないのに頭の良い兄についていくため、一生懸命に勉強した結果、小学校六年生から眼鏡のお世話になっている。あまりの童顔のため、ノンフレームや銀縁の眼鏡が全く似合わず、いわゆるダサい黒縁眼鏡をかけていて、それがまた巳琴のコンプレックスを密かに刺激していた。



「おい、ミコト」
 貴虎の声が自分を呼ぶ。二人の部屋の間の壁がダンダンッと叩かれる。
「あっ、何っ?」
 叫んで部屋を飛び出して、隣の部屋に駆けつける。
 コンドームの件では怒っているふりをしたけれど、兄の言うことには絶対服従の弟だ。

「わり、ミコト、茶いれて」
 貴虎の部屋には、いつの間にか大学のバンド仲間が三人集まっていた。
「お邪魔してます」
 女性的な美貌を持ち貴虎とバンドでの人気を二分する、ボーカル美樹原裕也(みきはらゆうや)がニッコリ微笑んだ。
「あっ、いらっしゃい、ませ」
 巳琴は、ぺこりと頭を下げた。
「ひさしぶり、ミコトくん。高校生になったって?」
 そう言いながらスティックを指先で回すドラムスの阿部誠(あべまこと)は、一人だけ大学も年齢も違う。貴虎がまだ高校生のときにライブハウスで冗談半分に歌っていたのを聴いて、バンドに誘ったのがこの阿部だった。結局、貴虎が『ボーカルよりギターがやりたい』と言って自分の大学のサークルで新しいバンドを結成したので、それに引き抜かれる形で貴虎のバンドに入った。『ナンパしたつもりがされていた』と、阿部は笑ってそう言った。

「すごいなあ、海星高校って相当頭よくないと入れないでしょ」
 阿部が言うと、
「だって、こいつ、お勉強得意だもん」
 その海星で努力もせずにトップクラスだった貴虎が笑った。
(兄さんと同じところに行きたくて、頑張ったんだよっ)
 巳琴は内心で叫ぶ。
 入学してからは――まだ三ヶ月ほどだが――先輩や教師に『あのタカトラの弟か』と注目され、次には若干失望され、で、巳琴のコンプレックスはますます深くなっていた。
 そんな巳琴の気も知らず、
「だって、こいつ、小学校三年のとき、主要新幹線の駅名とか暗記して全部言えたんだぜぇ」
 可笑しそうに言う。
(ひぇ!)
 突然の話題に、巳琴はうろたえた。
「新幹線の種類とかも覚えていてさ。ほら、よくいるだろ? 『この顔は、のぞみです』とか言っちゃうガキ」
(ヤーメーテー(涙)!!!)
「へえ、ミコトくんって、鉄道少年だったんだ」
 そう訊ねるのは、ベースの宮川省吾(みやかわしょうご)
「ち、違います」
 巳琴は、真っ赤になって否定する。
「そんな恥ずかしがることないよ。子供の時ってそういう何かに夢中になるもんじゃない」
「そうそう、俺なんか切手集めてたぜ」
「僕も、原色動物図鑑とかで珍しい動物の名前を覚えるのが好きだったな」
 兄の友人達が口々に慰めだかなんだかわからないことを言うのに、巳琴はブンブンと首を振った。
「本当に、鉄道マニアとかじゃありません」
 ただ貴虎が喜んでくれるから一生懸命覚えたのだ。

『へえ、すっげえミコト、んじゃ上越新幹線の下りの高崎の次はナーンダ?』
『すげえ〜、全部覚えたのかぁ』
(兄さんが、嬉しそうに笑って、すごいって言ってくれたから……)


 その貴虎は、今、ニヤニヤ笑っている。
「じゃ、僕、お茶入れてきます」
 居たたまれなくて、立ち上がると
「あ、やっぱお茶じゃなくて、酒がいい」
 貴虎が、財布を投げてよこした。
「コンビニじゃなくて、角の酒屋で買って来いよ」
「……わかった」
「制服着ていくなよ」
「うん」
「てゆうか、ミコトくんじゃ私服でも売ってもらえないんじゃない?」
「そ、そんなこと、ありません」
「僕が一緒に行こう」
 美樹原が立ち上がった。
「別にいいぜ、こいつ一人で」
 貴虎がいうと、美樹原はニッコリ笑って
「だって、どうせ曲できるまで僕は用無しだからね。散歩ついでに買ってくるよ。いこ、ミコトくん」
 巳琴の背中を押して、部屋を出た。





* * *

「すみません」
 結局、重いビールを美樹原に持たせて、巳琴は申し訳無さそうに謝った。
「いいよ、飲むのは僕達なんだから」
 美樹原はそう言って、巳琴の顔を見てクスリと笑った。
「な、なんですか?」
「ううん、ミコトくんって、タカトラの弟とは思えないよね」
 その言葉に、巳琴はズキンと胸を痛めた。
 男らしくてハンサムで、頭も良くてスポーツ万能の兄。
『弟とは思えない』
 その言葉はいつも、巳琴にとっては心臓を刺す棘だった。
 黙ってうつむく巳琴を気にする風もなく、美樹原は続けて言った。
「ミコトくんは、タカトラのこと、本当に好きなんだね」
 その爆弾発言に、巳琴は激しく動揺した。
「なっ、なんでっ…そっ…」
「何で、って、見てればわかるよ」


 わかる?
 見てれば?


 生まれて十五年間、ずっと一緒にいる実の兄――その当の本人――には全く気づいてもらえていないのに。まだ会ってから三ヶ月足らず、顔をあわせたのは両手で数える程のこの人に、わかっちゃったんだ!


 巳琴は、顔を真っ赤にして慌てて否定する。
「そそそそんなこと、なな、ないです」
 そんな、男同士で、しかも兄弟なのに――!
 と、叫ぼうとしたときに、
「僕は、弟がいないから、羨ましいな」
 美樹原は、ぽつりと言った。
「へ?」
 ぽかんとして立ち止まった巳琴に、隣を歩いていた美樹原も振り返って、
「ん?」
 首をかしげた。
「いっ、いいえ…」
 巳琴は、ヨロヨロと歩きはじめた。
(そ、そうだよね。男同士の兄弟で好きだっていったら、兄として……って、意味だよね)
 それなのに、勘違いして心臓をドキドキさせている自分が恥ずかしい。
 まだ赤い顔をどうしようかと思って、つい掌で頬をさすったら、美樹原がまたクスッと笑った。
「本当にミコトくんって可愛い。タカトラと血がつながっているとは思えない」
「えっ?」
「タカトラがライバルなのは、手ごわいけどね」

(な、何を、言ってるの????)
 今度こそ、巳琴は固まった。




「タカトラのこと好きでかまわないから、僕と付き合ってみない」

 美樹原は、あの後、そう言った。
 巳琴は、どうやって家に帰ったかもよく覚えていないほど、動揺しまくった。
 自分の兄に対する秘めた想いが兄の友人にばれていて、しかもその人から告白された。
(男同士なのに……)


 巳琴のたった十五年の人生の中では、最大最高の衝撃といっても過言ではない。ぼおっとした頭でよくわからないまま夕飯を食べ、よくわからないまま風呂に入り、よくわからないままベッドに潜り込んで、うとうとしかかった時にはっと気が付いた。
(あっ、今日の日記書き忘れた!)
 ぱちっと目を開けて、目の前にある顔に驚く。
「ぎゃ――――っ!!!」

「なっ、なんつー声だすんだよ」
「に、兄さん?」
 兄、貴虎が驚いて仰け反っている。
「なな、なんで……」
 僕の部屋に? と続けたいのだが、口をパクパクするばかり。
「お前、夕飯んときも、ぼおっとしてただろ? 顔も赤かったし、風邪でもひいたんじゃないかと思ってさ」
 見ると、ベッドサイドのカラーボックスの上に、宇喜多家風邪予防最強アイテム葛根湯が湯気を立てている。
「あ……」
 兄の優しさにジンとした。
 昔からそうだ。普段は口が悪いのに、病気のときとかはとっても心配してくれる。
「わざわざ作ってきてくれたんだ……」
「お湯で溶くだけだからな」
 そう言って、貴虎は腕を伸ばして巳琴の額の熱を掌で測る。
 巳琴の心臓がトクンと鳴った。
「なんか、やっぱりちょっと熱いな」
 顔の近くで囁かれて、巳琴の心臓はますます鼓動を早める。顔にも熱が上ってくる。口の中が渇いてきて、無意識に唇を湿らすと
「マジ風邪っぽいぜ、お前」
 葛根湯のマグカップが突きつけられた。


「じゃ、暖かくして寝ろよ」
 ドアの外に貴虎の長身が消えるのを目で追って、そしてひとつ小さな溜め息をついて、マグカップに唇をつける。
(やっぱり、僕は貴虎兄さんが好きだ。美樹原さんには、悪いけど、ちゃんと言おう……)


 そして、葛根湯で温かくなった身体を布団に沈める。

 日記を書くのを忘れた事を思い出すのは翌日の朝だった。




* * *

 美樹原にちゃんと断ろうと思ったのに、あの後一週間、美樹原とは一度も顔を合わせていない。貴虎の話から察するに、大学の方の試験が始まって忙しいらしいけれど、スタジオでのライブの練習はやっているようだ。
(ひょっとして、からかわれたのかな……)
 そう思うと、動揺した自分が恥ずかしくなる。
(そうだ…そうだよ。だって、美樹原さんみたいにカッコいいひとが、男の僕に付き合ってくれなんて……普通、言わない。っていうか、絶対、言うわけない)
 四月に貴虎の初ライブを見に行った時、初めて見た美樹原は大勢の女の子に囲まれていた。
(からかわれたんだ)
 そう思うと顔から火が出るほど恥ずかしく、そして次には、ほんの少し悲しくなった。


 何故悲しいのか、よくわからない。
 自分から、断ろうと思っていたのに。

 けれども、生まれて初めて他人から『好きだ』と言ってもらえたことは、巳琴にとって、やっぱり嬉しい出来事だったらしい。高校に入って兄と比較されるたびにコンプレックスがますます積もって、胸のコップの中がいっぱいになりかけていたところ、少しすくい出してもらったような感じがしていた。

「……からかわれたんだ」

 口に出すと情けなさが倍増して、巳琴は大きく頭を振った。
「こんなときは……日記だ」

 何故そうなるのか―――

『辛いこととか、大変なこととか、パニック起こしかけそうなときも、頭の中で悩んでないで紙に書いてみると、そんなに大したことじゃないって思えるぜ』
 兄、貴虎の言葉。

 
 自分と違って、ちょっとしたことでクヨクヨしたり、やるべきことが複数生じるとパニックを起こしかける弟巳琴へのアドバイスだった。
 巳琴はそれを忠実に守って、辛い時も悲しい時も、やることが沢山あって途方にくれそうな時も、ひたすらノートに書いた。それが、今では日記になっている。
 要するに、巳琴の日記には、あまり楽しいことは書かれていない。
巳琴自身は決して根暗でも何でもなく――かといって、明るいとも思えないが――どちらかと言うと天然ボケといわれるタイプなのだが、こと日記に関しては最初の導入がそれだったので、なんともトホホな内容ばかりだった。



「おい、ミコト」
 リビングで貴虎が呼ぶ。
「何? 兄さん」
 学校から帰ってきた巳琴は、鞄も持ったままいそいそと傍によった。
「来月のライブ、お前、よかったら彼女でも連れて来いよ」
 ぴらりと、チラシを渡される。
 先日来練習しているライブの案内状。
「彼女なんか……いないよ」
「げえっ、お前、高校入って何やってんだよ。海星はそりゃ男の方が多いけど、女だっているだろ?」
 と、宙を睨んで、
「いや、なにもあの高校でさがすこともないか。ブスばっかだからな」
 コンプライアンスに引っ掛かりそうな暴言を吐く。
「でも、ほら、白鳥とか清和とかお嬢さま高校だって近くにあるだろ? 海星だっていったらホイホイついてくる奴らが」

 そんな『奴ら』がどうしてお嬢様なんだよと、内心言い返しながら、巳琴はむすっと鞄をソファの上に投げて置いた。
「いないもんは、いないんだから……」

「……そっか…そりゃ、兄ちゃん悪いこと言ったな」
 気の毒そうに眉を顰める貴虎だが、目は笑っている。
 巳琴の肩に腕を廻して、耳元で囁いた。
「だったら、タマッてるだろ? ちゃんと、自分で抜いてるか?」
 冗談半分に股間に指を延ばされて、巳琴は物凄い声で叫んだ。
「ぎゃあああああ!!!!」



 庭で芝生に水を撒いていた母親が飛んでくる。
「お兄ちゃん、何、ミコちゃんを苛めてるのっ」
「いじめてねえよ」
「嘘つきなさい。ミコちゃん、涙目じゃない」
「いじめてないって、兄として、弟のムスコの心配をしてやっ」
「わ―――っ」
 ふたたび叫んで、貴虎に最後まで言わせず、巳琴は自分の部屋のある二階に駆け上がった。

 母親は
「弟の息子って、甥っ子?? だれのことよ」
 貴虎に向かって言った。




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