『保健室でのこと、忘れてくれ――――あれ、無かったことにしてくれよ』 なんでそうなるんだ? 五時限目の数学の授業中。春日は混乱していた。 あの時――――口づけの最中に胸元で握り締められた指も、うっとりと見上げてきた瞳も、間違いなく自分を好きだといっていた。 その強のいきなりの『無かったことにして宣言』は、春日にとってはまさに晴天の霹靂。 (一体、なんなんだよ……) (一体、何なんだ) これは沢木の心の叫び。 学食での泉の態度に腹が立つ。わざと無視した自分のことは、棚に上げるのが沢木の性格。 (いつもの泉なら、あそこで涙をためて駆け寄ってきたはずだ……) そして、長い睫毛を伏せて 『ごめんなさい、あっくん』 蚊の鳴くような声で言って、沢木の胸に顔を埋める。 そうすれば自分だって、直ぐに許してしまったはずだ。 それが……強と一緒に、わざわざ遠くの席に座った。 (泉……) 昨日からのイラつく炎に油をそそがれ、沢木の機嫌は、黒板に書かれている比例グラフのようにナナメ四十五度。 「じゃあ、この問題を沢木君、解いて」 数学教師高山が、鼻の上の眼鏡をずり上げながら言うが、沢木の耳には入っていない。 「沢木君?」 春日を除く全員が沢木に注目しているが、沢木は不機嫌そうに眉間にしわを刻んだまま、左手を唇の下に当て、じっと自分の机を睨んでいる。 その鬼気迫る表情に、高山は内心怯えた。 「あー、難しかったかな、それじゃあ……」 小さくもごもごと呟いて、こういうときに頼りに出来る生徒を指す。 「春日君、解いて」 クラスの視線は、一斉に春日に移る。 春日は頬杖をついて、麗しい流し目で遠くを見ている。心ここに在らず、というのがありあり。 さすがに高山も教師として何か言わねばと考えた。沢木ほどは怖くないだろうというのが本音。 「春日君、聞いているのかっ」 数学教師の怒りの声に、ふっ、と顔を上げた春日が、忽然と立ち上がった。 「おっ」 解いてくれるのかとチョークを差し出す高山を綺麗に無視して、春日は教室を出て行った。 「へっ?あの、春日君?」 高山の声も、クラスの注目も、春日には伝わっていない。 廊下に出ると、次第に歩みが早くなる。 一年の教室につく頃には、ほとんど駆け足になっていた。 (納得、いかない!) 春日は、一年松組の教室の扉を開けると、授業中にも関わらず真っ直ぐ強の席に向かった。 「か、春日?」 強が瞠目する。 泉は青くなる。 そして英語教師工藤は、突然やって来た生徒会長に呆気にとられている。 春日は、強の腕を取って立ち上がらせると 「話がある」 冷たいほどの美貌で見つめながら、教室の外に連れ出した。 泉は金縛りにあったように動けず、二人の背中を見つめた。 「何だよ、やめろよ」 強が、腕を振り払おうとすると、春日はその腕を痛いほどに掴んで、動きを縛る。 「痛いっ、ち、ちょっと、待てよ、離せ」 ジタバタと抗う強をものともせず、強引に校舎の外に引っ張っていこうとするので、強が叫んだ。 「足、痛ぇんだよっ」 春日が、強を振り返って、初めて気がついたような顔をした。 「……ごめん、強」 春日に見つめられて、強はまた心臓が跳ね上がるのを感じた。 春日が、すっと腕を伸ばして、強を横抱きにする。 「げっ、やっ、やめろっ、何すんだよっ、また……」 強が赤くなって暴れる。 「足、痛いんだろ」 春日は呟いて、強を抱いたまま校舎の裏に向かう。真っ直ぐ行けば、百万石寮。 「ど、どこまで行くんだよ」 「ゆっくり話の出来る所まで」 寮の裏庭のベンチに強を下ろして、春日が見下ろす。 強は、憮然として春日を見上げる。 「一体、何だよ、これっ」 強が噛み付くと、春日は静かに応えた。 「そのまま、返すよ」 「え?」 強が怯む。春日は、無表情にも見える顔で 「一体、何だ?昼間の言葉」 「う……」 狼狽する強の顔をじっと見つめる。 その視線が痛くて、強は目を伏せた。 「言った通りだよ」 強は、唇を噛む。膝の上で拳を握る。 「あれは、無かったことに……したい」 言葉にすると、また、胸がぎゅっと痛んだ。 「強……」 春日の声に、背中がゾクリとした。 (怖い) 本能的な怯えに顔を上げると、春日の秀麗な顔が直ぐそばに近づいて、両腕を押さえ込まれた。 「な、に?」 怯える強の膝の間に身体を滑り込ませて、春日が圧し掛かるように被さってきた。 「やっ、やめっ……やめろ」 「嫌だ」 「春日」 強の声が震える。 以前春日の部屋で無理やりにされたことを思い出して、身体がこわばった。 春日が、クスリと笑った。 (そんな顔するなよ) これじゃ、あの時と同じだ。 『好きでもない相手と寝るなんてできない』 そう言った強を、無理やりにイかせた、あの時。 あれから、自分たちの距離は、ずい分縮まったと思っていたのに――――。 「強……俺のこと、好きじゃない?」 額が触れるほどに近づいて、じっと見る。 強の瞳が揺れる。 「俺は、強が好きだよ」 何度も冗談めかして言った言葉に、今は、祈りにも似た気持ちを込める。 「強が、好きだ」 「か、すが……」 強の呟きが、低く掠れた。 「強は?」 自分のことを好きだと感じた、気持ちが通じ合ったと思ったあの保健室のキスを信じたい。 「強も、俺のことが、好きだろ?」 強の顔が、くしゃっと歪んだ。 「や……」 「強」 「っつ……うっ」 下を向いて、強が苦しそうに喘ぐ。 春日は押さえていた腕から力を抜いて、静かに跪いた。 うつむく強を覗き込むように見上げる。 「強、答えてよ。俺のこと、好きだろう?」 強の目から、一筋涙が零れた。 「強」 春日が唇でその涙を拭うと、強は耐え切れず声を洩らす。 「うっ……だっ、て……ダメ……なん」 両手で口を押さえる。 「ダメ、なんだ…っ……」 小さく喘いで嗚咽を堪える強に、春日は眉を上げる。 「何が?」 強の両手を包み込んで、そっとおろす。 「何が、駄目なんだよ」 強は、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、真っ直ぐ春日を見つめた。 「泉が……」 「泉?」 「俺が、春日を好きになったら……泉が傷つくから……」 (泉?) 何故、ここで泉が出てくるんだ。春日は、眉を顰めた。 「泉が反対するから、俺と付き合えない、って言うのか?」 春日の問に、強は黙ったまま、唇を噛んで下を向く。春日の手の中で、強の手が小さく固く握り締められた。 「何故?」―――泉が、反対しているのか? 春日が、首を傾ける。 強は、下を向いたまま応えない。―――応えようも無いのだ。 春日は、立ち上がった。 「わかった」 「春日?」 見上げる強に、唇の端を上げる薄い微笑みを返して、春日は校舎の方へと駆け出した。 「本人に聞くほうが早い」 「え?春日っ?」 泉は、英語の授業が終わって直ぐに教室を出た。 春日は、強をどこに連れて行ったのだろう。 あのとき、直ぐに追いかければよかった。けれども、身体が動かなかった。春日の顔があまりにも真剣で、恐ろしかった。 (ツヨくん、酷いことされてないといいけど……) 心の中で呟いて、すぐにその言葉を否定する。あの春日が、強に酷いことが出来るはずがないのだ。 泉にも、もうわかっていた。春日も本気で強が好きなのだ。だから、授業中に乗り込んでくるほどの馬鹿なことが出来たのだ。 そして強も春日の事を愛しているのなら、反対する理由があるのだろうか。 (でも……) 『春日先輩は、ツヨくんを幸せにしてくれるでしょう?』 自分の問いかけに、答えはなかった。 『ヤチは、あんまり、誰かを好きになるとかいうタイプじゃないからな』 『良いわけないんだけど……仕方なかったな――本気で惚れる相手じゃなかったんだよ』色々な言葉が、泉を混乱させる。 「わからない……」 校舎の裏に出ながら、泉はまた涙を零す。 そこに、春日が戻って来た。 「泉」 びくっと顔を上げると、涙で霞んだ先に春日の綺麗な顔が歪んで見える。 「春日、せん、ぱい……」 小さく呟くと、春日は、泉の腕を取って言った。 「お前が、反対する理由を教えてくれないか?」 あまりにも単刀直入な問いかけに、泉の顔が青褪める。 「色々あるのかもしれないが……聞かせてくれよ」 微笑む春日の顔は、本人にはそのつもりが無くても、泉には十分恐ろしかった。 いや、後ろめたいという気持ちの方が強いのかも知れない。 「やっ……」 掴まれた両腕で顔を隠して、その場にしゃがみこむ。 「泉?」 怒っているつもりは無い。ただ聞きたいだけだ。春日は、腕を取って立たせようとした。 「ご、めん、なさいっ」 「何言ってるんだ。違うだろっ」 泣き続ける泉の肩を掴もうとしたときに、春日の身体が引き剥がされた。 「泉に、何してんだっ」 沢木が、春日の身体を後ろに突き飛ばす。 「あっくん……」 春日は、不意をくらって地面に膝をついた。 「っつ」 春日も頭に血が上っている。 「ざけんなよ、おい」 春日らしくない悪態をつくと、手の泥を払って沢木に掴みかかった。 「何の真似だっ」 「こっちの台詞だ」 沢木も学園祭の夜から、むちゃくちゃ機嫌が悪いのだ。春日の挑発をこれ幸いと受けて、格闘を始めてしまった。 「やっ、やめてっ」 泉が叫ぶ。 叫ぶ目の前で、沢木が春日の頬を殴り、春日の体が校舎の壁に打ち付けられる。 「やめて、あっくんっ!」 尚も掴みかかる沢木を、春日は背中を壁に預けたまま、右足で思い切り蹴りつける。と、今度は沢木の身体が、大きく跳ね飛ばされた。 「いやぁ、やめてっ」 泉の叫び声は、二人の耳には入っていない。 拳を打ち付け合い膝蹴りをかわしながら、狂った獣のように戦っている。 泉は気を失いそうになった。 (だ、だれか……そうだ、誰か呼んで……) そう思うのだが、足が動かない。ただ、大きな涙の粒をひたすら零しながら二人の男の喧嘩を見つめている。 春日の拳が沢木の目からこめかみに向けて流れるように打ち付けられた時、ぱっと赤い花弁のような鮮血が散った。 (血!) 「いやあー―――――――――っ」 甲高い叫び声を上げて、泉が二人の間に割り込んで、沢木に抱きつく。 春日は、尚も拳を振り上げ―――― 「いーかげんにしろよっ」 頭から、思い切り水を浴びせかけられた。 沢木と泉も一緒に濡れる。 見ると、防火用のバケツを持った強が肩で息をしている。 「強」 春日が、我に返って呟いた。 「ツヨくん……」 泉も涙とバケツの水でグチョグチョになった顔で見返す。身体は、沢木にしっかりと抱きついたまま。 「一体、何の騒ぎだよ」 強がぜいぜいと右足を引きずりながら近づいてくる。 沢木と春日は、気まずそうに顔を見合わせた。 「うっ…ふっ……う……」 泉が、声を上げて泣き始めた。 「ごめんなさい。僕が……僕が悪いの……っ」 * * * 泉は、泣きながら全部を語った。 途中、何度もしゃくりあげ、言葉も途切れ途切れになりながら。 それでも三人は、我慢強く最後まで聞いた。 「それじゃ、泉は、春日じゃ俺が『幸せにしてもらえない』って、そう思ったのか」 強の言葉に、泉がコクリと頷く。 春日は複雑そうな顔。沢木は真面目な顔で、顎を擦りながら言った。 「それは、正しい。泉は、間違っちゃいない」 「あのなぁ」 春日が横目で睨む。 「自業自得だ。なっ、ヤチ」 沢木の言葉に、春日は内心で叫ぶ。 (俺の相手だった男が言うなっ) 「……ごめ、ん、なさい」 泉が泣きながら春日を見上げる。長い睫毛に縁取られた大きな瞳が真っ赤だ。 春日は、少し胸が痛んだ。 (この子も、強を愛している) そして、心配されるような過去があったのも事実。 「俺こそ、謝らないといけないな。弟思いのお兄ちゃんに、心配かけたんだから」 「うっ、ふ…ううっ……ふえーん」 えぐえぐと泣く泉を、沢木がそっと抱き寄せる。 強は、小さく溜め息をついた。 「俺、泉がまだ春日と沢木のこと、気にしているんだと思っていた」 「え?」 沢木の腕の中で、泉がびっくりしたように顔を上げる。 「春日が俺の傍にいるのが、辛いんだって、思ってた」 ふるふると泉は首を振る。 「そんなこと……だって、アメリカから帰ってきて、春日先輩はずっとツヨくんのそばにいたじゃない」 自分が、沢木の元に行ってしまってから、その強を支えるように傍にいてくれたのは春日だと、改めて泉は考えた。 (なのに……僕は……) また涙を流す泉の頭に、強はそっと手を伸ばした。 髪を撫でながら、優しい声で 「俺のためだったんだ……ありがとう、泉」 「ツヨくん」 「でも、それなら大丈夫だから」 ニッコリと笑った。 そして、春日をチラッと振り返り、顔に血を上らせながら泉に向かって言う。 「俺、別に、誰かに幸せにしてもらいたいとか、考えてないから」 「ツヨくん?」 「や、いや、そういう考えもあるんだろうけど……俺の場合、幸せにしてもらうっていうより、その、一緒に幸せになりたい、っていうか……無理やりなる、っていうか……えと、何だ……」 言っているうちに混乱して、ますます顔が赤くなる。 後ろで春日がクスクスと笑った。 「そうだよな、強」 「何だよ、春日」 強が、照れも半分、キッと振り向く。 春日は、この上なく美しい微笑を返す。 「俺も、わかった。俺も、強を幸せにしてやるって自信持って言えないけど。強と一緒に幸せになりたい、ってのははっきり言える」 「何だよ、それ」 顔を赤くして、強が唇を尖らす。 「愛の告白だよ」 そう言って、春日がそのとがらせた唇に軽く口づけた。 |
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