「イタ……痛い、春日っ」
「そりゃこんなに腫れていたら痛いだろう。病院に直行した方が良かったかな」
春日は強をベッドに座らせて、足首に救急用のスプレーを吹き付け、改めてテーピングを施した。
「病院からもらった薬なら、俺の鞄に入ってるよ」
小さな声で呟くように言う強を、春日は床に跪いたまま見上げる。
「ホントに、何で黙ってたんだよ、この馬鹿」
「だから、それは……」
赤い顔をしてうつむく強。その顔があまりに可愛くて、春日はゆっくり立ち上がると、自分もベッドに腰掛けてそっと抱きしめた。強の身体は、一瞬ぴくっと反応し、けれども素直に身体を預けてくる。
「俺に言っちゃ、悪いと思ったんだ?」
強は応えなかった。
「馬鹿だな、強」
強の膝の上に置かれた手が、きゅっと握り締められたのがわかった。
春日は、強の頭を抱くと、今度は歌うように優しい声で言った。
「ばぁか、強」
そう言いながら春日は、強の気持ちに感動していた。

『だって、せっかくお前が庇ってくれたのに……守ってくれたのに。怪我したなんて……言えない』

―――可愛くて、健気な強。俺のために……俺に知られたくなくて、我慢して、無理した―――
「結局、俺のせいか……ごめんな、強」
「ち、違う、春日のせいじゃねえよ」
はっと顔を上げると、あまりにも近いところに春日の顔があって、強は動揺して睫毛を震わせた。
春日は、抱いていた腕に、そっと力を込めた。自然と、強の喉が反る。
ゆっくり唇を落として、軽く触れるだけのキスをした。強の顔を覗き込むと、瞳が潤んで、ぼうっとしている。それは酷く艶めかしくて、誘っているようにも見えた。
(いつか見た、あの顔……)
春日は微笑んで、右手で強の頬を包むと、今度はしっかりと口づけた。舌を差し入れると、強もおずおずとそれに応える。強の両手が、春日の着物を握り締めた。
唇が離れると、強は急に恥ずかしそうに身を捩って、わざとぶっきらぼうに言った。
「春日、化粧臭い」
「えっ?」
言われて初めて、春日は、自分がまだ劇の女装のまんまだったことに気がついた。
「げっ」
念願かなっての、強とのキスが――ファーストキスでこそないのだが――女装のままというのは、春日の美意識からするとかなり情けない。

強は、ちらっと上目遣いで見返して、非常に気まずげな春日と目が合い、ぷっと吹き出した。春日のこんな顔は初めて見た。いつも余裕ありげに微笑んでいるのに。
そういえば、自分もまだ忍者の格好のままだ。こんなところで、なんて間抜けなラブシーンだろう。
「綺麗だけど……女の人みたいだ」
その女性よりもはるかに美しい顔を見上げて強が笑う。
「すぐ落として、着替えてくるから、この続きをしよう」
「え?続き、って?」
強が耳まで真っ赤になった。
春日は嬉しくて、再びぎゅっと強を抱きしめる。
強は、ほんのりと香る白粉の匂いに何故か懐かしい気持ちさえして、うっとりと目を閉じた。


パタパタと小さな足音が響いて保健室の扉の開く音がした。
二人がはっと身を離すと、カーテンが開いて泉の小さな顔が覗いた。
「ツヨくん」
泉の目は、涙で真っ赤になっている。
春日の姿を見て、ほんの少し怯えたように瞳が揺れたが、そのまま真っ直ぐ強に抱きつく。
「ツヨくん」
「泉」
「大丈夫?ツヨくん」
強の肩口に額を押し付けて、べそべそと泉は泣き続ける。
強は泉の背中を撫でて、優しく笑った。
「大丈夫だよ。泣くなよ、泉。大丈夫だから」
強にとっては、いつまでもこの泣き虫の兄は守るべき存在だった。
自分のために泣かせたくない。
「ねえ、泣かないで、泉」
顔を覗き込んで、困ったように微笑む。
「本当に大丈夫なんだよ、もう平気だから」
「ツヨくん……」
泉は、その顔を見て、サワッと背中に震えが走った。
(違う……)
今までの強じゃない。何が違うとはっきり言えないけれど、強が……違う。
双子だからわかるのだ。
何か、強を変えてしまったもの―――――。
隣に立つ春日の存在を意識して、泉はもう一度震えると、強にきつく抱きついた。
「泉、どうしたんだよ」
「ツヨくん、帰ろう。部屋に帰ろう」
泉が、抱きついたまま涙声で言う。
強はそっと顔を上げて、春日の顔を見る。その気配すら、泉にはわかってしまう。
春日は微笑んで頷いて、
「じゃ、部屋まで送ろう」
泉の肩に手をかけた。
泉はビクッと肩を震わせると、涙に濡れた顔を上げて言った。
「いいえ、大丈夫です。僕が連れて帰ります」
「え?」
「泉……」
春日も強も普段にない泉の強い調子に驚いた。
「僕が、背負います」
泉が言うと、春日はクスクス笑った。
「寮に着く前に、つぶれちゃいそうだな」
「大丈夫です」
「泉、どうしたんだよ」
強はきょとんとしている。
まさか、自分の怪我で、泉が急にお兄さん意識を持った―――とは、思えない。
「俺が抱いて行ったほうが、早い」
春日が言うと、強が慌てた。また、あんな恥ずかしい思いはしたくない。
「歩けるよっ」
「無理するな」
「歩けるってば」
痴話喧嘩のような二人を見て、泉は不安に胸が押しつぶされそうになる。

(ダメだよ、ツヨくん……)


* * *
結局強は、足を引きずりながらも自分で歩いて帰ってきた。
あの後直ぐに沢木もやって来て、着物姿の春日に代って背負ってやろうと言ったのだが、強は頑なに嫌がって、泉の肩を借りて自分で歩いた。
「あいつにだけは、借りを作りたくねえからなっ」
ひょこひょこと歩く強に付き添いながら、泉はなんと言って切り出すべきなのか、ずっと悩んでいた。

寮の部屋に帰ると、泉は、ベッドに腰掛ける強の前に立った。
「どうした、泉?俺もう大丈夫だから、学園祭に戻れよ」
「ツヨくん」
「沢木も待ってるんだろ」
「ツヨくんっ」
顔を紅く染めて涙を流す泉に、強は驚く。
「泉、本当にどうしたんだ?俺の怪我、たいしたこと無いぞ」
泉は、真っ直ぐに強を見ると、しゃくりあげながら言った。
「ツヨくん、春日先輩のこと、好きなの?」
泉の言葉に、強は息を飲んで、動けなくなった。
保健室での春日とのキスが甦る。
(まさか、見てた、のか?)
じわじわっと顔を染めていく強に、泉は抱きついた。
「ダメだよ、ツヨくん」
「え?」

すがりつく泉の腕を握り返して、強が小さく呟く。
「ダメ、って、何が……」
泉は強の肩口に押し付けた顔をふるふると振って、涙声で繰り返す。
「ダメ、ツヨくん。春日先輩は、ダメ」
「……何で?」
「ダメ」
春日では、強を幸せに出来ない。
いろいろな人と身体だけの関係を繰り返していると聞かされた、そんな春日を本気で好きになったら、ぜったい強が傷ついてしまう。
泉はその思いで苦しくなって、強の胸元で小さく喘いだ。
「お願い、ツヨくん、春日先輩は……ダメ」


泉の震える背中を見て、強はぼうっと考えた。
そして、この春の出来事も思い出す。
泉は、沢木と春日のベッドシーンを偶然目撃して、おかしくなっていた。
誤解が解けて沢木と幸せになった泉だが、そのときのショックは消えていないのだろうか?
春日とも、普通に接していたはずだけれど、本当は無理していたのだろうか。
そして、もしも自分が春日と付き合ったら、泉は、春日の顔を見るたびに、辛い思いをするのだろうか?
「泉……」
そっと髪を撫でる。細く柔らかな、光の加減で栗色に輝く髪。この手触りが大好きだった。さらさらと指の間から零れる髪を、また指先ですくいながら、強も鼻の奥がツンとした。

ついこの間まで、誰よりも愛しくて、本気で好きだった可愛い泉。それが、恋愛の対象でなくなったのはいつからか。そして、自分をそう変えたのは、誰なのか。
大人びた微笑みを浮かべた春日の美貌が脳裏に浮かぶ。
綺麗で、強くて、優しい――――そんな春日に、惹かれていた。気がつかないうちに……。
ようやく、素直に認めることが出来たのだけど、それが泉を傷つけるというのなら……。
「泉」
耳元に唇を寄せて囁くと、泉は涙に濡れた顔をゆるゆると上げた。
泉の長い睫毛に縁どられた瞳の中に、自分の顔がぼやけて見える。
泉の涙のせいなのか、自分が泣いているからなのか、わからない。
でも――――――

「俺が好きなのは、泉だけだよ」

「ツヨくん?」
「大丈夫。春日のことは、何とも思っていないから」
「………………」
「泉は、何も心配しなくていいんだよ」
「ツヨくん……」
泉は強に再びすがり付いて、心の中で叫んだ。
(ごめんね―――ごめんね、ツヨくん。でも、あの人じゃ、ツヨくんが……傷ついちゃう)
けれども、だった今見た、強の酷く切ない表情は、泉の胸を押しつぶす。

強は、やっぱり春日のことが好きだった。
もう、好きになっていた。
それを、その気持ちを、諦めさせることができるのか?
そうすることが良かれと思って言ったのだけれど、自分が強を苦しめたようで、泉も辛くて悲しくて、涙が止まらなかった。




HOME

小説TOP

NEXT