学園祭前夜。
強はそっとベッドから起き上がると、泉が寝てしまったのを確認してバスルームに行った。
足首を水で冷やしながら、
「だいぶ腫れも引いたし、大丈夫だ」
小さく呟く。
あの後、宙乗りのシーンを沢木とのアクションシーンに変更して練習したときは、それほど痛いと思わなかった足が、次の日、熱を持ったみたいになっていて驚いた。
泉に気づかれないように病院に行くのも大変だったけれど、そのあと、部屋でクスリを塗ったりテーピングしたりするのはもっと大変だった。

『本番に向けて、足を痛めないように、サポーターをしてるんだよ』
『そうなんだ』
泉はいつでも素直に強の言葉に頷く。

本当のことを泉が知ったら、ボロボロ泣いて、劇に出るのをやめろというだろう。
けれども、強は、絶対に劇に出たいと思っていた。
みんなで一生懸命練習してきた、大切な劇だから。
それだけじゃない。
『強こそ、大丈夫?』
そう言って微笑んだ春日の顔を思い出すと、何故だか身体が熱くなる。
ロープが緩んだ瞬間、春日は自分より上のロープを掴んでいた。抱き上げるポーズをとっていたのだから、あのまま落ちたら間違いなく自分のほうが下になっていた。
けれど、舞台の床にぶつかった時、自分は春日の胸に抱かれて守られていた。
(守ってくれた……)
その時、右足だけが床に打ち付けられたのだろう。それほど酷くはないけれど、捻挫してしまった。
そのことは、絶対誰にも知られたくない。
春日には、特に―――――――。
強は唇をきゅっとかんで、伸縮包帯でテーピングした。


* * *
「おおっす、強、二時からだったよな、劇。見に行くから頑張れよ!」
ウェイターの格好をしたリイチこと飯田利一が強に声をかける。
一年紅葉組は模擬店で喫茶店をやっているのだ。
「ああ、早く来ないと、席、無くなるらしいぜ」
強が応えると、泉が驚いたように瞬きした。
「そうなの?じゃあ、僕も早く行かなくちゃ」
「ああ、泉は大丈夫だよ」
「え?」
長い睫毛に縁取られた瞳を大きく見開いて小首をかしげる。そんな泉が相変わらずめちゃくちゃ可愛いと強は思った。
「泉には、ちゃんと指定席を押さえてるってさ。センターの前から四列目」
「特等席だなぁ」
利一がうらやましそうに言って、ニヘッと笑った。
「俺がそこに座って、泉を膝に乗せるってのはどうかな」
「いいけど、沢木に殺されるぞ。絶対」
「ツヨくんっ」
赤くなる泉を見て、強は笑った。
足の調子もいいし、今日はなんだか気分がハイだ。
劇も上手く行きそうな気がする。そろそろ体育館に行って、準備をしよう。
「じゃ、俺、先に行くから」
「うん、ガンバってね、ツヨくん」

色々な声援を受けながら体育館に向かう途中、渡り廊下のところまで来て、強は足を止めた。あの藤代と春日が二人で話をしている。
ドキン
心臓が跳ねた。
春日と藤代が以前付き合っていたということを、藤代の口から聞いている。
『セックスフレンド』
意識して、顔に血が上った。
動けずにそのまま佇んでいると、春日が気づいて顔を向けた。優しい声で呼びかける。
「強」
その声に、何故だか胸がきゅんと痛くなる。強はペこりと小さく頭を下げた。
春日が近づいてくる。
藤代はその場に立ったまま、ポケットから煙草を取り出してくわえた。強のほうをニヤニヤと笑いながら見ている。

「何だよ、強、どうしたんだ」
「や……別に」
何で頭を下げたのか、自分だってわからない。邪魔をしてしまったのでは、という気持ちもあった。
(邪魔をした……?)
自分で考えて、胸が痛んだ。そして、その痛みに動揺する。
「体育館に行くところだろう」
春日が微笑む。
「うん」
「俺も行くよ」
そして、後ろを振り向くと
「それじゃ、藤代先輩、俺たち準備ありますんで」
藤代は、軽く片手を挙げてそれに応えた。
体育館まで春日の横に並んで歩きながら、強は胸の痛みの理由を探っていた。
こうして、並んでいてもいつもより心臓の鼓動が早い気がする。
(変だ……俺……)



百万石学園祭名物、生徒会時代劇『和装007〜お庭番は二度死ぬ』
多少のアドリブも混ぜながら好調に進んで、いよいよクライマックス。
体育館も異様な興奮に盛り上がっている。なにしろ、今年の生徒会役員にはファンが多い。
女装した春日の初登場シーンでは、男の悲鳴が聞こえたほどだ。
そして、主役強もまた、確実にここでファンを増やしたといえた。
「ツヨくん、カッコいい」
泉は、生徒会が用意してくれた指定席――白布付き、座布団付き――で、両手を胸の前で握り締めて、うっとりと舞台を見ている。たまにポロポロ涙を零すのは、感動しているからだ。舞台の内容は決して感動モノではなく、ただのパロデイお笑い演劇なのだが。
(あっくんも、素敵……)
「ははははは、よくここがわかったな、への七番」
春日を腕に抱いた悪の総帥沢木が笑う。エリザベスカラーに、腰まである長髪のカツラ。こんなものが妙に似あっているのが、さすが沢木だ。
への七番こと強が叫ぶ。
「お前が、総帥か?春日様を放せっ」
「七番殿おっ」
春日も、のりのり。
アクションシーンに入ろうというところで、強の右足が滑った。
(つっっ!)
捻った?!
強は内心で叫んだ。一度捻挫しているところは、再度、捻りやすいとは聞いていたが。
(なんで、こんなところで!!)
強は、悪の組織の手下役と派手な立ち回りを演じながら、脂汗が浮いてくるのを感じた。

(強?)
春日は強の動きがおかしいことに気づいた。右足を庇っている。表情が酷く辛そうなのも演技では無いだろう。
けれども、必死の形相で殺陣をこなした強は、そのままバク転に入ろうとしている。
舞台の中央から上手の袖にかけて、宙返りをして消えた強が、そのままカーテンの陰にうずくまったのを見て、春日は駆け出した。
「あ、おいっ、ヤチ……じゃなくて春日っ」
驚いて叫ぶ沢木。
春日は舞台を突っ切り、反対側の袖の奥にうずくまっている強の傍に行き、跪いた。
「強、足、どうした?」
右足首にそっと手を伸ばすと、強が痛そうに顔を顰めた。テーピングの感触が手に当たる。
「今、じゃないな、いつから……」
はっとして
「あの、落ちた時か?何故、言わなかった?」
とがめるような口調に、強は唇をぎゅっと噛んだ。
「強、どうして」
「だって……」
春日の言葉を遮るように、強が唇を震わす。
「だって、せっかくお前が庇ってくれたのに……」
強の目じりに涙の粒がジワッと浮いた。
「守って……くれたのに、怪我したなんて……言えな……」
「強……」
春日はうつむく強の頭を衝動的に抱きしめて、肩口に押し付けた。
強の手が無意識に春日の着物を握り締めた。
舞台を見ると、直ぐに出てくるはずの主役が来ないので、悪の組織の手下役が右往左往している。
「臆したか!への七番!どこへ隠れた」
沢木がアドリブで、つないでいる。
「逃げた春日ともども探し出せ」
「ははあっ」

ふっと春日は溜め息ともつかない笑みをもらして、強の耳元に口づけるように囁いた。
「後は俺たちに任せて、じっとしていろよ」
「かす、が?」
目元を赤く染めて見上げる強に、春日は口づけたい情動を覚えたけれど、ぐっと堪えて立ち上がった。
舞台に戻りながら、あまり似合わぬ大声を出す。
「よくも七番殿に手傷を負わせてくださいましたわね、こうなったら私が相手ですわ」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を出した沢木めがけて、春日が着物の裾を割って廻しげりを繰り出す。
場内から悲鳴のような歓声が沸いた。
「ちょっと、何だ、これは」
春日の突きをかわしながら、沢木が小声で訊ねると、春日も小声で囁いた。
「強が怪我して動けない」
「なるほど、それでアンダースタディか」
ここは宙乗りの替わりに、強と沢木の組み手のシーンを作ったところだが、春日は完璧に振りを覚えているようだ。
「よく覚えているな」
沢木が、拳を突き出しながら言う。
「愛かな」
春日は、それを右腕で受けて、身を沈めながら微笑む。
「誰への?」
「決まってる」
はあっと、掛け声とともに繰り出される大きな蹴りを、今度は飛び上がってよける。
練習は一度もしていないのに、さすがの生徒会名コンビ。会場は大興奮。

強は、ぼうっとその舞台を見ていた。右足がズキンズキン疼いているけれど、頭の芯はなんだか白っぽくぼんやりしていて、痛みを感じない。
『後は俺たちに任せて、じっとしていろよ』
耳元で囁かれた吐息が熱かった。思い出すと、身体が熱くなる。
(春日……)
強は、自分が春日に惹かれていることに気がついた。


アドリブで大受けに受けた生徒会の劇が終わって、強は保健室に連れて行かれた。
「いやだ、離せよ。離せったら」
強が暴れるのを、抱き上げた春日が嗜める。
「落ちるから、じっとしてろ」
春日は、歩けない強をお姫様抱っこして体育館から保健室まで運んで行った。
「……せめて、背中で背負って欲しい」
赤い顔をして強がつぶやくと、春日は笑って
「悪いな。帯が邪魔でおんぶは出来ないんだよ」
春日も強も舞台の衣装のまま。当然、周囲の生徒からたくさんの視線が集中する。
「すっげえ、恥ずかしいっ」
強は、落ちないように春日の首と肩に廻していた両腕に力を入れて、顔を伏せてぎゅっと目を瞑った。
目を閉じている間に、保健室に着いてしまっていて欲しい。
春日は、そんな強の反応を楽しむかのようにゆっくりと歩いた。

泉は、足早に保健室に向かっていた。
劇の最後が、練習と違っていて――面白かったので、演出かとも思ったけれど――それが強の怪我のせいだと知って慌てた。
「会長が、保健室に連れて行ったから、大丈夫ですよ」
書記長の児島はそう言ったが、心配でたまらない。ジワッと泣きそうになったところで、声をかけられた。
「強くん?」
振り向くと、藤代が立っていた。
「と、思ったら違った。ええと、弟のほう……」
「兄です。兄の……羽根邑泉です」
眉を寄せて、拳を小さく握って応えた。
「ああ、そうだったね。ごめん、ごめん」
軽く手を振って謝った藤代は、泉の姿をじっと見て
「この前、二人一緒に見たときは似てない双子だと思ったんだけど、別々に見ると間違えるくらいには似ているんだな」
屈託無く笑った。
泉は、前に沢木から聞いたことを思い出した。
(この人が、春日先輩と付き合っていた……)
じっと藤代の顔を見つめると、藤代が『何?』という風に眉を上げた。
「春日先輩と、付き合っていたんですか?」
泉は、思わず口に出して訊ねていた。
「え?ああ、聞いたの?」
藤代はここでも頓着せずあっさりと答えた。
「身体だけだったけどねぇ」
泉の顔に朱が散った。
藤代は、その反応に目を細めた。
泉は、この藤代から話を聞きたいという気持ちになった。
何故だか、どうしても気になるのだ。春日のこと―――強のために。
「藤代先輩以外にも……春日先輩は、付き合っている人、いたんですよね」
「ああ」
ちょっとだけ廻りを見て、誰も聞いていないことを確かめる。ついでに、来客用の灰皿の在り処も。
「まあ、あいつは入学した時から綺麗で目立っていたからね。君達もそうだったろうけど」
「別に……僕たちは……」
ふふふと藤代は笑って続ける。取り出した煙草に火をつける。
「まあ、君や弟くんとは違うか。あいつは中学の時から男知ってたから。色々な奴と誘われるままに楽しんでいたよ。俺は、その中の一人」
藤代の言葉に、泉はショックを受けた。
「そ、それで、よかったんですか?付き合っている相手が……それで……先輩は……」
泉の言葉の語尾が震えて掠れるのを、藤代は顔を近づけるようにして聞き返した。
「それでいいのかって、俺が?」
呆れたように笑って、煙を吐き出すと
「良いわけないんだけど……ね。仕方なかったな。春日はああいう奴だったし、本気で惚れる相手じゃなかったんだよ。それが辛いと思ったこともあったが……割り切った後は楽だった」
どこか切ないふうにも聞こえる声でそう言った。
「まあ、その春日が……おっと」
煙草の灰が落ちそうになって、藤代は灰皿のところまで大股で近寄ると、薄く張られた水の中に灰を落として振り向いた。
「あれ?泉くん?」
その春日が、今じゃずい分と変わったらしい―――という言葉を聞く前に泉はそこを駆け出していた。

(やっぱり―――やっぱりダメ―――)
春日を好きになってしまったら、絶対に強は傷ついてしまう。
泉は、走りながらポロポロと涙を零した。




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