「ヤチ、ちょっといいか?」
夕食が終わって、沢木が春日の部屋にやって来た。
同室の三田村は、相変わらず部屋にいない。
「どうした?」
「明日の会議の件で、色々決めちまいたいから、俺の部屋来てくれ」
「わかった」
並んで歩きながら、ふと呟く。
「敦の部屋に行くのは久し振りだな」
「そうだな」
沢木が泉と付き合い始めてから、それまで週に二、三度行っていた沢木の部屋にも足が遠のいている。春日は含み笑いで言った。
「下手に近づくと、見ちゃまずいもの見そうだからな」
「何、言ってる」
「今日は、泉は?」
「今日は、休み」
「はい?」
「毎日だと、あいつの身体が持たないから、週の初めは自粛してるんだ」
「なんだ、それ」
春日はうつむいてクスクス笑った。
あの、人の都合考えず『抱かせろ』と迫ってきた沢木を思うと、この『自粛』という言葉がひどく不似合いで可笑しかった。

沢木の部屋で、ひと通り会議用の資料を片付けて、春日は伸びをした。
消灯の時間は過ぎているが、三年にもなってそれを生真面目に守る学生はいない。
ましてやここは寮長の部屋だ。
「コーヒーでも入れるか?」
かって知ったる沢木の部屋。春日が立ち上がって、コーヒーメーカーに水を入れる。
キッチンはないが、電気で使える簡単な調理用具は室内に置いて良いことになっている。だだし、焼肉は原則禁止。匂いの被害でクレームが多発したからだ。
コーヒーの粉を捜して、春日はそれが可愛らしい缶に入っているのに気がついた。
ディズニーの『くまのプーさん』の缶。開けてみると、中の計量スプーンも黄色のプーさんだった。
泉の趣味かと思うと、口許がほころんだ。
よく見ると、ちょっとしたところどころに、沢木の趣味とは思えないラブリーな小物が置いてある。
(新婚さんのお宅訪問みたいだな)
その奥さんのいない間に、かってにコーヒーを入れるのが後ろめたいようで、また可笑しくなった。
コーヒーの香が部屋に広がる。いかにも泉の、という可愛いマグカップは遠慮して、前から見覚えのあるカップに注いだ。
「はいよ」
「おう」
俺様沢木は、絶対に自分でコーヒーを入れたりしない。以前はいつも春日が入れた。
今では、泉がその役か。
(いや……)
ひょっとしたら、泉が相手なら沢木が自ら入れているかもしれない。
あまり考えられないが、ひょっとしたら……。
「敦」
「うん?」
「お前には、抱かれてばっかりだったけど、一度くらい抱かせてもらえば良かったな」
ぶっ、とコーヒーを吹きそうになったが、そこは沢木、グッと堪えて飲み込んだ。
けれども、少々、気管支に入って咳き込んだ。
「いきなり、何を、言い出すんだ」
春日は、秀麗な美貌のまま微笑んで、カップに唇をつけた。
「だって、せっかくだから、何事も……」
「何事も、なんだよ」
沢木は端整な顔を思い切り顰めた。
「まあ……経験?」
「疑問形で聞くなっ」
わざとらしく低音で凄んで見せ、沢木は真面目な顔になって言った。
「悪いが、俺はもう泉を泣かすようなことはできない。あいつを幸せにするっていうのが、俺の本懐だからな」
「本懐ときたか」
春日は目を細めて、手にしていたカップをテーブルに置くと、しみじみと沢木の顔を見た。
「俺のはただの冗談だから、泉には言わないでくれよ」
「言えるか、馬鹿」
沢木が口の端を上げて笑うのを見ながら、春日は泉の言葉を思い出した。

『自分が今、とっても幸せだから、ツヨくんにも幸せになってもらいたいんです』

「なあ、沢木」
「ああ?」
「好きになったら、相手を幸せにしたいって思うものなのかな」
「…………」
沢木は一瞬、質問の意味が分からないように黙ったが
「あたりまえだろ?」
何の躊躇も無く応えた。何を言ってるんだと言わんばかりに。
「そういうものか」
春日の声が力無く聴こえて、沢木は尋ねた。
「お前は、違うのか?」
「うーん」
春日は自分の首の後ろを軽く掻きながら、考えた様子でうつむいた。
「違う、かも」

『春日先輩は、ツヨくんを幸せにしてくれるでしょう?』

泉に尋ねられたとき、どうして自分は動揺したのか。
自信を持ってもちろんと、応えられない自分がいた。



* * *
「強、バテてるなぁ」
五時間目の終わった休憩時間。一年松組の教室の窓から、リイチが身を乗り出している。音楽室に移動する途中に覗き込んだもの。
強は、ぐったりと机に伏せている。
「どうしたんだよ」
リイチは、その傍らの泉を見た。
「昼休みも、練習だったの。猛特訓」
「ああ、あの生徒会の劇」
「うん、かなり本格的なんだよ。ツヨくんすごいの。バク転もバンバン決めるし」
あれから何度か田代雄介はやって来て、強にアクション指導をつけている。初めは嫌がっていた舞台上のバク転も、さすがの運動神経で、慣れてくると二回連続でも出来た。
「楽しみだなあ」
リイチの言葉に
「その前に、俺、死ぬかも」
うつ伏せていた強がくぐもった声をだす。
「タイトル通りだったら、一回じゃすまないみたい」
泉が可愛くニコッと笑う。
『和装007〜お庭番は二度死ぬ』
(そういう意味だったのか……)
強はベタなシャレに力無く笑った。


放課後、泉は沢木に呼ばれている生徒会室に向かった。
戸口からそっと顔を覗かすと、先に来ていた沢木が窓辺で振り返って笑った。
差し出される両腕に飛び込む。
広い胸に小さな顔を擦り付けて、泉は頬を染めた。
少し汗ばんだ沢木の匂いにクラクラする。
「あっくん……」
「泉」
いつものように、唇が重なる。
「ん……」
口づけながら、沢木の両手が泉の華奢な身体を弄る。
「あっ」
恥じらいながらもよりきつく身を寄せてくる泉の、耳元で沢木が囁く。
「我慢できない……いい?」
「あっくん……」
泉は目元を悩ましげに赤く染め、ちらりと奥の倉庫を見た。

生徒会室の中にある倉庫は、その昔、沢木と春日のラブホテル代わりに使用されていたところだが、今では沢木と泉が専ら使用している。そのことを知っているのは、まさに当の三人だけだけれど。
行為が終わって、泉は沢木の胸にぐったりと身を預け、幸せな余韻に浸っていた。
沢木の手が、泉の柔らかな髪を優しく撫でる。
泉は、ふと思いついたように沢木を見た。
「ねえ、あっくん」
「ん?」
「春日先輩は、ツヨくんのこと、好きなんだよね」
「え?」
いきなり何を言い出すのかという顔で、泉を見返した
その泉の真剣な目に、誠実に応えようとして沢木は首をひねった。
「好き、っていうのは……どうだろう」
沢木が春日と関係していたとき、二人の間に恋愛感情は無かった。身体の関係はあっても好きだとか嫌いだとかの感情の入る隙間が無い。沢木は、春日をそう思っていた。

そして、先日の会話を思い出す。

『好きになったら、相手を幸せにしたいって思うものなのかな』
『あたりまえだろ?―――お前は、違うのか?』
『違う、かも』

「ヤチは、あんまり、誰かを好きになるとかいうタイプじゃないからな」
沢木は、まだそう思っている。春日の中で何かが変わってきていても、沢木自身、自分の変化の方が強烈で、とても人様の変化になど気がつかない。元々、他人の事にはあまり興味の無い自己中体質だ。泉以外の人間の機微には気づきようが無い。

「そう、なの?」
泉が、睫毛を伏せた。
沢木は気づかず、言葉を続けた。
「俺以外にも、いろいろ付き合いはあったみたいだけど、まあ、全部身体だけだって言ってたしな」
「え?」
泉が、ピクリと顔を上げる。
「あ、あっくん以外の人とも……?」
「ああ」
「だ、誰?……他にって……」
語尾が小さくかすれる。
「うーん、色々いたんだが。俺の前は……ほら、この前来ていた藤代先輩」
(えっ?)
泉は、びっくりした。
仲良さそうには見えたけど、まさかそういう関係があったなんて……。
「言っちゃなんだが、あいつは……って、何泣いてんだよ、泉」
沢木の胸に額をつけて、泉はポロポロと泣いていた。
「うっ……ふっ……う」
(春日先輩が、そんな人だったなんて)
泉にしてみれば、自分が沢木と幸せになった今、強を幸せにしてくれるのは、春日しかいないと、かってに思い込んでいた。
実際、アメリカから戻ってきて以来、春日はなんだかんだと強を可愛がってくれていて、良く見かけるツーショットもお似合いだった。
二人が付き合ってくれればいいと思っていた。
それが、その春日が、沢山の――と泉は受け止めた――人と身体だけの付き合いをするような人だったなんて。
よく言えば純真無垢、悪く言うと世間知らずの泉には、そんな男は、強にふさわしくないと思えた。
「泉、どうしたんだ」
自分の胸に涙を落とす泉に、沢木は慌てる。
「お、お前、まさか……ヤチのこと、好きだったり?」
「……バカ」
どう考えたら、そういう結論になるのか?沢木の言葉に呆れながらも、泉は強のことを思って泣き続けた。




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