311号室のドアが閉められた後、沢木は部屋に戻る気になれず、そのまま外に出て裏庭のベンチに腰を下ろした。 『何も言わねえよ。泣きもしない』 強の怒りに震える声がよみがえる。 あの泉が、涙も流せないほど傷ついたのだという事実が、沢木を打ちのめした。 今日の放課後の別れ際、瞳を潤ませて自分を見上げた泉。 その表情が、あまりに艶めかしくて、はっきり言って欲情した。 だから、春日を抱いたのだ。 沢木と春日にとっては、いつものことだった。 互いの欲求を満たすために、スポーツか何かのようにセックスをする。互いの間に恋愛関係は無いと確認もしていた。 けれど、泉にそんなことが分かるはずが無い。 あの泉に――――――――――。 ベンチに座って頭を抱えた沢木に、上から声がかかる。 「会えなかったのか」 顔を上げると、ポケットに両手を突っ込んで立った春日が、無表情に見下ろしている。 「カギ掛け忘れたのは、まずかったな」 言いさしながら春日は、ふっとその表情を和らげて 「殴られたのか?」 沢木の隣に腰をおろした。 「強だな。泉には、ここまでのパンチは打てない」 おかしそうに言う春日に、沢木はムッとした表情を隠さなかった。 「怒ったのか」 「…………」 「謝らないぞ。お前には」 黙っている沢木の隣で、星の無い空を見上げながら春日が言う。 「お互い様だからな。それに、泉のことを本気で好きだといいながら、俺を抱きたがったのはお前だ」 「ヤチ……」 「いいじゃないか。ちゃんと会って話をして、わかってもらえよ。本当に愛しているのは泉だけだって。俺には、何の恋愛感情も無い。俺とのことは、ただの性欲処理だって」 淡々と言う春日の横顔に、沢木はふと呟いた。 「ヤチ、まさか俺は、お前のことも傷つけたりしてるか?」 「まさか」 春日は、その綺麗な顔でキッと振り向くと、どこか挑むような目で沢木を見つめて言った。 「俺は、お前なんかには、傷つけられたりしない」 「そうか」 沢木は、うつむいて軽く口許を緩める。 「そうだ。お前が傷つけたのは、あの双子だ」 「ああ」 「それに関しては、俺も同罪だけどな」 「ヤチ?」 「お前に謝る気などさらさら無いが、泉には悪いと思っている」 春日の言葉に、沢木は顔を上げてじっと見返した。春日は、切ないくらいに美しい笑みを見せて言った。 「泉のことを知っていて、お前の身体に未練持ってたのは、俺だからな」 * * * 翌日。 強はハッとして目覚めると、すぐに身を起こして隣の泉を見た。 「泉」 呼びかけても返事をしない泉は、目を開けてじっと天井を見つめている。 (寝てないのか?) たった一晩で、酷くやつれたように見える泉の様子に慌てて、強は泉を揺り動かす。 「泉。泉っ」 「……ツヨくん」 ゆっくりと焦点を合わせて、泉が強を見返す。 「大丈夫か?お前、寝てないのか?」 「うん」 「ダメじゃないか。寝ろっていったろ」 「ごめんね」 ごめんねと言う泉の瞳に、全く涙が現れないのが、強にはひどく落ち着かなかった。 「今日、学校行けるか?」 強の問いに、泉は困ったように目をそらした。 「行きたくないなら、いいさ。そのかわり、今度こそ寝てろよ」 強はそう言って、泉の頭をぽんぽんと軽く叩いた。 「ごめんね。ツヨくん」 「別に、謝るなよ。先生には風邪だって言っておくから」 強は、一人で学校に行く準備をした。 歯を磨いて、着替えて、寮の食堂から朝食のパンを取ってきて、泉のためにミルクを温めた。 「ほら、寝る前に飲めよ」 マグカップに入れたホットミルクをベッドまで持っていく。 「……飲みたくない……ごめんなさい」 小さく首を振る泉を無理やり起こして、両手にカップを握らせる。 「ダーメ。パン食べないんだったら、これは飲むこと」 重そうにカップを持つ泉を見て、強はふいに嫌な予感がした。 (泉を、この部屋に一人にしておいて大丈夫か?) 泉が、ゆっくりとマグカップに唇を近づけて、一口だけミルクを口に含んだ。 こくんと、白い喉が動いたとき、強は思わず声を出した。 「泉っ」 泉の瞳が強を見る。 「やっぱ、俺も休む」 えっ?という風に泉が見返す。 「俺も、休んで、ここに居る」 「……でも」 「いいんだよ。俺、リイチに電話してくる。二人で風邪引いたって言ってもらう」 「ツヨくん」 * * * 「泉君なら、風邪で休んでいます。強君も」 一年松組の教室で、窓際の席の男子が沢木に答える。顔にはられた絆創膏を不思議そうに見ながら。 「風邪……」 「はい」 「そうか、わかった。有難う」 端正な顔を曇らせながら、沢木はその場を立ち去った。 昼休み。どうしても泉と話がしたくて、四時限目の授業が終わるなりやって来たのだが、双子はそろって休んでいるという。 (泉に付き合って休んだのか) 沢木は、校舎を抜けると、真っ直ぐ寮に向かった。 強は、ようやく眠った泉の顔を眺めていた。 眠りたくないと言って、泉はなかなか目を瞑ろうとしなかったが、やはり昨日から一睡もしていなかったため、昼前にうとうとし始めて今は安らかな寝息を立てている。 「泉、何があったんだよ」 泉の寝顔に呟く。 そのとき、ドアを叩く音がした。 (まさか?) 静かにドアを開けると、そのまさかの沢木が立っていた。 「何しに来た」 「泉に会いに」 「もう片方も殴られるか?キリストみたいだな」 「頼む。話をさせてくれ」 真剣な顔で真っ直ぐ見つめてくる沢木の瞳に、強は少しだけ気圧されたが、直ぐに沢木の腕を取って外に連れ出した。 泉の居ないところで話をしたい。 沢木は大人しくついて行く。 裏庭に出て、強は沢木に向き直った。 「泉に、何をしたんだよ」 昨日からずっと気になっていたことだ。泉が話さないなら、沢木からでも聞き出したい。 「泉を傷つけた」 沢木が苦しそうな顔で言う。 「そんな事は、見ればわかんだよっ。何をして、泉をあんなにしちまったんだっ」 次第にカッとして言葉が荒くなる強。沢木はぼつりと言った。 「ヤチと寝た」 その言葉の意味が、強には分からなかった。 (ヤチトネタ?ネタ?すし??) 「俺の部屋で、ヤチと寝ているところを、泉が見た」 ここに来て初めて、言葉の意味が分かって、強は身体が震えた。 「寝たって……春日とか?」 沢木は、男らしい整った顔を苦しそうに歪めて、目を伏せた。 「悪かった、と思っている」 「ふっ、ふざっけんなっ」 強の顔が真っ赤になる。 「てめえ、泉と付き合っていながら、他の男と、そんな、そんなこと……」 昨夜の泉の震えていた様子がよみがえって、強は怒りに目が眩みそうになった。 沢木のそんな裏切りを見たら、あの泉がどれほど傷ついたか。 あんなに沢木のことを好きだった泉……。 沢木から告白されたと、幸せにしてくれるって言われたと、あんなに嬉しそうに言っていたのに――――――。 「てめえぇっ」 強が怒りに握った拳を震わせて怒鳴った。 「いいかげんにしろよ。なんなんだよ。泉のこと、何だと思ってんだよっ。俺がどんな気持ちでお前に泉を託したと思ってんだよ」 言いながら、涙が出てきた。 「俺は、お前が泉を幸せにするって言ったから、泉がそう言って、すごい嬉しそうに笑ったから」 泉の顔を思い出して、強はボロボロ泣けてきた。 「だから、だから、俺は、諦めて、俺は……」 声を掠れさせて、しゃくりあげる。今、泣けない泉の分まで、涙が流れ続ける。 沢木は黙ったまま強の顔を見ていた。 強の泣き顔が、泉のそれに重なる。 今、目の前で泣き叫ぶこの子が泉だったらよかったのに。どんなになじられても、泉と話がしたい。 「悪かった。俺が、間違っていた」 沢木は、地面に膝をついた。両手を膝に乗せて頭を下げる。 「許してもらえるかどうか、わからないが、泉に会わせてくれ」 「ざけんなっ」 強は、拳で涙を拭うと 「お前なんか、泉と付き合う資格はねえっ。二度と、絶対、泉には会わせねえ」 叫んで、部屋に帰って行った。 沢木は一人残され、立ち上がって膝の土を払うと、そのまま部屋に帰った。 学校に戻る気になどなれない。 強の叫び声が、頭の中に響く。 『お前が泉を幸せにするって言ったから、泉がそう言って、すごい嬉しそうに笑ったから―――――――』 放課後の生徒会室。窓辺で振り返る泉の顔。小首をかしげて微笑んだ、その輪郭を夕陽が染めた。 『先輩、僕を幸せにしてくれますか?』 『冗談ですよ』 『……嬉しい、です』 『先輩……敦先輩……』 泉の声が、その顔が、苦しいほど愛しいその姿が、よみがえる。 こんなに愛しい存在を、どうして自分自身で傷つけるまねをしてしまったのか。 沢木は、生まれて初めて、後悔というものを知った。 強は部屋に戻って泉の眠っているベッドに歩み寄った。 長い睫毛を閉じて眠る泉の顔を見ているうちに、また涙が込み上げてきた。 泉が昨日の夜からどんな気持ちでいたかと思うと、そして、一睡もできなかった気持ちを思うと、可哀想で、切なくて、悲しくて、辛くて、そして愛しくて涙が止まらなかった。 耐えきれず、眠る泉に被さるように抱きついた。 泉が、ゆっくり目を開いた。 肩口に強の額が押し付けられている。強の肩が震えている。 「ツヨくん?」 ぼうっとした声で呼びける。 「泉」 強が、泉を抱きしめたまま、歯をくいしばるように言う。 「俺が、守ってやる。もう、誰にも傷つけられないように、俺がお前を守るから……」 「……ツヨくん」 泉は、自分を抱く強の背中に、そっと左手をのせて応えた。 「僕も……ツヨくんが居てくれればいい。ツヨくんが、いい」 そう口にした瞬間、沢木の顔が浮かんで心臓が張り裂けるように痛んだが、それでも涙は出てこなかった。 泉は、自分の代わりに強が泣いてくれているのだと思った。 強がゆっくり顔を上げて、上から覗き込むように泉を見つめる。 その涙に潤んだ瞳の中に、自分への切ないほどの情愛を汲み取って、泉はそっと目を閉じた。 強の唇が降りてくる。 この日、初めて二人は恋人同士の口づけを交わした。 * * * 「羽根邑泉が泣かなくなった」 その噂は、百万石学園中にあっという間に広がった。 そして、泣かなくなった泉は、泣いていた頃よりも痛々しかった。 強は、姫を守るナイトのように、つねに泉の傍にいた。 泉が沢木と会わずに済むように、二人で登校時間も遅らせた。受験準備の始まった三年生のほうが、始業時間が早いので、気をつけていれば顔をあわせずに済んだ。 沢木が泉に会いたがっているのは知っていたが、強は絶対に会わせまいと心に決めていた。 泉とは、あの日、口づけしただけだったが、自分の気持ちは固まった。 (もう、泉を諦めるなんてことは考えない。誰にも泉は渡さない―――) その日、二人がエントランスに出ると、沢木の姿があった。 泉がびくっと身体を震わせて、強のブレザーを握った。 強は、一歩前に出て、泉を背中に庇った。 「なんだよ。三年は、もう授業始まってるだろ」 強の言葉を無視して、沢木は泉に向かって言った。 「泉、話がある」 泉は、顔を伏せると強のブレザーを掴む手に力をこめた。 「泉」 沢木が一歩踏み出して、強の後ろに隠れる泉の肩に、手をかけようとする。 強が向き直って、拳を握るのと、泉が叫んでその沢木の手を振り払うのが同時だった。 「いやっ」 沢木の手を打った自分の左手をもう一方の手で握り締めると、泉は怯えた瞳で沢木を見詰めた。 何故、こんなことをしたのかわからない。 ただ、沢木の手が自分に触れようとしたとき、あの闇の中で春日の脚を抱えていた腕が浮かんだ。 すぐに、強が沢木を突き飛ばした。 「これ以上、泉にかまうな」 強は、泉の腰に腕を廻して自分に引き寄せながら言った。 「これ以上、泉を傷つけるようなまねしたら―――殺す」 泉は、左手を押さえたまま睫毛を伏せた。 強に抱かれるように、その場を去っていく泉の後ろ姿を見て、沢木はその場に佇んだ。 自分の手を振り払って見返してきた顔。あの瞳の中にあったのは、怯えと、そして嫌悪か。 『先輩、僕を幸せにしてくれますか』 あのときと、全く変わってしまった泉の瞳に、沢木は傷ついた。 人に嫌われるということが、これほどショックだということも生まれて初めて知った。 胸の奥が重く苦しくなって、目の裏が熱くなるような感覚に、自分が泣きそうになっていると知って沢木は笑った。 物心ついて以来、人前で泣いたことなど無い。 他人の気持ちを考えたことすら無かった。それなのに、たった一人の心が離れていったことがこんなに辛いなんて。 おかしくて、沢木は笑った。 |
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