夢の中で、泉が笑う。 沢木には、これが夢だとわかっている。 何故なら、本当の泉はもう決して自分にこんな笑顔を見せることは無いから。 『先輩……敦先輩』 頬を薔薇色に染めて、小首をかしげて幸せそうに笑う。 さらさらと額にかかる前髪が、日の光を反射して輝く。天使の羽根を隠しているのではないかと思えるその華奢な背中をそっと抱きしめると、恥ずかしそうに震えて、腕の中からすり抜けた。 すり抜けて、振り返った泉の顔が不意に歪む。 瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。 ぽろぽろと零れた涙の粒は真珠になって床に転がる。真珠をいくつも床に落としながら、泉が真っ直ぐ自分を見詰める。 『嘘つき』 『幸せにしてくれるって言ったのに――――嘘つき』 「泉っ」 目覚めて、沢木は自分がひどく汗をかいていることに気づいた。 もう何日も、泉の夢を見ている。学校や、寮で、たまにその姿を見た日は必ずといって良いほど泉の夢を見た。 いやらしい夢も見たけれど、今日の夢は最悪だ。 泉の心の内を突きつけられた気がした。 『嘘つき』 泉の声が頭の中に響く。泉は、自分のことをそう思っているのだろう。 『絶対、幸せにするから』 そう誓ったのに――――――― (俺は、約束を守れなかった) * * * 「おい、敦」 春日の呼びかけにも、沢木は気づかない。 「敦―――おい、沢木副会長っ」 普段温厚な生徒会長の剣のある声に、その場にいた生徒たちは、ビクッとした。 「え?なんだ」 沢木が春日を振り返る。 「何だじゃないだろう」 月に一度の生徒会役員と学級委員長たちによる委員長会議。一学期は今回で最後なので、決め事や連絡事項も多かった。 「寮の夏期休暇中のことについての質問だよ。寮長兼務の君が、答えるべきじゃないか?沢木副会長」 春日の言葉に、沢木はどうでも良さそうにプリントに目を落とすと、いつもの調子で答える。有無を言わさぬ、その様子に、会議はあっという間に進行していく。 沢木の横顔を見ながら、春日は内心溜め息をついた。 あれから、沢木は泉と話をしていないらしい。 謝って本当のことを話せば、あの二人ならすぐに仲直りするのだろうと高をくくっていたものだが、事態は自分の思った以上に深刻なようだ。 (この敦が、ボンヤリするなんて) そして、そうさせてしまったことの一端に自分も大いに関わっているという事実が、気を重くさせる。 あれ以来、泉の涙が止まってしまったという話も気になった。 (女の生理じゃあるまいし。ショックで止まったなんていうなよ) 沢木は、何があったのか、もう自分から泉のところに行く様子はない。 (この、押しの強さにかけては並ぶもの無しの男が……) 「……長」 「春日会長っ」 書記長の児島の声に我に返る。 「あ、ああ、なんだ?」 「……会長」 この日各クラスの委員長達は、百万石学園高等部生徒会の最強コンビがそろってボンヤリするという貴重な場面に遭遇した。 寮の夕飯時。 強がトレイに二人分のおかずをのせている。本来食堂で食べるものだが、病気の時などは部屋食も許されている。強は、泉と沢木を会わせないように、このところずっと部屋食にしていた。 食堂を出ようとしたところで、不意に肩をつかまれた。 はっと振り向くと、春日が微笑んでいる。とっさに、視線を走らせて近くに沢木の姿を探す。 「いないよ。俺一人だ」 春日の言葉に、強は不愉快そうに眉を顰めると肩を揺すって、その手を払った。 春日は、強の持っていたトレイを奪って、近くのカウンターに置くと、声を潜めて言った。 「ちょっと、話がある。付き合ってくれ」 強は、ムッとして 「俺には、ねえよ」 そう言って再びトレイを持ち上げようとしたが、その腕をとられて、春日に引き摺られて行った。 「ちょ、ちょっと待て。何すんだっ」 焦る強を掴んで、春日は強引にずんずんと奥に連れて行く。春日の細腕に似合わない強い力に、強は慌てた。 春日の部屋に連れ込まれて、呆然とする強。 「なんだよ。話って、部屋まで来ないとできないことなのか」 「今日は、同室の三田村が帰ってこないんでね。ゆっくり話ができると思って」 「はあ?」 強は不審げに目を瞠ると、次に思いっきり眉間にしわを寄せた。 「お前と、何をゆっくり話すって言うんだよ」 春日は微笑んだ。 「俺と、敦のことについて」 途端に強が踵を返そうとする。 その腕をはっしと掴むと、春日は強の身体を引き寄せ、そのまま床に押し倒した。二歳の年齢差のまま、春日のほうが頭一つ大きい。いつも沢木と一緒なので華奢に見えていたが、こうやって覆い被さってくると、春日は体格でも強よりはるかに勝っていることがわかる。 「な、ん……」 一瞬、強の瞳に怯えたような影がさした。 春日はくっと笑うと、囁くように言った。 「そんな顔しないで。襲うわけじゃないから。でも、この体勢の方が、大人しく聞いてくれそうだね」 「なっ、やめろ」 強が全身に力を入れると、春日も身体でそれを押さえ込む。 「聞けよ。強」 上から覗き込むように自分を見詰める春日の瞳に、強は金縛りにあったようになった。 「俺と敦は、ただのセックスフレンドだよ。恋愛関係なんか何も無い。ただ、性欲をお互いの身体で処理していただけだ」 春日のひどく綺麗な顔でそんな下卑た言葉を聞かされて、強はカッと顔に血がのぼった。 「強だって、男ならわかるだろ?自分でやったこと、ない?」 春日の言葉が耳をくすぐり、強は全身の血が熱くなった。 強だって性欲はある。正直、泉のことをオカズにして自分を慰めたことだって……。 「自分の手でやるより気持ち良いから、お互いにやってただけなんだよ」 春日の言葉に、血管がドクドクと波打って、耳の後ろが痛いほどガンガンと鳴る。 「だから、敦は泉を裏切ったわけじゃない。わかるだろ?」 泉という言葉に、強はぴくっと反応した。 「離せよ」 「嫌だ。強がわかったって言うまでは、ね」 「わかんねえよっ。何で、好きでもねえ相手と寝れんだよ。泉を裏切ったわけじゃないって?都合のいいこと言うなっ」 ムキになって言い募る強に、春日はくすりと笑うと、押さえ込んでいた両手を強の頭の上で一つにまとめた。 空いた右手で、強の雄をスウェットの上からやんわりと握る。 「な、に」 強が驚愕に目を見開く。 「好きでなくても、寝れるって、教えてやるよ」 「やめろっ」 懸命に身体を捩ったが、春日の胸に押さえ込まれて、身動き取れない。その間も、春日の右手は強自身に刺激を与えつづける。強のそれが、少しずつ硬くたち上がってくる。 「やっ、め」 歯を食いしばる強をチラッと見て、春日は目を細めると、右手をスウェットの下に滑り込ませた。 「ひっ」 下着の中に手を入れられ、直接握られた刺激に、強は小さく悲鳴をあげた。 今まで他人にふれられたことの無いそれは、すぐに反応して、先からは震える雫を流す。 「濡れてきた」 春日の囁きに、強は羞恥に顔を背ける。春日は喉を鳴らして笑うと、その雫を指先に取って、ゆっくりと括れを愛撫した。 「あっ、ああっ」 強が耐え切れず、声をあげる。 春日は、左手が自由にならないため、口を使って強のTシャツを捲り上げた。 「やめろ」 強の声は、掠れている。 ようやく、上まで捲って胸の小さな飾りに行き当たると、春日はそれを口に含んだ。 「やっ」 執拗に舌で擦りあげて、小さく立ち上がったところを軽く甘噛みすると 「やっ、ああ、あっ……」 あっけなく強は精を放ってしまった。経験の無い身体には、十分強烈な刺激だった。 春日の手の中で果ててしまった強は、しばらくショックで起き上がれなかった。 春日は立ち上がって洗面所に行くと、手を洗って、タオルを濡らして持ってきた。 「自分で拭く?それとも拭いてもらいたい?」 強は、がばっと起き上がり、Tシャツの裾をスウェットパンツに押し込んだ。下着が濡れていて気持ちが悪いけど、そんなこともうどうでもいい。 キッと春日を睨んで立ち上がって、部屋を出て行こうとする。 「待て」 春日が、慌てて前に回って道を塞いだ。 「どけよっ」 強が上目づかいで凄む。 「わるかった。こういうこと、するつもりは無かったんだけど」 悪かったといいながら、全く悪びれた様子無く、春日は言う。 「あんまり言うこと聞かないから、ちょっとだけ意地悪したくなったんだよ」 「なんだとぉ」 強の顔が羞恥と怒りで赤くなる。 「だって、好きでもないやつとこんなこと出来ないって、強、言っただろ。でも、出来た」 春日はおかしそうに強を覗き込んで 「強は、俺が嫌いだけど、俺にイかされたもんね」 強の右手が、春日を殴りつける。春日はそれを軽やかに避けた。 「だから、敦と俺の関係も、今みたいなもんで」 言いながら、強の拳の第二弾を避ける。 「深刻に考える必要無いってことを、知って欲しかったんだが、なんだか」 強の右手第三弾をガシッとつかんで 「逆効果だったかな」 春日は、秀麗な顔で微笑んだ。 「でもね。強」 強の右手を捕らえたまま、急に春日が真面目な顔になって言った。 「お前の気持ちはともかく、泉の気持ちはどうなんだ?」 「泉の?」 「ああ、泉はまだ涙が止まったままなんだろ?それだけ傷ついたまんまだってことは、泉はまだ敦のことが好きなんじゃないのか?」 春日の言葉に、強は殴られたような衝撃を受けた。 (泉が?まだ、沢木を好き?) (そんなわけねえよ) グラウンドを並んで歩きながら、泉の横顔を盗むように見て、強は考えた。 あの時、泉は言ったんだ。 『ツヨくんが、いい』 (そして、俺たちはキスした。泉はもう、沢木のことなんか想っちゃいない。俺のことが好きなんだ) でも、何で泉はこんなに寂しそうなんだ?強の胸がきりきりと痛んだ。 「どうしたの?ツヨくん」 泉が振り返る。体操服の襟元から覗く鎖骨が華奢で痛々しい。 「や、いや……お前、具合悪そうだから……体育休ませてもらったほうがよくないか?」 泉は、ほんの少し微笑んで言った。 「大丈夫だよ。ごめんね。ツヨくんに心配かけて」 その笑顔が、あまりに儚げなので、強はまた春日の言葉を思い出した。 『泉の気持ちはどうなんだ?』 『泉はまだ敦のことが好きなんじゃないのか?』 (そんなはず、ねえよ) 強は、地面を睨むようにして、ぎゅっと唇を噛んだ。 沢木は、授業を適当に聞き流しながら、教室の窓から校庭を眺めていた。 そして、突然目に飛び込んできた姿に心を奪われる。 (泉……) 一年松組の体育の授業。強と並んで歩く泉の姿。白い体操服からすんなりと伸びた華奢な手足。双子なのに、強より一回りも小さく見える細い体躯。 (また、痩せたか?) うつむいている横顔も、ひどく儚げだ。 授業は、バレーボールだった。コートの中を、ネットを挟んで白いボールが左右に跳ねる。 泉は、運動が得意ではない。 飛んできたボールをようやくレシーブすると、それは明後日の方向に飛んでいって、周りの生徒が必死になってフォローする。 ごめんなさいというように、申し訳無さそうに頭を下げる泉に、周りが慌てて手を振っている。ドサクサにまぎれて、泉の肩を叩いたチームメイトを、強が蹴り上げている。 沢木は、頬が緩んだ。 心配することは、無いのかもしれない。さっき、泉がひどく寂しそうで、儚げに見えたのも、自分の想いがそう見せたもので、実際の泉は、こんなにも皆から愛されている―――――。 (泉……) そうして、沢木の見ている目の前で、相手の打った強いボールを泉が真正面から受けた。 「あっ」 沢木は、小さく叫んだ。 ぶつかって大きく跳ねたボールが転がり、泉の細い身体が、ふわりと後ろに倒れた。 「どうした?沢木君、何か?」 黒板に長文を書いていた英語の教師が、あわてて振り向き、沢木の顔と黒板を見比べる。 自分が何か間違ったのでは、と思ったもの。 「いえ、なんでもありません」 そう答えながら、沢木の気持ちはグラウンドに向いていた。 生徒たちがわらわらと駆け寄って、泉を取り囲む。その中から、泉を抱き上げた強が出てくる。何か言いながら、校舎の方に歩いているのは、保健室に連れて行くのだろう。 体育教師が、途中まで付き添ったが、何か会話してすぐに授業に戻った。 沢木は、落ち着かなかった。 両手を握り締めて、自分を押さえようとしたが、我慢できずに立ち上がる。 ガタッと大きな音を立てて立ち上がった沢木に、教師は、びびった。 「ど、どうしましたか?」 「腹が痛いので、保健室に行きます」 「そう……お大事に……ね」 * * * 保健室の前まで来て、沢木は立ち止まった。 強の声がする。 「先生、いないけど。五限終わったら迎えに来るから、それまで寝てろよ」 「うん」 強が保健室から出て来る気配に、沢木は慌てて廊下の角に身を隠した。 体操服の強が、廊下を走って行く。 沢木は、ゆっくりと保健室の扉を開けた。 カーテンの向こうから聞こえた音に、泉は強が戻ってきたのだと思った。 「ツヨくん?」 ベッドに横たわったまま声をかけると、カーテンが開いて長身の人影が現れた。 (あっ) 沢木の姿を認めて、泉は驚愕に、瞳を見開いた。 沢木は黙ったままベッドに横たわる泉を見詰めた。 目の前に泉の顔がある。会いたくてたまらなかった泉。 ふと、いつか見た、夢の記憶が甦る。 『嘘つき――』 目の前にいる泉は、涙を流す代わりに、驚いて目を瞠っている。 愛しい泉。その小さな白い顔に大きな瞳、整った鼻梁、桜色の唇。初めて会った時にたちまち心奪われたその容姿。そして、知るほどに愛しさの募ったその純粋で、素直で、可愛らしい性格。何もかもが、愛さずにいられない。 このまま、覆い被さって抱きしめたい衝動に駆られたが、沢木は一歩も動けなかった。 泉の表情が、次第に怯えたように曇っていったので。 (泉……) 自分を見詰める瞳が怯えている。唇が小刻みに震えている。泉が、自分を恐れている? 『これ以上、泉にかまうな』 『これ以上、泉を傷つけるようなまねしたら―――殺す』 ―――俺は、今でも、今この瞬間も、泉を傷つけている――――― ―――何もしない。何もしないから、どうか震えないでくれ―――― 「ただ、謝りたかった」 沢木がそう言うと、泉はビクッと身体を震わせた。 沢木はその様子に、一瞬傷ついたような表情を浮かべたが、ぐっと拳を握って踵を返した。 後ろ手にカーテンを締めて出て行く。 会って話したいことがたくさんあった。話して、分かってもらいたいことが。 そして、もう一度やり直させて欲しいと。 泉を幸せにするという約束を、守らせて欲しいと。 けれども泉の表情(かお)がそれを拒絶していた。沢木は苦い思いで、教室に帰った。 『ただ、謝りたかった』 沢木の口からそう聞いたとき、泉の中で何かが壊れた。 カーテンを開いて、沢木がその姿を現したとき、泉は心臓が止まるかと思った。 そして自分が、今でもこの人を好きなのだと、ずっと会いたくてたまらなかったのだと気づかされた。 沢木が、黙って自分を見る。心臓の鼓動が早くなる。そして次第に不安が募った。 何を言われるのだろう。沢木は、自分に何を言いにここに来たのだろう。 (敦先輩……) 不安の中に、一抹の期待もあった。 けれど、 『ただ、謝りたかった』 そう言われたとき、その期待は粉々に砕け散った。 去っていく沢木の後ろ姿を見て、泉は思った。 (これで、もう、本当に終わった―――――) その瞬間、泉の瞳から涙が溢れ出した。ぽろぽろとぽろぽろと大粒の涙が、頬をつたう。 本当は沢木に、言ってもらいたかった。 あれは、嘘だと。誤解だと。自分が愛しているのは泉だけだと。 そして、抱きしめて欲しかった。口づけて欲しかった。 本当は、本当は――――――。 (でも、もう、終わってしまった) 『ただ、謝りたかった』 それだけだ。もう、沢木の心は、自分には無いのだ。 涙が、止まらない。 今までの分を全て流すように。あの日から今まで、どんなに待ち望んでも出なかった涙が、後から後から流れ出る。頬を濡らす暖かな懐かしい感触。涙と一緒に、沢木への恋心も溶かして流してくれるのなら、どんなにか――――。 (敦先輩―――――) 「泉っ、どうしたんだ?」 授業が終わって迎えに来た強は、泉が保健室のベッドで涙を流しつづけているのを見て、ひどく驚き慌てた。 泉は、枕に背中を預けたまま、ただぼろぼろと泣きつづけている。 見開いた目は、何も映していない。 「泉っ、どうしたんだよっ」 泉の肩を抱きしめて、強も泣きそうな声を出した。 「キス、して」 ぼうっとした泉が小さい声でつぶやいた。 「泉?」 強は泉の顔を覗き込むと、その流れる涙ごと頬を包んで、おもむろに口づけた。 「ん、んっ……ん……」 強の舌に、泉が泣きながら応える。 強は、泉の背中に腕を差し入れて、しっかりと身体を抱きしめた。 泉は強の肩に腕を廻して、震える指でシャツを掴む。 「ん……ふ……うっ」 激しい口づけの合間にも、泉は涙を流してしゃくりあげる。 (泉、泉) 強は心で叫びながら、泉の唇を貪った。 長い長い口づけの後、解放された唇で、泉は小さく呟いた。 「あつ……い……」 聞こえないほどの、小さな呟きだったが、強は身体中の血が凍る思いがした。 熱い?違う。 『あつしせんぱい』 泉は、そう言ったのだ。 分かりたくないけれど、分かってしまう。双子だから。 『敦先輩』 強は次第に震えてくる自分の唇を噛んで、涙が出そうになるのをこらえた。 (泉は、まだ、あいつのことを愛している) |
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