翌日から、強の笛の音が聞こえなくなった。
「なんだ、ツヨムシ。今日は、教育的指導はいいのか?」
いつものように学食に誘いに来た沢木が、ワザとらしく泉の肩に手を廻しながら、強の顔を覗き込む。
強は、ちらっと上目遣いに睨んだが、
「泉がかまわないんなら、いいよ」
そう言って、歩き出した。泉が驚いて、目を瞠る。
「ツヨくん、どこ行くの」
「リイチんとこ」
「お昼は?」
「リイチと食う。約束してんだ」
「えっ?」
沢木に肩を抱かれたまま、泉は呆然と立ちつくした。
強は、さっさと紅葉組の教室に向かう。
青褪める泉の横顔を見て、沢木が囁く。
「強の方に、行きたい?」
「え?」
のろのろと沢木の顔を見上げて、泉は何と答えていいか、分からないように首を振った。
「ごめん、なさい。あの、あんな、ツヨくん、初めて、だったから……」
下を向いて、口許を抑える。
「ちょっと、びっくり、して……」
涙が直接ぽろぽろと床に落ちた。
「泉」
(ブラコンは泉も同じか)
沢木は、その姿に溜息をついて、そっと泉の髪を撫でた。
「ほら、飯食いに行こうぜ」


一年紅葉組の教室。飯田利一は、自分の机に頭を乗せてぐったりとしている。
「よう、リイチ」
「ああ、強」
暗い顔で見上げる。
「何だよ。そのツラ」
「だってよ。やっぱ、ショックじゃん。前から噂もあったし、うすうす感じちゃいたけど……」
「男が、過ぎたこと、いつまでもクヨクヨすんな」
「過ぎたことって、俺はつい昨日聞いたんだぞ」
利一は机を拳でドンと叩いて、直後、ガックリ肩を落とした。
「そんな、泉が、沢木さんと本気で付き合うなんて……」
「前にも匂わせてやっただろっ」
強は、利一の前の席に座ると買ってきたパンの袋をバリッと破った。
(俺なんか、生まれたときから傍にいて、ずっとずっと好きだったんだ。お前のショックなんか俺の足元にも及ばんっ)
そう叫んでやりたかったが、ぐっと堪えてメロンパンを口に押し込む。
泉が一緒にいない食事は味気ないし、まずい。口の中も、もそもそぱさぱさする。何となく、メロンパンが嫌いになりそうだ。
「……お前、何か飲むモンもあったほうがいいぞ」
苦しげに食べている強に利一が缶コーヒーを差し出す。
「さんきゅ」
グビリと飲んで、口の中のものを飲み下す。
メロンパンと缶コーヒーは強にとって失恋の味となった。


一方、学食。
「泉、何にする?奢るぞ、なんでも」
明るく尋ねる沢木に、泉はうつむいたまま。
「泉」
再度呼びかけられて、あわてて顔をあげる。
「あ、はい。えっと、同じもの……」
「俺と?」
「え、ええ」
泉の応えに沢木はニッと笑うと
「A定食と、かけうどんと、チャーハンだけど、全部食える?」
「え?いいえっ」
泉はぶんぶんと首を振った。沢木は笑って
「冗談。じゃA定食でいいな」
食券を二枚買った。

窓際の席で二人向かい合って食事をする。強のいない光景に、周りの生徒も興味深げに視線を送るが、その席に近づく大胆さは持ち合わせていない。唯一、割り込めそうな春日も、今日は学食に姿を現さなかった。
「なあ、泉」
「はい」
沢木の問いかけに、泉は行儀良く箸を下ろして真っ直ぐ顔をあげる。
「や、食いながら、聞いてくれよ」
沢木はほんの少し戸惑い、大仰に唐揚げにかぶりつく。
「はい」
泉は素直に箸を取って、つけ合わせのキャベツを口に運んだ。沢木は口の中のものを飲み下すようにお茶を一口飲んで、真剣な顔で言った。
「今までずっと強と一緒で、それが急にそばからいなくなるのは心細いかもしれないが」
「…………」
泉は目を伏せ、黙って口の中のキャベツを咀嚼している。
「代わりに、俺がいるから」
泉が顔をあげる。
「お前は、一人じゃない。強がいなくても、俺がいるから」
「先輩」
「だから、そんな淋しそうにしないでくれ」
「せん、ぱ、い」
泉の声が震える。沢木はこれ以上なく魅力的な微笑みを見せて言った。
「その、先輩って言うのもやめてくれないか。敦って名前で呼んで欲しい。前から思ってたんだけどな」
「う……ふっ……」
泉が、ぽろぽろと涙を零す。
「……泣くな」
沢木の左手が、テーブル越しに伸ばされ、泉の薔薇色に染まった頬を優しく包む。沢木の親指がそっと涙を拭うと、泉はうっとりと目を閉じた。
そのゲロあまのラブシーンは、学食中の生徒が見ていたのだが、だれも冷やかすことはおろか、その場では話題にすることさえできなかった。
沢木と泉の周りだけ、スポットライトで照らされた舞台のように、別世界だった。


「敦、今日、学食で泉を押し倒したって?」
放課後、寮に帰る道すがら、春日が楽しそうに話し掛ける。眉間に軽くしわを寄せた沢木が振り向く。
「なんだ、それは」
「噂」
「適当なこと言いやがって」
「違うのか」
「押し倒しては、いない」
「ふうん」
「なんだよ、そのつまらなそうな顔は」
「そのまんま。つまらないんだよ」
「どういう意味だ?」
「だから、そのまんまだって。俺としては早いとこ、敦と泉がそういう関係になってくれないと、身の引き際ってのがね」
「なんだ、そりゃ」
「ふふふ」
思わせぶりに含み笑いする春日。
「悪いが、泉の両親に挨拶するまで、泉とはそういうことできねえんだよ」
沢木は真面目な顔で前を見て言う。春日も隣に並んで、微笑んで前を見つめたまま。
「じゃ、それまではオツトメするとしようか」
「なんだよ、それ」
「敦、そればっか」
春日は本当におかしそうに笑った。

* * *
泉は、ようやく強から卒業しつつあった。といって、自立したわけではなく、強のかわりに沢木がエスコートする機会が増えたというだけだが。
朝も、ずっと強と一緒に行っていたのが、今は沢木と同伴登校。
「ほら、早く食わねぇと、三年生は俺たちより早いんだぜ」
「う、うん。わかってる」
同じ敷地内の寮から校舎までという、ほんの僅かな道行のために、必死にパンを飲み込む泉を、強はやっぱり限りなく愛しいと思った。
準備のできた泉の背中をぽんと押して、エントランスで待つ沢木に渡す。
強は自分が、バージンロードで娘を引き渡す花嫁の父になった気がした。
「行ってきます」
幸せそうに、振りむいて笑う泉。チラリと振り返り、肩頬で笑って泉を連れて行く沢木。
強は、黙って手を振る。
そして、気づく。
(俺も、登校すんだよ)

泉は、幸せだった。
初めのうちこそ、少しの間でも強がそばにいないということが半身を失ったように心細くて不安になったりしたけれども、沢木の存在はそれを十分補って余りあった。
それにその強も結局、寮の部屋と教室では直ぐそばにいてくれる。その上で恋人としての沢木の存在。溢れんばかりの愛情に包まれて、泉はますます、輝くばかりに綺麗になった。ちょっとしたことで涙を流すのは相変わらずだが、それ以上に花がほころぶような笑顔を頻繁に見せるようになって『幸せオーラ』を辺りに振りまいている。
後光の射すようなその麗しさに、つい手を合わせる者も現れるほど。

本当に、泉は幸せだったのだ。

* * *
「泉、今日は今から緊急の役員会議があるから、一緒に帰れない」
放課後、一年松組の教室にわざわざやって来た沢木が言う。
泉は少し残念そうに、それでも微笑んでうなずく。
「はい」
「たぶん遅くなるから、夕食も待たなくていい。ツヨムシと食べておいてくれ。それと、夏休み前にまた寮で何かやろうって企画があがってるんだが、その打ち合わせを明日するから、ツヨムシにも伝えておいてくれ」
「はい」
「……伝えるも何も、俺はここに居るんだけど」
ほんの少し離れた所で憮然とする強。
沢木は、他の何も目に入らない様子で、泉の耳元に唇を寄せた。
「じゃあな」
低い声で囁くように言う。
耳朶に口づけられるような感覚に、泉は一瞬ぞくっとして軽く首をすくめると、潤んだ瞳で沢木を見つめた。沢木は名残惜しそうにその頬に手を当て、そして思い切ったように立ち去っていった。

寮に帰った泉は、久し振りに強と二人で食事をした。
「なんか、このところいつも沢木や春日が一緒だったから、逆に二人っきりってのが、落ちつかねえや」
強が軽口を叩いて笑う。
「ツヨくん、先輩を呼び捨てにしちゃダメだよ」
そう言いながらも、泉も笑っている。ちなみに泉は、先日来沢木のことを『敦先輩』と呼び変えていた。本人からは敦と呼び捨てにしろと言われたが、どうしても『先輩』が取れない。
「いいんだよ。あいつは俺から泉をとった泥棒だからな。泥棒に敬称はいらん」
「春日先輩は違うよ」
「春日は俺にべろちゅーした、ある意味盗人(ぬすっと)だ」
「ツヨくんたら」
顔を赤くして、泉は笑った。
食事を終えて、部屋に戻ろうとしたときに、二年の赤松が泉に声をかけた。
「あ、泉くん」
「はい?」
振り返るその顔に、赤松はホワワンとのぼせる。
「なんだよ。用件あるんならさっさと言え」
強が蹴りを入れる。先輩に対してだろうがなんだろうが、泉が絡むと条件反射だ。
ハッとして赤松が、アンケートの束を差し出す。
「あっ、これうちのフロアのアンケート。夏休み前の寮会について、沢木先輩に頼まれていたんだけど」
「ああ、はい」
泉はニッコリ笑って受け取った。また赤松の鼻の下が伸びる。それを見て強が唇を尖らす。
「沢木に頼まれてたんなら、沢木に渡せよ」
「だって、お前ら補佐だろ」
赤松も、強には強い口調。
「だったら、俺に声かけろよ。泉を名指しっていうのが未練たらしいんだよっ」
「なーんーだーとー」
泉は、二人のやり取りに困ったように眉を寄せたが、急にあることを思いついて顔をパッと輝かせた。
「あ、じゃあ、僕、これ敦先輩に届けてくるね」
「へ?」
強と赤松がきょとんと振り返る。
(今日は、夕方からずっと会っていないから、これを口実に敦先輩に会いに行こう)
泉は、頬を薔薇色に染めて駆け出した。
呆然と見送る二人。
「てめえ、余計なことしやがってっ」
「先輩にむかって、てめえはないだろっ」

* * *
泉は沢木の部屋に行って、ノックしようとした。
が、ほんのちょっとしたいたずら心で、そのままドアをそっと開いた。寮生の部屋はほとんどカギはかかっていない。びっくりさせてやろう。ほんの単なる、思いつき―――――

部屋は、暗かった。
(まだ帰っていないのかな)
そう思ったけれど、人の気配がする。
(何の声?)
猫の鳴き声のような、子供のすすり泣きのような、なんだか変な声がする。
部屋の中に、そっと身体を滑り込ませて、闇に瞳がなれると――――二つの裸体が見えた。
(せん、ぱい?)
ベッドの上で絡み合う二つの身体。
泉は、がたっと大きく音をたてて壁に背中を押しつける。
ハッとして振り向いた二人。
(敦、先輩……かす、が、せんぱい……)
泉はその場から動けなかった。ベッドの上の二人も固まったように動かない。ようやく沢木が
「泉……」
と、搾り出すように呟いた瞬間、泉は部屋を飛び出した。手にしていたアンケートが部屋に散らばる。

バタバタと部屋に飛び込んできた物音に、ベッドに寝そべって雑誌を読んでいた強は身を起こした。
「泉、早かったな。てっきり、あいつに捕まって」
と言いかけているところに、泉がしがみ付く。
「泉?」
驚く強にぎゅっと抱きついて、泉はカタカタと震えた。
「どうしたんだよ。泉、何かあったのか?」
慌てて強が叫ぶ。泉は、何も言わずただ震えている。強の肩を、指が白くなるほど強く握って。
「泉」
無理やり顔を覗き込むと、泉はひどく青褪めていて、怯えたような瞳で見返してきた。そして、強は違和感に襲われる。
「泉?」
泉の目に涙が無かった。

「どうしたんだよ。何があったんだ」
強の声も震える。
こんな泉は初めてだ。
泉の髪を、背中を、何度も何度も繰り返し撫でて、落ち着くまで待とうとしたが、今すぐ飛び出して行きたい気持ちもあった。
(沢木、あいつのところで、何かあったんだ)
泉はずっと黙って、強の胸に顔を押しつけている。
その時、ドアを叩く音がした。泉の肩がビクッと震えた。
強が立とうとすると、泉がギュッとしがみつく。
「泉」
優しく声をかけると、泉は強の胸に押しつけていた顔を、いやいやをするように強く左右に振った。
ドアが再びノックされる。
「すぐ、もどる」
強の言葉に、泉は首を振る。
「中には、絶対入れないから」
それでも、泉はしがみついて離れない。
三回目のノックの後、強は泉をゆっくり自分から引き剥がして、そのまま自分のベッドに寝かせた。布団に包んで、うつ伏せる泉の頭に唇を寄せて優しく言う。
「追い返して、すぐ、もどる」
そして、強は眦を決するとドアに向かった。

ドアを開けると、予想通り沢木が立っていた。こっちの顔も泉に負けず青褪めている。
部屋の前にすべり出て、後ろ手に閉める強の顔も、怒りで白くなっていた。
「帰れ。泉に何したか知らねえが。泉が嫌がってんだよ」
「泉に会いたい」
沢木が恐いほど、思いつめた顔で言う。強は怯まなかった。
「だから、嫌がってんだよ。聞こえなかったか」
「会わせてくれ、頼む」
沢木の口から、頼むなどという言葉を聞いて、むしろ強はカッとなった。
「おまえ、泉に何したんだよっ」
「…………」
「何、したっ」
強がぎりぎりと歯をくいしばる。
「……泉は、何て?」
「何も言わねえよ。泣きもしないっ」
「泣きも……?」
沢木の瞳が呆然とする。
「そうだよ。あの泉が、泣きもしない。口も利かない」
怒りに顔を紅潮させて、強は拳を上げた。
「てめえ、一体、何、しやがったっ」
ガッと鈍い音がして、沢木の身体が二、三歩後ろによろめいた。
沢木は強の拳を避けずに、左の頬で受け止めた。

「やっ」
部屋の中から、小さい叫び声がした。そして、強を呼ぶ声。
「ツヨくん」
「泉」
今の音は、当然部屋にも聞こえている。
「泉っ」
沢木が部屋に向かって叫ぶ。
「ツヨくんっ」
泉の悲痛にも聴こえる叫び。強だけを呼んだ。
「ツヨくん、来て、ツヨくん、そばに来てっ。ツヨくんっ」
「泉」
その声に強は踵を返すと、ドアをバタンと締めて、カギを掛けた。

部屋に戻ると、泉がベッドから身を起こして腕を伸ばしている。
「ツヨくん、ツヨくん」
「泉」
「ここに居て、ツヨくん、ここに……」
「居るよ、ここに、一緒にいるから、泉」
「ツヨ、く、ん」
泉は再び強の胸に、しがみつく。
強はゆっくり、そのまま泉を寝かせて、添い寝するようにした。
「一緒に居るから、泉、今日は寝なよ」
「…………」
「一緒に居るから」


暗い部屋の中に、規則正しい寝息が聞こえる。強の寝息。泉に添い寝しながら、結局先に眠ってしまった。
泉は闇の中、じっと天井を見つめていた。
目を閉じたくない。
目を閉じると、浮かんでくるから。
闇の中に、浮かぶ身体。不自然に曲げられた脚。背中に廻されていた腕。
そして、聴こえるあの切なげな声。

いやだ、いやだ、いやだ―――――――――――。

『幸せにする』
『絶対、幸せにするから……泉……』

夕陽の当たる窓辺で、囁かれた。あれは、ほんの一ヶ月前のこと。
あのとき自分は、本当に幸せだった。

嘘つき、嘘つき、嘘つき―――――――――――。

血を吐くほど、心で叫んでも、何故か涙は出てこなかった。
本当に辛くて悲しい時には、涙は出ないのだと、泉は知った。




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