沢木は自室に泉を招き入れると、とりあえずは言ったとおり寮生名簿の原稿を取り出してきた。まだ外は明るい。焦りは禁物というところ。 「大体、三分の二くらいはちゃんと出すんだけどね。残りの連中は督促しないと出してこない」 「そうですか。じゃあ、これから提出してもらうようにまわりますか?」 「いや、いい」 沢木は自分でも思いのほかの強い口調で否定した。それを慌ててごまかすように微笑むと 「こっちの原稿を整理してからで構わないよ」 せっかく泉と二人っきりの時間、そんなことで潰される訳にはいかない。 (そんな仕事はツヨムシにやらせりゃいい) と、今、追試験真っ最中の強のことを考えて、沢木はふと先日強が言っていた話を思い出した。 『消しゴム割ったって言って泣くんだよ』 目の前の泉は、花のような風情で微笑んでいる。それだけで十分目の保養だが、沢木としては、あの真珠のような涙をほろほろと流す泉も見てみたい。 ちょっとしたいたずら心で沢木は訊いた。 「泉、消しゴム持ってる?」 「え?はい」 泉は、自分の筆箱から消しゴムを取り出す。 沢木はそれが二つ無いことを確かめた上で、ゆっくりと言った。 「俺、消しゴム無くしたみたいで……それ半分もらってもいいかな?」 泉は、少し驚いたようだが微笑んで手渡した。 「どうぞ」 「ありがとう」 沢木は、ちらりと泉の顔を見て、おもむろに消しゴムを二つに割った。 泉はきょとんとしている。 沢木は気が抜けたように泉を見て、そしていきなり吹きだした。 泉は何のことかわからず、可笑しそうに笑う沢木に困惑する。 「ごめん」 沢木は笑いを納めると、泉に半分になった消しゴムを返しながら 「ちょっとしたでき心だったんだけど。これは記念に貰っていいかな」 もう半分の消しゴムを握りしめる。 「ええ」でも、何ですか?と言った顔の泉に、沢木は話した。 先日、強から聞いた中学三年生の期末試験の話。当然、強の宣戦布告は省略して、消しゴムを割ったといって泉が泣いたと言うのがあまりに可愛らしくて、つい自分も意地悪してみたくなったのだと。 「ああ、そのこと……」 泉は、頬を染めて恥ずかしそうにうつむいた。 「あれは、違います。いくら僕でも、消しゴムがかわいそうで泣いたりはしません」 そう言う泉が、すでに目元を潤ませている気がして沢木は優しく訪ねた。 「じゃあ、何故泣いたの?その時」 「あれは、ツヨくんが大切にしていた消しゴムだったから」 「え?」 「買ったばっかりで。あのツヨくんが、片側しか使わないで大切に使っていたやつだったから」 「…………」 「自分の不注意で、ツヨくんの大切な消しゴムを割らせてしまったと思ったら」 いきなり泉は、そのときのことを思い出してポロリと一粒涙を零した。 「泉」 「あ、ごめんなさい」 恥ずかしそうに人差し指で目元を拭う泉を、沢木は衝動的に抱きしめた。髪に顔を埋めて低い声で尋ねる。 「強の大切な消しゴムだったから、悲しかったんだ?」 「さわ、き先輩?」 泉は急に抱きしめられた動揺に声が震えた。 どうして抱きしめられているのか、そして何故、沢木が怒っているように感じるのかもわからない。 「強のこと、大切?」 沢木がなおも尋ねる。 「え?」 質問の意味がわからない。泉は、ひたすら心臓をドキドキさせて、無意識に沢木のシャツを掴んだ。沢木が囁きながら、ゆっくりと唇を落としていく。 「強と俺と、どっちか選べって言ったらどうする?」 「え?」 (ツヨくんと沢木先輩?) 比べられるはずのない二人。けれども沢木の質問に答えようとして、悩んで、次の瞬間重なった唇に何も考えられなくなった。 「んっ……ん……」 沢木の唇が噛み合うように重なって、強く舌を吸い上げる。 怯えたように逃げる泉の舌を追いながら、上顎や、歯列の裏まで愛撫する。その甘美な感覚に免疫の無い泉は気が遠くなる。 キスだけで気を失いそうになって、泉は沢木の胸にすがった。 「泉」 沢木は、そのまま泉をゆっくりと抱き上げた。寮の個室はベッドルームなど無い。三歩歩けば直ぐベッドだ。 ベッドに寝かされた泉は、虚ろな目をして沢木を見上げる。キスのショックからまだ目覚めていないという感じ。その無防備な表情が沢木の雄を昂ぶらせた。 服を着たまま覆い被さると、もう一度激しく口づけて何度も角度を変えて泉の口腔を犯す。 右手で泉のシャツのボタンを外し、下にきていたTシャツを捲り上げる。 直接触れた、吸い付くような肌に、沢木の唇から感嘆の溜息が漏れた。 沢木の唇が離れ、泉が切ない声を洩らす。 「あっ……はぁっ……」 その声に煽られるように指を滑らす沢木が、泉の胸の突起に触れた瞬間、泉は痺れるような感覚と共に一瞬意識をはっきりとさせた。 「あっ、ダメ」 沢木を押しのけようとして、沢木の胸の下で身じろぐ。 それを初心な恥じらいによる抵抗だと受けとった沢木は、鎖骨に強く口づけながら、より強く泉の胸を弄った。全身の体重をかけて、泉の抵抗を抑える。 「やっ、いや。ダメ。ダメなんですっ、先輩」 泉が悲鳴をあげる。 「お願いです、沢木先輩っ」 ようやく沢木は泉の様子がおかしいことに気づいて顔を上げた。 泉は、ボロボロと激しく涙を零して、苦しそうに沢木を見返す。 「泉?」 沢木は身を起こして、ゆっくりと泉の髪を撫でた。何故、こんなに嫌がられるのか?沢木にとっては初めてのこと。 泉は、苦しそうにしゃくりあげた。 (……羽根邑家双子の掟、その七) 泉はどこまでも強に忠実だった。 * * * 参考書を閉じると、春日は軽く伸びをした。 (コーヒーでも入れるか) 同室の三田村はいつも部活で遅い。おかげで、寮は二人部屋でも一人でいられる時間が多く春日としては助かっていた。 (やはり、三田村が帰ってくる前に英語も終わらせておこう) コーヒーメーカーに粉を入れながら春日は考えた。 先日の新年度最初の学科試験でトップでなかったことを、春日は密かに悔しがっていた。 去年、ほとんどの試験で一番前に名前を掲示されていたのに、今回は沢木にしてやられた。新年度初の試験順位表の掲示というのは、歌舞伎で言えば顔見せ興行のようなものだ。新入生にも誰が一番なのかを印象付ける大切な機会だったのに。 まったく沢木という奴はさほど努力もしていなさそうなのに、さらりとおいしいところを持っていく。 去年同室だったその男の顔を思い浮かべながら頭の中でブツブツ言っていると、ふいにドアを叩く音がした。 「はい」 春日がドアを開けると、たった今まで考えていたその沢木が仏頂面で立っている。 「やらせろ、ヤチ」 第一声がこれだ。 「お前ねぇ」 「三田村いないのか?」 沢木は、遠慮なく部屋の中に入る。いつものことなので、春日も慣れたものだが。 「ああ、今コーヒー入れているから、飲んでいけよ」 奥に招いて、棚にセットしてあるコーヒーメーカーに近づこうとすると、沢木が後ろから春日を抱きしめて囁く。 「コーヒーより飲みたいものがある」 「……オヤジ」 「いいだろ」 「また泉を食い損なったのか」 「…………」 春日の言葉に、珍しく沢木は切り返しもせず、考えるような視線を足元に落とした。 春日がクルリと振り向いて、沢木の顔を見つめる。 「なんで、羽根邑泉だけ、手が出せないんだ?」 こういうときの春日の無表情な顔は、綺麗過ぎて冷たい印象すら与える。 「……お前だって、あの顔をみれば、手を出せないよ。壊れそうで……こわい」 沢木があまりに素直に答えるので、春日は内心ひどく驚いていた。 驚きを隠して、わざとふざけて言う。 「へえ、見たいな。その顔。俺が手を出してみてもいいの?」 「だめだ。馬鹿」 「今、俺にも見てみろって言わなかった?」 「いうか」 コーヒーの匂いが部屋にたちこめる。春日は口の端で微笑んで二つのカップにそれを注いだ。 「ほら」 「さんきゅ」 大人しくコーヒーカップを受けとる沢木は、やはりいつもと少し様子が違う。 勉強机の椅子に腰掛けながら、春日は尋ねた。 「身体以外の相談にものるけど?」 沢木は春日のベッドに腰をおろしてふっと笑った。 「俺は、他人に相談をするタマじゃないって、お前、言ってたよな」 「言ったかな」 とぼけて笑う春日に、沢木はいつもの調子に戻って 「これ飲んだら、俺の部屋行こうぜ。別にここでもいいけどな。三田村が帰ってくるかもっていうスリルは結構刺激になるし」 「それは、かんべんしてくれ」 春日は笑うと、机の上に広げていた参考書や問題集を片付けて、本棚に戻した。 そのころ泉は自室の洗面所でシャワーを浴びながら、懸命に鎖骨のあたりを擦っていた。さっき沢木につけられた痕がそこだけくっきりと浮かび上がっている。 (どうしよう……) 強と約束した『双子の掟その七』 自分としては守ったつもりだけれど、強はどう思うだろう。こんな痕があったら…… 悲しくなって、強く擦ると白い肌が赤くすりむけたようになった。 「よけい、目立っちゃったかも」 鏡をみて呟く泉。 そして、鏡に映る自分の唇に眼をやって、羞恥に頬を染めた。 さっきの沢木とのキス。熱くて、甘くて、頭の芯が溶けそうだった。あんな感覚は生まれて初めて。強との約束を思い出さなかったら、そのまま流されていたに違いない。 瞳を閉じると、沢木の顔が浮かぶ。自分の胸に直接触れた沢木の手のひらの感触を思い出すと、ジンとした痺れが腰に走る。 そんな甘い痺れも、泉には初めての体験。立っていられなくなって、シャワー室の床にずるずると座り込んでしまう。 (ツヨくんとの約束、この先もちゃんと守れるのかしら?) ひどく不安な気持ちになる泉だった。 「ただいまあーっ」 追試を終えた強がものすごい勢いで部屋に入って来る。 「泉っ?」 泉の姿が無いので、慌てて叫ぶと、洗面所から小さな声がした。 「おかえり、ツヨくん」 「泉?!」 (何で、この時間に洗面所なんだっ) 焦ってドアを開けると、半裸の泉が洗面所の床にしゃがみこんで、怯えたように強を見上げる。持っているバスタオルで首から前を隠しているが、白い肩やすんなり伸びた脚が眩しい。いかがわしい雑誌のグラビアのような姿に、強は鼻血を噴きそうになった。 「い、い、ず、な、なん、そ、ま……」 (泉、何でお前、そんなかっこしているんだよーっ!まさか……) 「違うの、ツヨくん、僕、ちゃんと、守ったから」 「ち、ま」 (違うって何だよ。守ったって、貞操かっ) 「ほんとだよ」 「さ?」 (沢木だな?) 「うん、でも沢木先輩、キス以上のこと、してないから。本当」 「き、き、き」 (キスはしたんだな?) 「ごめんね。ツヨくん。でも双子の掟その七は、ちゃんと守ったんだよ」 さすが、双子。 強がほとんど口をきけなくとも、会話はなりたっていた。 * * * 泉の鎖骨にキスマークを見つけてから、強の教育的指導はますます厳しくなっていったが、それに反比例するかのように、不思議と沢木の攻撃は穏やかになっていった。強は指導の賜物だと喜んでいる。 今日も、気がつけば仲良く学食で昼飯を食べている三人。 「ここの学食と、寮の食事は同じ人たちが作ってるんだよ」 「それで、学校が休みのときは、寮の食事もお休みなんですね」 「それって、学食の残りを寮の夜飯に当ててるってことじゃねえのか?」 「ツヨくんたら」 「まあ、それも、無きにしも有らず。それで、寮費が安くなるならいいだろ」 学食の一角でやたらとその存在を誇示している美丈夫生徒会副会長と美貌の双子。そこに、美しさでは引けを取らない生徒会長の春日が加わったので、ビューティフル指数がますます上がった。 「敦、空いてる?」 「ああ」 沢木の返事も待たずに、春日はトレイを置いて座る。空いているも何も、この席に割り込めるほかの生徒がいるのなら教えて欲しいというもの。 「こんにちは。春日先輩」 泉が眩しそうに微笑む。泉も春日の女性的な美貌には見惚れることがある。自分のことについては全く自覚が無いのだが、春日が美人だということには素直に感動しているのだ。 「こんにちは。泉くん、今日も可愛いね」 《ピー》 「注意!」 味噌汁をすすっていたはずの強が、いつの間にか笛を出して、人差し指を春日に突きつける。春日は苦笑い。 「強くんも、相変わらず可愛い」 「っせえよ」 「ツヨくんたら」 ふくれる強を困ったようにたしなめる泉を見て、春日はそっと自分の隣の沢木を盗み見る。 沢木は、この上なく幸せそうな顔で泉を見つめている。 落ち着いた、優しい瞳。 (こいつが、こんな表情できるなんてね) 自分の知っている沢木は、自信家で、傲慢で、そして荒々しい。 もう一度目の前の泉に目を戻すと、聖少女のような穢れの無い瞳が見返してくる。 (アノ時の、激しい敦を、この子はまだ知らないんだ) その優越感ともいえる気持ちに、春日は内心ほくそえんだ。 「そういえば、もうすぐ《石祭》だね。今年の出し物考えないと」 食後のお茶を飲みながら、春日が言った。 「そうだな」 「何だその《ごくさい》って?」 強が尋ねる。泉も首をかしげているので、沢木が答えた。 「うちの寮祭だよ。お前達にも手伝ってもらわないといけないから、言おうと思っていたんだ」 「寮で、お祭りするんですか?」 「ああ、新入生歓迎の意味と今後の親睦を図って、昔からあったんだが。三年前から、寮生以外の外部の生徒も呼ぶようになって、大袈裟になってるんだよな」 「確かに。去年は寮生よりも自宅生の方の人数が多かったな。……倍くらい」 「参加しない寮生もいるんですか?」 「いや、寮生は全員強制参加」 「それじゃ、ほぼ全員参加したってことじゃあ……」 百万石学園高等部。寮生と自宅生の割合は一対二。 「まあね。去年は目玉があったし」 泉の問いかけに、春日が笑って答えた。 「何だよ。目玉って」 強が好奇心旺盛に身を乗り出す。 「俺と沢木敦の和装シンデレラ」 春日がニッコリ笑う。 「石祭の出し物は毎年時代物じゃないといけないんだよ。伝統でね。で、大河でも良かったんだけど、趣向を変えて江戸城を舞台のシンデレラにしたの。敦が殿で」 「春日先輩が、シンデレラ?」 泉がポカンと口をあけて、あどけない顔で目を瞠る。 「草履、落としていくはずが、抜けなくて大変だったよな」 沢木が遠い目をする。春日が照れくさそうに言い返す。 「アレはもともとキツかったんだよ。女物だし」 「なんで、高校生にもなって、そんな馬鹿やってんだ?」 強の言葉に、沢木が兇悪な顔で応える。 「ここにいる俺たちの誰一人、お前から馬鹿って言われる筋合いはねえよ。これっぽっちもなっ」 「沢木先輩と春日先輩のシンデレラ……」 泉の頭の中には、凛々しい王子様姿の沢木と、その沢木に寄り添って美しいドレスを翻して踊る春日の姿が浮かんだ。 「いや、だから、和装だって」 さすが、双子の弟、強。何故だか兄の想像がわかるのだった。 |
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