「もうすぐだな」 沢木は時計を見て、一人つぶやいた。 時計の針はあと五分ほどで七時。泉に部屋に来るよう言った時間だ。授業が終わるなりさっさと寮に帰った沢木は、食事を済ませてシャワーも浴びて、ついでにベットメイクも完璧にして泉を迎える準備をしていた。 小さくドアを叩く音がした。 喜び勇んでドアを開けると、そこには泉一人。 邪魔な強が付いて来ることだけを少々心配していたが、さすがに意図はわかってもらえていたらしい。 沢木は、その華奢な身体をいきなり引き寄せて、部屋に入れながら、激しく口づけた。 「なっ!」 いきなり泉が右手の拳を振り上げる。 「何するっ」 叫び声とともに繰り出された強烈なアッパーカットを、とっさの判断で、左手のひらで受け止めると沢木は眉を顰めた。 「強?」 部屋の明かりの下で見てみれば、泉だと思ったのはその双子の弟の強。廊下の薄暗さのために判らなかったもの。 (寮の廊下の照明をもっと明るくすべきだな) 「てめえ、いきなりこんなことするなんて、どういう変態だっ」 強が真っ赤な顔で怒鳴る。 「別に、お前にしたかったわけじゃないよ」 沢木も不愉快そうに眉間に皺を寄せる。 「なななな……」 強にしてみれば、泉がこんなことをされると思うと、よけいに頭に血が上る。 「このヤロウッ」 カッとして繰り出す強のパンチを、沢木は軽やかにかわして、最後は逆に強の両手を押さえつけると低い声で言った。 「人の部屋で、暴れてんじゃねえぞ。泉はどうした」 「うっ」 悔しそうに唇を噛んで、沢木を睨む強。 体格の違いにモノを言わせた沢木は、強の両手首をギリギリ締め付けて、意地悪そうに目を細めると、今度はかえって優しく囁くように言う。 「泉は?どうしたんだ?何でお前が来たんだ?」 「い、たっ……熱……」 「熱?」 「熱、だしてんだ、よっ」 あまりの両手の痛さに、つい正直に答えてしまった強。 沢木は手を放すと、一瞬強の顔を見て、すぐに踵を返した。 「あ、おいっ」 強が叫ぶ間もなく、沢木は部屋から飛び出した。 311号室の鍵はかかっていなかった。強が出て行くときにかけなかったのだが、まあ、寮内で個別のドアに鍵をかけるというのは珍しい習慣で、ほとんどの部屋の鍵は使用されていないのが現状。 「泉」 沢木は、遠慮なく進んで泉の寝ているベッドに近づく。 「あ……さわ、き、先輩」 熱でボンヤリした泉が沢木を見上げる。 そっと、掛布団を顔に引き寄せ、恥ずかしそうに顔を隠す様子が、たまらなく可愛い。 「熱、でたって?」 沢木が心配そうに囁いて、泉の額にそっと手を当てる。 「あっ」 泉が、小さく声を出す。沢木の指が触れたところから、また熱が上がっていきそうな感じ。 「熱いな」 額に手を当てたまま、覗き込むように顔を近づける。 「あ、あの、ごめん、なさい」 「なに?」 「約束……」 「ああ……」 七時に行くと約束していたのが、こんなことになったので代わりに強に伝えてもらおうとしたもの。まさか、それで先輩が来てくれるなんて思ってもいなかった。泉はなんだか胸がギュッと苦しくなって、また目じりに涙を溜める。 「先輩……」 「泉」 沢木はベッドの縁に腰掛けると、そのまま覆い被さるようにして泉に口づけた。 「んっ、んん」 泉の唇と口中の熱さに、沢木の身体にも熱が生じてきたそのとき。 「まてまてまてぃっ」 強が、沢木の身体を泉から引き剥がす。 「何だっ」 思い切り凶悪な顔で振り向く沢木。 「あ、やっ」 強に見られて、恥ずかしそうに布団の中に潜り込む泉。 強は、顔を赤くして怒りに震えながら、大きく深呼吸すると沢木に言った。 「泉は病人なんだから、変な真似すんなっ。それに同室の俺に断り無く部屋に入るなっ」 「ふうん」 沢木は、強を睨みつけ、傍らの泉に目をやった。泉は、小さい子供のように布団の中に潜り込んでいる。今日のところはもう何も出来そうも無い。 「わかった、出直そう」 沢木はそう言うと、ベッドで小さくなっている泉を掛布団ごとぎゅっと抱きしめて、囁いた。 「続きは、また今度な」 薄い掛布団の下で、泉の身体がビクッと反応するのがわかった。 「あっ、こらっ」 強が駆け寄る。 「はいはいはい」 沢木は部屋から追い出されながら、くるりと振り向いて強に向かって言った。 「お前のあだ名、思いついた」 「は?」 「お邪魔虫の強で、強虫。ツヨムシだ。強虫と書いてツヨムシ。手塚治虫みたいでいいだろ」 「ふ、ふざけんなぁっ!」 「じゃあな、ツヨムシ。はやく泉の熱を下げてくれよ」 「ツヨムシ、いうなっ」 沢木の帰った後、強は泉のベッドの縁に座ってじっと泉を、正確には泉が潜り込んで小さく丸まっている布団を、見ていた。 しばらくたってから布団にもぐっていた泉がそっと顔を出して恥ずかしそうに強を見る。さっきのキスシーンを見られていたことが恥ずかしくて仕方ないのだ。 その表情に、強は胸が締め付けられた。 「泉」 「……ツヨくん」 泉はもじもじと起き上がる。 「熱あるんだろ。寝てろよ」 強がそっと肩を押さえると、泉は素直に横になった。 「ツヨくん、僕……」 泉が何か言おうとするのを遮って、強は訊いた。 「あいつのこと……本当に好きなのか」 泉は、熱の為だか何だかとにかく熱くなった顔を赤くして、ぼうっとした頭で一生懸命考えて、そして小さく頷いた。 「……好き」 「そっか」 強にしてみればある程度予想していたこと。そして屋上での兄の様子からも、ある確信が生まれていて、諦めの境地に近づいてはいた。 しかしながら、さっきの沢木の態度は許せない。自分を泉と間違えてしたキス。あんな獣のような男が相手では、泉はあっという間に食べられてしまう。強にはそれが、とにかく耐えられなかった。 「泉、好きなのはいいけど……キスまではいいけど……」 「え?」 泉が潤んだ瞳で強を見返す。 「絶対、それ以上のことをしちゃダメだ」 「えっ」 泉の顔がますます真っ赤になる。強は思いつめた顔で言う。 「親父たちが海外に行っている間、お前に何かあったら、俺は……」 強が拳を握って、唇を噛みしめる。 「ツヨくん」 泉は慌てて、その手を伸ばして強の腕に触れる。 「泉、親父たちにきちんと紹介するまでは、絶対、誰とも、キス以上のことはするな」 「ツヨくん」 「頼む。泉」 いつになく真剣な強の顔、泉は布団で顔を隠してコックリ頷く。 「そんな、しないよ、そんなこと……」 「泉」 強はホッとしたように笑うと、小指を出した。 「羽根邑家双子の掟、その七だ」 「うん」 その強の小指に、自分の小指を絡ませて、泉も微笑んだ。 そのころ沢木は、自分の部屋に帰る途中で春日の部屋をノックしていた。 「はい」 春日がドアを開けて、沢木の姿に少し驚いた表情をする。 沢木は、春日の腕を取って部屋の外に引っ張り出すと、ドアを閉めて耳元で囁く。 「やらせろ。今から」 「はあ?」 春日は、呆れた顔で沢木を見返して切り返す。 「今日は羽根邑泉が来るから、部屋に来るなって言ってたんじゃなかったか」 「諸般の事情でダメになったんだ」 「だからって、俺を代わりにするのか?」 「ばかな」 沢木は、しっかりと春日の肩を抱いて自分の部屋へと導きながら 「泉の代わりなんて、誰にもできん」 ぬけぬけと言いきった。 「あのさ」 春日は大人しく連行されながら 「それを、これから寝ようとする相手に言うかね」 ほとほとうんざりした声を出した。 それに対して沢木はほんの少し意外そうに眉を上げた。 「ヤチ、まさか、妬いているのか?」 「まさか」 春日はその秀麗な美貌を顰めて言った。 「俺たちは、そういう関係じゃない。だろ」 「だよな」 沢木の部屋に入るなり、二人は自分で服を脱ぎ始める。 「どっちにしろ、俺のこの欲望の火を消せるのは、今、お前だけなんだ」 「人を消防団か町火消しみたいに」 「たのむよ。か組のだんな」 「ふふっ」 沢木が春日の顎に手を当てると、春日は自ら両腕を沢木の首に廻して、唇を近づけた。 * * * 翌日、熱の下がった泉と強はいつものように登校しようと部屋を出た。 寮の出入り口に、沢木と春日が立っている。 百万石学園生徒会の名物コンビ、その恵まれたルックスで二人並ばれると、迫力すら感じられる。 「おはよう。もう熱はいいのか」 沢木がにこやかに話し掛けると、泉は頬を染めて頭を下げた。 「ご心配をおかけしてすみません」 「本当に」 沢木は、いきなり泉の肩に腕をまわして 「あまり心配かけさせないでくれ」 と並んで歩こうとした。 《ピーピーピ――――――》 甲高い笛の音が響いた。 見ると、いつぞや利一から奪った災害時用救命笛を強がくわえて鳴らしている。 「教育的指導っ」 笛を外して叫ぶと、強は泉を沢木から引き剥がす。 ぷっと春日が吹きだした。 「泉」 強は泉の小指を取って、小さく囁く。 「羽根邑家双子の掟その七。忘れちゃいないだろうな」 泉は赤い顔でコクコクと頷いた。 「なんだ?」 沢木が不審そうに眉間にしわをよせると、強はその顔に指を突きつけて言った。 「泉との付き合いは、高校生らしいものであること!ちょっとでもいやらしい振る舞いに及んだら、この俺が許さんっ」 「ツヨくん」 「ツヨムシ」 二人同時に呟く。 泉はちょっぴり感動して、沢木は酷くウンザリして。 春日は大笑いしながら、先に学校へと向かった。 《ピーピーピ――――――》 昼休みの廊下に、強の笛が鳴り響く。 「ツヨムシ、いいかげんにしろっ」 沢木がキレル。 強は、あれからずっと利一の笛を愛用して、泉を守って『教育的指導』を続けていた。 押しの強さにかけては右に出るもののいない沢木だったが、この笛攻撃のおかげで、今だ泉と三度目のキスもできずにいる。 「泉、ゆっくり話ができるところに行こう」 泉の手を取って、沢木が駆け出すと 「きょおおいくてぇきしどおおおっ」 強も負けずに追いかけてくる。 この三人の姿は、百万石学園の新しい名物となりつつあった。 (このままじゃいかん) 沢木は考えた。何とかして強と泉を別々にする機会を作らないと。 そして、意外に早くチャンスはやって来た。 「追試ぃー?」 強が情けない声を出す。 一学期最初の試験。学食前の廊下に張り出された順位表。羽根邑泉の名前は燦然と前から三番目に、そして、羽根邑強の名前は悲惨にも後ろから三番目の位置に墨で黒々と書かれていた。 そして、学年三十位以下は追試験という非情な掲示も朱書きで赤々と書かれていた。 「美しいシンメトリー(左右対称形)だな」 羽根邑兄弟の後ろから呟くようなバリトンボイス。 「うっ、沢木」 「先輩」 ちなみに、沢木の名前は三年生の順位表のトップに輝いている。 沢木は強を見て、口の端を軽く上げて見下すように言った。 「ここまでお粗末な頭だとは、思わなかった」 「なにぃ」 実際、ここまで酷い成績を取ったのは強も初めてだった。 このところ泉を守ることに一生懸命で、ちっとも勉強していなかったというのがその理由。 「もとはといえば、てめえのせいだっ」 それがなくとも、追試の対象になったのはおそらく間違いないが、こうなったら成績の悪さもなにもかも沢木のせいにしてしまいたい強。 沢木は、笑って 「八つ当たりもいいが、追試受けなかったら、大変なことになるぞ。せいぜいその日は真面目に受けろよ」 そして、泉に思わせぶりな視線を送って立ち去った。 泉は困ったように強の顔を見る。 「泉っ、追試の日は寮の部屋に閉じこもって、カギを掛けておくんだぞ」 沢木の後ろ姿を睨みつけながら強が唸る。 「誰が来ても絶対に開けるなっ。声色真似られても、隙間から白い手を覗かされても、信じるなよっ」 (……『狼と七匹の子ヤギ』かしら) 泉は顎に人差し指を当ててゆっくりと首をかしげた。 さて、追試当日。この狼は物語ほどお馬鹿でないので、子ヤギが部屋に閉じこもる前に捕まえた。 「泉」 「沢木先輩」 「この前の寮生名簿の原稿、かなり集まったんで一度整理したいんだけど、手伝ってもらえるかな」 「あ、はい」 なにしろ、子ヤギ自身、狼に惹かれているのだから始末におえない。 |
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