翌日、私立百万石学園高等部入学式。
やはり、泉はぽろぽろと涙を流している。
隣で、強が囁く。
「泣くなよ」
「だって、ひっく、お父さんも、お母さんも……うっく」
在校生の後ろや体育館の二階には、新入生の父兄が礼服に身を包んで座っている。が、二人の両親は現在アメリカなので当然そこにはいない。
「……入学式に来れないのは、しょうがねえだろ。今さら寂しがるなよ」
「そ、じゃ、なくて……」
泉がその白い指で、目元を拭いながら言う。
「二人とも、絶対僕たちのこの姿を見たかったに違いないのに、来れなくてかわいそう」
「はあ」

壇上では、在校生を代表して生徒会長の春日八千雄による歓迎の言葉が述べられていた。
春日の、男にしてはやや線の細い秀麗な美貌と、話す姿の凛々しさに、体育館のあちこちから感嘆の溜め息が洩れた。
強は、その生徒会長が話し終わって自席に戻るのを深い意味も無く目で追って、次の瞬間小さく叫んだ。
「げっ!」
見ると、春日が戻った席の隣に、昨日の男、沢木敦が座っている。
在校生の列とは離れた、体育館の右サイドに教師達と並んで特別に用意されたその席は、生徒会役員の席だ。
(あいつ……)
じっと睨むと沢木もこっちを見つめている。
いや、強ではなく泉を。
うつむいて涙を流す泉の横顔を、強い光を宿した目でひたすら見つめている。
強は、昨日に引き続き嫌な予感に襲われた。今までだって、泉の周りには熱い視線を送ってくる男は大勢いたが。
(この男は、なんだか、ヤバイ)
泉を守るようにして沢木の視線を遮ると、それに気づいて沢木が強を見た。
強が上目遣いで睨みつけると、沢木はニヤリと笑った。それが、無性に気に触って思わず舌打ちして拳を握り締めると、隣にいた泉が気づいて顔を上げた。
「どうしたの?ツヨくん」
強の見ている方向に視線を送り、そして小さく声をあげた。
「あ……」
再び、沢木と泉の視線が絡み合って、じっと見詰め合う。
「泉っ」
強が、肩を抱くようにして、泉の視線を前に向けさせる。
「あ……うん」
泉がうつむく。その横顔が赤く染まっているのが、強にはとてつもなく不安だった。

沢木は感動していた。
たった今見た羽根邑泉の顔。ぽろぽろと涙を流す横顔も見惚れるほど綺麗だったが、真っ直ぐ自分を見詰めてきたときの、無垢で無防備なその顔。
「入学式じゃなかったら、押し倒したい」
心のつぶやきのはずが、そのまま口に出していて、沢木は春日にどつかれた。
「頼むから学園内では自制してくれよ。副会長」
「はいはい」
適当に頷きつつ、沢木はもう自分の作戦を考えていた。

* * *
入学式が終わると自分のクラスに入って、担任の教師やクラスメイトとの顔合わせがある。
羽根邑兄弟は、兄の特殊体質と急な両親の海外転勤による心理的不安要因を考慮してもらって、今年も同じクラスになれた。
一年松組。
百万石学園は理事長の趣味で数字やアルファベットを使わずに、松組や桜組などのクラス名を使っている。紅葉組(もみじぐみ)などと言うのは幼稚園のようでちょっぴり恥ずかしい。飯田利一はその紅葉組で、泉と教室も遠くはなれてしまい、かなりへこんでいた。
「泉、何かあったらこの笛を吹け。どんなに遠く離れていても、駆けつけるからな」
自分の教室に行かねばならないと言う時間になっても、ひたすら泉に未練を残して松組の教室に居座っていた利一を強が追い立てると、利一はポケットから災害時用救命笛を出した。金色の小さい笛で、地震で倒壊した建物の下に埋まった人などが助けを求めるために吹いたりするアレだ。(『アレだ』って、知らんよという人も多かろう)
「あ、ありがとうリイチ君」
「試しに今、吹いてみてもいいぞ」
利一の言葉に、泉が素直に受け取ろうとするのを、強が横から奪った。
「こんなものは良く洗ってから使うんだ。っていうか、使う必要も無い!」
「ああっ」
利一が情けない声を出す。
(間接キスでもしようとしたか、馬鹿者)
強は利一を追い払って、ふとクラスの視線が自分達の方に集まっているのに気づく。
(俺たち、というより、泉か……)
傍らで小首をかしげて自分を見詰める兄の顔を見て、強はこの先のことを考え、らしくもなく溜め息をつきそうになった。

入学式当日は、父兄が待っていることもあり、すぐに解放される。けれども、泉と強は誰も来ていないので、真っ直ぐ寮に帰るだけだ。真新しい教科書を鞄に詰めているときに、
《ジャンジャンジャ、ジャララーン♪》
という時代劇調の音楽が教室前方のスピーカーから流れた。水戸黄門が印籠を出すとき、遠山の金さんが桜吹雪を見せるときの音楽を想像してもらいたい。百万石学園では、いわゆる普通のピンポンパンポーンなどは使わないのだ。
『一年松組の羽根邑泉君、至急生徒会室に来てください』
繰り返しますの言葉通り、三回繰り返された校内放送。
泉が不思議そうに強の顔を見る。
生徒会と聞いてすぐに、強は沢木敦の顔を思い出して、嫌な気持ちになった。
「なんだろう、僕、何かしたのかしら」
不安げにつぶやく泉。さっきようやく乾いた瞳が、またじんわり潤む。
「行く必要ねえよ」
はき捨てるように言う強に、泉は腕を絡ませて可愛く縋りつく。
「ダメだよ。呼ばれたのに、無視なんかしたら……」
その泉の顔を見るともうイケナイ。生徒会室だろうが、地獄の一丁目だろうがどこまでも付いて行きたい強だ。
「じゃ、さっさと行って、帰ろうぜ」
「うん」

生徒会室は、三年の教室のある校舎の三階にある。
「失礼します」
ドアを開けたのは強。泉はいつものようにその後ろに庇われるように立っている。
中では、生徒会長の春日と副会長の沢木の二人が待っていた。
「やあ、思ったとおり保護者も同伴だね」
美貌の生徒会長が笑いかける。その後ろで沢木はちょっと眉をひそめたが、強の後ろの泉と目が合うなり破顔した。
泉が、頬を染めぺこりと頭を下げる。
その様子に、強は眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに言った。
「どういう用件での呼び出しだ」
「果たし状でももらったような言い方だね」
春日が苦笑する。
「じつは、泉君にお願いしたいことがあって……ね」
「お願い?」

* * *
「寮長補佐ぁ?」
強が大声を出す。
「なんだよ、それ」
「その名の通り、寮長の仕事を補佐して…手伝ってもらうんだよ」
春日が応える。
寮長の沢木は、じっと泉を見ている。
「それを、僕が?」
泉が小さい声で沢木に尋ねる。潤んだ瞳で見上げると、その瞳を見返して、沢木が
「是非、頼みたい」
これ以上無い魅力的な微笑みと共に、泉に囁くように言った。
「はんたーいっ!!」強が叫ぶ。
「絶対反対!大体、何で、泉がそんなことやんなきゃならないんだよ」
自分を睨みつける強をチラリと見て、沢木はすまして言った。
「羽根邑泉君が、今年入寮した一年生の中で、成績トップだからだ」
「成績と何の関係がある」
「あるだろう。たとえば強君、君は数学が全然だから会計は任せられない。国語も全然だから、案内文書の作成もできない。英語も全然だから、留学生の……」
「もういいっ」
強は顔を赤くして大激怒。沢木は笑って
「まあ、力仕事が必要な時は是非お願いするよ」
「なーんーだーとーお」
「やめてツヨくん」
泉が強の腕にしがみつく。
沢木も強も泉を見る。
泉は赤くなりながら、沢木と強の顔を交互に見て言った。
「やります。僕」

「本当に?」
沢木が、満面の笑みを浮かべる。強は愕然として一瞬固まりかけたが、すぐに自分を取り戻して叫んだ。
「ダメだっ。泉」
「ツヨくん」
泉が、困った顔で強を見る。強は泉の肩に手をかけた。
「何で、そんなの引き受けるんだよ」
「だって、せっかく寮に入ったんだし……」
「駄目。泉にそんな仕事できるか。絶対やらせない」
「ツヨくん……」
強に断言されて、すぐに泉の目に涙が盛り上がってきた。
「できないって……」
うっくと息を詰まらせて。
「僕じゃ……できない?」
「いっ」
しくしくとうつむいて泣き始めた泉に、強は激しく焦った。
泣いてる泉は全然珍しくないが、自分が泣かせたことは、もうずっと無かったのだ。
「泉君」
強を押しのけ、沢木が泉の肩を抱く。
同時に右手を後ろの春日に向かって伸ばすと、春日はさっとアイロンのきいた綺麗なハンカチを自分のポケットから出して、その手に握らせた。
百万石学園生徒会の名コンビ、さすがのあうんの呼吸。
そのハンカチでそっと泉の涙を拭って、沢木は優しいバリトンで語りかける。
「大丈夫。君ならできるよ。俺もついているし……実際、大した仕事じゃないし」
(大した仕事じゃないなら、俺でもできるだろー)
強は内心叫んだが、泉を泣かせたショックで声が出ない。
泉は、大きくしゃくりあげて、強を見て言った。
「ツヨくん……僕、やりたい……だめ?」
涙を零しながら訴える泉に、強がかなうわけが無かった。

寮に戻ってからも、強は不機嫌だった。
自分の意見を無視して寮長補佐を引き受けた泉にも腹が立つが、そのことで泉を泣かせてしまった自分にはもっと腹が立つ。
むっつり黙って、自分のベッドにごろりと横になる。
壁のほうを向いて寝ていたら、後ろから急に温かい気配がした。
「ツヨくん、怒ってる?」
泉が、強の背中にそっと手をかける。
強は、黙ったまま。
「ごめんね」
背中に手をあてたまま、泉が謝る。
強は、ぎゅっと目をつぶった。背中に当たる手の暖かさが気持ちよくて、それが泉の手だと思うと、少しだけぞくっとして、そしてたまらなく切なくなった。
「ツヨくん……」
泉の声が潤んでいるのがわかった。
強はたまらなくなって身を起こすと、振り返りざま泉を抱きしめる。
「ツヨくん?」
びっくりした泉の涙が止まる。
「どうしたの?ツヨくん」
泉は強の背中に手を廻して、抱きしめ返しながら尋ねる。
強は黙って首を振る。
「ツヨくん、僕が寮長補佐になったの、嫌だった?」
泉の問いかけに、強は小さくうなずいた。
「ツヨくん……」
泉は強を抱きしめてじっとしたまましばらく考えていた。
「わかった」
「え?」
強が顔を上げると、泉は潤んだ瞳でにっこり微笑んだ。
「ごめんね、僕、ツヨくんのこと何も考えないで」
「泉……」
「僕、間違ってた」
「泉っ」
強の顔が、ぱあっと明るく輝いた。
(俺の気持ち、わかってくれたんだ)
「いまから、沢木先輩のところに行こう」
泉が立ち上がって、強の手を取る。
「あ、ああっ」

寮長、沢木の部屋をノックすると、運良く住人は居たらしく、直ぐにドアが開いた。
「はい…あっ」
泉の顔を見て、沢木が一瞬瞳を見開いた。
「沢木先輩」
いつも強の陰に隠れている泉だが、これは自分が言わなくてはいけない。泉は沢木を見上げて、頬を染めながら勇気を振り絞って言う。
「寮長補佐の件ですけれど」
(頑張れ泉っ、しっかり断れっ)
泉の後ろで、強が拳を握る。
「強も、やりたいんです。一緒にやらせてくださいっ」
「え?」
沢木は驚いた。
が、強はもっと驚いていた。
(ち――ーが―――う――――)

「一緒に、って……」
沢木は眉をひそめて強を見た。
強は否定しようとしたが、次の瞬間閃いた。
(こいつと二人っきりにするよりは!)
泉が、涙をためて沢木にすがるような口調で言う。
「お願いします」
その顔に抵抗できる人間を、強は今だかつて知らない。
案の定、沢木は頷くこととなった。
「よかったね。ツヨくん」
泉がにこっと笑う。
ぱああああ……っ
あたりに花びらが舞ったような、優しげな華やかな空気。
思わず沢木と強もつられてにっこり笑い、次の瞬間お互いに気づいて、ムッとした。

* * *
「じゃ、これを後でコピーして、みんなのメールボックスに入れておいて」
「はい」
沢木の部屋で泉は寮の名簿作りを手伝っている。
単なる住所録やクラス名簿の類ではなく、プロフィールまで書いてもらったものをまとめて冊子するというもので、今は原稿用のシートを作っただけだ。
「この後、これを全員から回収するのが毎年大変なんだ」
「そうなんですか」
「でも、泉君に頼まれたら、みんな直ぐに出すだろうね」
沢木が泉を見てニコッと笑う。
「そんな」
泉が頬を染める。
「俺を無視してんじゃねえよ」
強がムッとして二人の間に入る。
「あ、いたの?」
「ずっといるだろうが、さっきから」
「そうだったな」
沢木が大げさに溜息をつく。
沢木としては、泉を寮長補佐に任命してこういう作業を二人っきりでするうちに色々としっぽり……と親父臭いことを計画していたのだが、こうるさい保護者同伴ではどうにも手が出せない。
それでも、せっかくの泉と一緒のこの時間を堪能しようと、浸っていたのだが……
「おじゃま虫だな」
かっこ死語といった言葉を呟く。
「聞こえてんだよ」
強は、不機嫌そうに眉間にしわをよせると唇を突き出した。
「同じパーツとは思えねえほど可愛くないな」
沢木がしげしげと強の顔を見る。
「内面は顔に表れるってことか。俺も気をつけなきゃな」
ふっと苦笑して自分の頬をさする沢木に、強が拳を振り上げる。
「てめえぇー」
「二人とも……」
泉がそんな様子を見て呟いた。
「仲良い……」


「いいな、ツヨくんは、沢木先輩と普通に話せて」
その日の夜、寝る前。自分のベッドに腰掛けた泉がぽつりと言った。
「はあ?」
シャワーを浴びて来たところで濡れ髪をガシガシとタオルで拭いていた強は、突然の泉の発言にびっくり。
「沢木と…って、お前だってしゃべってるだろ」
むしろあいつはお前にしか話し掛けてないぞ、とその日の沢木の言動を思い出しながらムッとすると、泉は自分に対して怒ったのだと勘違いし、小さい声で謝った。
「ごめん。そういうんじゃないの」
またもやうるうるしそうな兄に、慌てて強はタオルを投げ捨てて駆け寄る。
「いや、俺だってそういう意味じゃない」
(何が嬉しくて、沢木を挟んで兄弟喧嘩しないといけないんだ)
そして、ふと嫌な予感に襲われて、真面目な顔になって言った。
「泉、お前、まさか……沢木のこと、好きとか言わないよな」
とたんに泉の顔が真っ赤に染まる。
(げげっ!)
強は激しく動揺。
「い、ずみ……」
泉はうつむくと恥ずかしそうに身をすくませて、傍らにあったタオルケットを引き寄せる。
「わからないけど……」
タオルケットで頬を包んで、ベッドの上で膝を抱えて泉が呟く。
「沢木先輩のこと考えるとドキドキする……」
(ひいっ!)
強は心中叫んだ。
予感は当たった。あの日二人が出会ったときから、嫌な予感がしていたのだ。
「何で……」
強は声を震わせる。
「どこがいいんだ、あんなやつ」
「え?」
泉は赤い顔を半分タオルケットで隠しながら、ほんの少し上目遣いに強を見上げる。
その表情が強には、気を失いたくなるほど艶めかしく見えた。
「どこって……」
泉は困ったように呟くと、小首をかしげて言った。
「顔……かなぁ」
泉は面食いだった。


「顔かあ」
泉の告白に眠れない強は、夜中洗面所の鏡を見て呟いた。
沢木の顔は、男らしい。くっきりした眉もその下の切れ長の目も、すっきりと高い鼻梁も、自信家らしく端を吊り上げて笑う唇も。
それに比べて自分の顔は、色素の薄い髪と眉、大きい目も小さめの鼻も、女の子のような唇も……
(泉に似てる……)
双子だからあたりまえだか、洗面所の鏡に頬をスリスリ擦り付ける強はちょっとあぶないかもしれない。
(いずみぃ)
弟強が報われない愛に悶々としているその時、兄泉はすやすやと夢の中にいた。





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