「泉、どうしちゃったんだよ。涙腺壊れたのか?」 放課後。飯田利一が松組の教室に来て、心配そうに強に囁く。 一昨日、突然復活した泉の涙は、今度は止まらなくなっている。 うつむいて静かに涙を零し続ける泉の横顔を見て、強は決意した。 「俺たち、親父たちのところに行くわ」 「ええ?!」 * * * 「泉が、こんどは涙が止まらなくなっているって」 「そう、らしいな」 「敦、あの時、保健室って……会いに行ったんだろ?話できなかったのか」 「怯えられて……近づけなかった」 「…………」 沢木の言葉に、春日は眉根を寄せた。 今回の、泉の涙が止まらない理由。沢木が関係していないわけがない。普段と違う沢木の様子にも、じれったい苛立ちを感じる。 「お前らしくない」 不機嫌そうに言うと、沢木は自嘲ぎみの笑いを洩らした。 「わかってる。俺らしくない」 春日は溜息をついて言った。 「でも、本気で人を好きになるっていうのは、そういう『らしくなくなる』ってことなんだろうな。羨ましいよ」 「そうか?代ってやりたいよ」 沢木と春日が寮に入ると、一年のフロアで誰かが騒いでいた。 「ダメだよ。飯田君」 「よこせっ、借りるだけだ」 「こんなの貸せないよ」 「お前しかいないんだよ。田村っ」 一年の寮生田村と、寮生ではない飯田利一が何かを取り合っている。 「どうした?何の騒ぎだ」 春日が近づくと、田村は泣きそうな声で訴えた。 「飯田君が、僕にパスポート貸せって言うんです」 「は?」 「だって、おれと顔や背格好が似ていて、しかもパスポート持っている奴なんて田村しかいないんだよ」 利一は切羽詰った顔で訴える。 「パスポート……他人のを使ったら犯罪だぞ。自分で申請したらいいだろう」 春日が呆れて言うと、利一は叫んだ。 「それじゃ、間に合わねえんだよ。泉たちはあさってアメリカに行っちまうんだからっ!」 それまで黙って成り行きを眺めていた沢木が、凍りついたようになった。 「アメリカ?」 呟く沢木に、利一は初めて気がついたように目をやると、睨みつけて言った。 「そうだよ。泉がおかしいから、二人で両親のいる所に行くって決めたんだよ。お前のせいじゃねえのかっ」 「俺の……」 沢木が顔を歪める。 春日はその沢木の肩に軽く手を掛けると、冷たい目で利一を見つめて言った。 「仮にそうだとして、君に何を言う権利があるんだ?寮の中で騒がれるのは迷惑だ。帰りたまえ」 利一は、悔しそうに春日を睨みつけたが 「ちくしょうっ」 大声で叫んで、その場から走り去った。 後に残った田村がペコペコ礼を言うのを、軽くあしらいながら、春日は沢木の顔を見た。 男らしく端整な顔が、青褪めている。 自信家で、傲慢で、独善的な、そんな沢木が好きだったが、今ここにいる男は以前の沢木ではなくなっている。改めてそう思った。 (けれど、こんな敦も、悪くない) 泉がアメリカに行ってしまうと聞いて動揺を隠さないその姿に、春日はむしろ愛しい気持ちさえ感じつつあった。 * * * 涙を零しながら荷物を詰める泉の姿に、強は胸が痛んだ。 「向こうに何でもあるらしいから、そんなに色々持っていくことないぞ」 「うん」 突然、アメリカに行くといったとき、泉は瞳を見開いて、何か諦めたように頷いた。 両親はひどく驚いていたが、泉の様子がおかしいことを匂わせたら、学校のことは後で何とでもするから、直ぐに来いと言った。 強は、泉を沢木のいないところに連れて行きたかった。 沢木のことを忘れられるところに。 成田空港に着くと、強と泉は、真っ直ぐ国際線の出国ロビーに向かった。 世間では、気の早い人たちが夏休みをとり始めていて、海外に旅行するカップルや、家族連れで賑わっている。 泉は、まだ静かに泣いていた。 「親父たち二人とも、空港まで迎えにきてくれるって」 「うん」 「そろそろ、泣き止めよ。あっち着いたとき、心配されるぞ」 「うん」 「ま、飛行機の中は乾燥しているっていうから、ちょうどいいかもな」 「うん」 「機内食、うまくねえって話だから、何か買って……」 と、言いかけた強の言葉が途切れる。 黙って立ち止まる。 泉は気づかずに歩きつづけて、正面に立つ人にぶつかりそうになって顔を上げた。 「あ、ごめんなさ……」 そして、泉の言葉も途中で飲み込まれた。 「泉」 泣きそうな顔の沢木が立っていた。 「せん、ぱ、い?」 泉が信じられないものを見るように、ぼんやりと呟く。 「泉、行くな」 沢木が泉を抱きしめた。 泉は、人形のようにだらりと手を下ろしたまま呆然と宙を見つめている。 信じられない。 今ここに沢木がいることが。 そして自分を抱きしめていることが。 いつか見た夢の続きのような気がして、現実感なく、抱きしめられたまま呆然としている。 沢木がもう一度繰り返す。 「泉、行くな」 「先輩」 泉はゆるゆると顔を上げて、沢木の顔を見た。 真剣な瞳が、じっと見返す。その真摯な光に目を覚まされたように、泉の意識がはっきりしてきた。 とたんに、自分を抱く腕の力強さと、抱き合った胸の温かさに陶然とした気持ちになる。 「先輩」 沢木の広い背中に腕を廻して、泉は顔をぎゅっと押し付けた。 沢木は、泉を胸に包み込んだまま、耳元に口づけて囁く。 「俺に、もう一度だけチャンスをくれないか」 「先輩」 「あの日の約束を、守らせてほしい」 「せん……」 「泉を、幸せにする」 「う…ふっ…う……」 沢木の胸に顔を埋めて泣く泉を見ながら、強も泣いていた。 黙って、唇を噛んで、拳を握りしめて。 ふいに、その肩に腕が廻された。 春日が強の隣に立って、恋人同士の抱擁を眺めている。 「いいシーンじゃないか」 からかうように言う口調に、強は拳で涙を拭って、吐き捨てるように言った。 「馬鹿野郎っ」 「そうだよな。あんな馬鹿に泉をとられるとあっちゃ、お前の気持ちも治まらんだろう」 沢木を見つめたまま、春日が微笑む。 「でも、馬鹿なりに、気づいたんだから許してやってよ」 「俺は、お前に言ったんだ」 「え?何で俺?」 「何ででも。お前も、沢木も、泉も……みんなみんな馬鹿だ」 そう言って、強はまた泣いた。 (兄貴相手に二回も失恋している俺は、もっともっと大馬鹿だっ) 春日が、強をそっと抱き寄せた。 強の肩が一瞬ぴくっと震える。 「お兄ちゃんだけじゃ可哀想だから、弟くんにも胸を貸してあげよう」 「いらねえよ。ばかやろ」 そう言いつつも、強は春日の胸の中で泣いた。 * * * 泉がアメリカに行って、帰ってこない。 そう聞いたとき、沢木の心は決まった。どうせ、二度と会えないのなら、もう一度だけ許しを請いたい。駄目で元々だ。再び泉の瞳に怯えや嫌悪の色を見るのは辛いが、このまま会えなくなることを考えたら……。 「そんなに、深刻に考える必要は無いんじゃないかな」 春日が微笑む。 「俺の勘では、上手くいくよ」 春日は思った。泉の涙が涸れたり、次には止まらなくなったり。これが、沢木のせいじゃなくてなんだというのだ。沢木も泉も鈍いにも程がある。 (お互い、むちゃくちゃ好き合ってるんだよ) 「で、何でお前も一緒に来ているんだ」 自分の隣で成田エクスプレスのシートに座っている春日を、沢木は不思議そうに見た。 「百万が一、俺の勘が外れて敦がふられたときに、慰めてやるのさ」 「ありがたいな」 そして、沢木は今、泉を抱きしめている。 通りがかりの旅行客が、皆、振り返って見る。映画のワンシーンのような光景に、見惚れている女性もいた。撮影用カメラを探す人も。 そして、春日は、自分達にも視線が集まっている事に気づいた。 他人の目を気にする春日ではないが、これから海外に行く脳天気な旅行客の機内の話題を提供する必要も無い。 「強、歩けるだろ?」 自分の胸の中で、歯をくいしばって泣いている強に声を掛けて、椅子を探した。 それにしても双子の兄弟でありながら、泣く姿もなんと対照的であることか。 椅子を見つけた後、春日は自動販売機でカフェオレを買って、強にカップを握らせた。 強はゴクンと飲んで、その勢いで鼻をすすった。 「鼻、かめよ。鼻水と一緒に飲んでも、美味くないだろ」 「いいんだよっ」 強がやけになってズーズー鼻をすするのを見ながら、そういえば泉はあれだけ泣いても鼻水が出ないな、それも美少年の特殊体質なんだな、などと春日は考えた。 (でも俺は、こっちのほうが、可愛いな) 懸命に嗚咽を堪えて鼻をすすっている強を見て、春日は目を細めた。 「強、ふられた者同士、付き合わないか?」 隣に座って微笑みかける。 「な、何言ってんだ。馬鹿か、お前」 強はびっくりして、そして涙目のまま睨みつけた。 「いいじゃないか、AとBまでは経験した仲だし」 「ふ、ふざけんなっ。あれは……あれは、お前がっ」 強が真っ赤な顔をして怒鳴る。 春日はクスクス笑って、強の頭を抱き寄せようとして、直後みぞおちに強烈なパンチを喰らって身体を折り曲げた。 「おまえね……」 綺麗な顔を苦しげに顰めて、春日が強を睨みつける。 「よく考えたら、その時の礼をしてなかったんだよっ」 涙のひいた強が、不敵に睨み返して唸る。 ふっと春日はふき出した。 (これくらいじゃじゃ馬のほうがいい) 「アメリカ行くの、やめるんだよな」 春日が尋ねると、強はきょとんとして、不思議そうに応えた。 「なんで?チケットも取ってるんだぞ」 「や、何で、って……泉もああなったことだし、敦と引き離すのも……」 春日が『らしくなく』うろたえる。 「でも、親父たちが待ってるんだし、顔見せに行くよ。どうせ、夏休み帰るのを早めただけだし」 「え?」 春日は、自分達が思い違いをしていることに気がついた。 「アメリカって、夏休みだから行くのか」 「は?どういう意味だ?」 「いや、だから、両親のもとに行くっていうのは、ずっとじゃなくて、休み中だけ?」 「当たり前だろ。そんなに休んだら、卒業できねえじゃねえか」 唇を尖らす強を見つめて、春日は大きくふき出すと笑い出した。 突然大笑いする春日に、強は目を丸くする。 「なんだよ」 「いや」 「気持ち悪いじゃねえか。何なんだよ」 「ちょっと、だまされたと思って」 「何がだよ」 「ごめ、くるしい、待って」 身体を折り曲げて笑う春日を見て、強は思った。 (こいつ、こんな大笑いとかする奴だったっけ?) 春日が笑い転げて、強が憮然としているその場所に、沢木と泉がやって来た。 泉の瞳からは涙が消えて、頬を染めて微笑んでいる。 強はその顔を見て、やっぱり泉は笑っているほうがいいとしみじみ思った。 (この笑顔が沢木のおかげなら、やっぱり俺の負けだ) 泉の肩を抱く沢木に向かって、強は右手の拳を振るった。 パシンと小気味良い音がして、沢木の左手のひらが、それを受ける。 「もう、泉を泣かすんじゃねえぞ」 「ああ」 沢木が神妙な顔でうなずく。 「ツヨくん……」 泉の瞳が潤む。 「お前が泣かしてどうすんだ」 春日が強の頭をコツンとぶった。 * * * 「え?お前も行くって。アメリカ?」 強が素っ頓狂な声を出す。 「ああ、今チケット取ってきた」 「うそだろお」 目を剥いて驚く強に、沢木は平然と 「泉のご両親に挨拶したいんだ」 「敦先輩」 泉が頬を上気させて、沢木を見上げる。 「だから、ヤチ、学校あさってまで休むって伝えておいてくれ」 「あさって?」 沢木の言葉に、春日も訝しげに眉を寄せる。 「って、まさか日帰り?」 「ああ。行って着いたその日の便で帰ってくる」 「…………」 さすがの春日も言葉が出なかった。 「いい、けど、さ」 強は呆れたが、泉の幸せそうな顔を見て、口許が緩む。 (親父たちに挨拶するためだけに、アメリカまで日帰り……) 「やっぱり、馬鹿だな。お前」 「馬鹿でいいさ」 沢木は笑った。その顔は、強でも一瞬ドキッとするほど優しく穏やかで、魅力的だった。 そして、ロサンゼルスまでの十時間あまり。沢木、泉と並んで座席を取ってしまった強は、自分自身を大馬鹿だと後悔することになった。 * * * 双子を迎えに早朝から空港に来ていた羽根邑広、由美子夫妻は驚いた。 何故、双子と一緒に知らない高校生がいるのか。 そして、泉は話に聞いていた様子と違って、えらく幸せそうだ。 「ええと、君は……?」 父親、広が、狐につままれたような顔で尋ねると、沢木はこれ以上ない礼儀正しい挨拶で応えた。 「その、寮長さんが、なんでうちの子と一緒に……」 母、由美子が沢木の男らしい外見に少しばかりぽうっとしながら尋ねると、沢木は臆せず言った。 「お父さんと、お母さんに、ご挨拶させていただくために参りました」 「はぁ」 「泉さんと、お付き合いさせてください」 「………………………………………………………………」 「………………………………………………………………」 広と由美子はたっぷり三分固まった。 沢木と泉もじっと黙って、立っている。 沈黙を破ったのは、強だった。 「何とか言ってやれよ。親父」 「はっ」 広が、意識を取り戻した。 「うちの泉は…………男の子だよ」 「知っています」 沢木の即答に、再び羽根邑夫妻は固まった。 「いいじゃねぇか。親父たちだって、泣き虫泉が普通に結婚して、子供生まれて、親父になる、って想像つかないだろ?」 強が言う。 「こっちの方が、自然だって」 見ると、泉は緊張のあまり涙をいっぱいに溜めて、沢木のジャケットを握りしめている。けれど、その寄り添う様子は、確かに自然で似合っていた。 「いや、あ、その」 動揺し、うろたえる父、広。 母親、由美子が、静かに尋ねた。 「泉も、沢木さんのことが好きなのね?」 泉は、頬を染めてこっくり頷いた。はずみで、涙の粒がぽろぽろと地面に落ちる。 「じゃあ、私たちに反対する理由は何も無いわね」 にっこり笑う母。 父親は、まだ複雑な顔をしていたが、強にせっつかれて頷いた。 「ありがとうございます。必ず、泉さんを幸せにします」 沢木は真顔で頭を下げて、聞かされた三人のほうが赤面した。 「じゃあ、次の便で帰ります」 そう言った沢木に、またもや羽根邑夫妻が目を剥いて驚く。 「帰るって、今着いたばかりだろう?!君」 「そうよ、あなた、ここまで来て!せっかくだから、うちに……」 沢木は、ニッコリ笑って晴れやかに言った。 「いえ、目的はかないましたから」 そして、泉を見つめてこれ以上なく優しい声で言った。 「先に、帰ってるから」 「はい」 「できれば……早く戻ってきてほしい」 「敦先輩……」 見つめ合う二人に、強は嫌な予感がした。 そして、的中。 ロスアンゼルス空港入国ロビーのど真ん中で、二人は思いっきり濃厚な口づけを交わした。 * * * 夏休みの終わる一週間前に、泉と強は寮に戻ってきた。 寮の玄関に立つ沢木の姿に、泉が荷物を放り投げて駆け出す。 沢木の胸に飛び込んで、懐かしい顔を見上げると、ぽろぽろと可憐な涙を流す。 「おかえり、泉」 「敦先輩……」 「泉……」 恋人同士の熱い抱擁を横目で見ながら、強は大袈裟に溜息をつくと、泉の荷物を拾い上げて、自分の荷物と一緒に持った。 「おみぃ(重い)よ、ったく」 小さく文句を言うと、後ろから手が伸びて荷物が急に軽くなる。振り返ると 「春日」 「おかえり」 「何だよ。夏休みなのに帰らなかったのか?」 「いや、帰省して、昨日、戻ってきたんだ」 「ふうん」 「何でか聞かないのか?」 「何でって、理由があるのか?」 春日はクスクスと笑いながら、強の荷物を運ぶ。 「何だよ。言いかけてやめんなよ」 強が唇を尖らす。 「強、焼けたな」 春日が微笑みながら、話題を変えた。 「あ?ああ。暑かったから、あっち。ずっと裸でいたから、結構真っ黒だぜ」 少し得意げな強。 「へえ……」 春日の目がきらりと光ったが、強にはわからなかった。 「泉は、焼けると赤くなるから焼かなかったんだけどな。双子なのに、こういうとこ違うんだよな。不思議だよな」 無邪気にしゃべる強を見ながら、春日は目を細めていった。 「俺は、色白より黒いくらいの方がいいな」 「ああ?」 部屋のドアを開けながら、強は春日をちらっと見上げて言った。 「でも、お前、白いじゃん」 「そうでもないよ」 「そうかなあ」 「見てみる?」 「は?」 荷物を持った春日は、自然に部屋の中に入ってきている。 強は、突然、アメリカに発つ日の成田空港での会話を思い出した。 「お前っ、今、何かいやらしいこと考えたろっ」 「いやらしいことって?」 春日が、眉を上げて面白そうに尋ねた。 「い、いやらしいことってのは……それは……」 強が赤い顔で上目遣いに春日を睨む。春日はその綺麗な顔を嬉しそうに笑み崩した。 「なあ、強。どうして、俺が夏休みの終わる一週間も前に、ここに戻ってきたのか教えてやろうか」 「いいっ。教えなくていいっ」 「そう言わずに」 「いいって、言ってんだろっ」 百万石学園高等部に、もう一組の名物カップルが生まれるのは、もう少し先の話となる。 終 |
《あとがき》
ここまで長々お付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。
もとはといえば、日刊でちょびちょびアップしていた話で、しかも媚びへつらい易い私(?)は友人の趣味にへつらいつつ話を進めていったため、気がつくとお笑いだか切ないんだか、よくわからない代物になってしまいました。
けれど、当初全く考えていなかった春日×強が生まれてしまったのは、BL大人買いの大家マナちゃんと鬼畜の女王れなちゃんの(どっちの表現も嫌だろうな.笑)のおかげです。どうもありがとう。
番外編で、何故、春日が強に転んでしまったかと言うお話を書きますね。
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