《泉編》



「泉、早くしないと遅れるぞ」
「待って、ツヨくん。靴が……」
羽根邑強(はねむらつよし)が、振り向いてみると、双子の兄、泉(いずみ)は、玄関先で新しいバスケットシューズに足を入れ、紐を通そうとしていた。
「なんだよ、泉、普通紐を通してから履くもんだろ」
「あ、そうか」
モタモタと靴を脱ごうとする兄のところに駆け戻り、強はその足元に跪いて、靴紐を奪うと、ちゃっちゃと靴の穴に通し始めた。
「あ…」
「いいから、じっとしてろ」
「うん」
そこに、二人の幼馴染でお隣さんの飯田利一(いいだとしかず)が、やって来る。
「なんだ、何しているんだ?もう行かないと、遅れるぞ」
「わかってるよ」
「ごめんね」
強のやっている事に気づいた利一は、自分も横にしゃがんで泉の靴紐を通し始めた。
「お前がやる必要ねえよ」
「二人でやったほうが早いだろ」
「ごめんね」
二人を足元に跪かせて、涙ぐむ泉。強は、キッと顔を上げて言った。
「今から泣いてんじゃねえぞ……たのむから」
利一がぽそりと呟く。
「まあ、今日はどうせ死ぬほど泣くことになるだろうからな」
泉、強、利一の三人は中高一貫教育の男子校、私立百万石学園に通う中学三年生、いや正しくは今日まで中学三年生。今日は百万石学園中等部の卒業式だった。

仰げば尊し、わが師の恩。
卒業式お約束の歌の流れる中、卒業生の並んだ列のある一角が、異様な雰囲気を漂わせていた。
「ひっく、うっく……うっ、うっ…ひっく…ひっく…ううう……うっく……」
大きな目から大量の涙をぼろぼろと流し続ける羽根邑泉。
隣で強がハンカチでその顔を拭っている。
そんな二人を、周りの男子生徒たちがある種の熱い瞳で見つめている。
強はたまに周囲に睨みをきかせるが、泉に注がれる視線は止まない。羽根邑泉は、もって生まれたその容姿と、ある特異な事情で、百万石学園中等部のアイドルだった。
特異な事情、それは、簡単に言うと彼はむちゃくちゃ涙腺が弱かったのだ。
どれくらい弱いかというと、ボブ・サップの前の幼稚園児(とかいう変な例えじゃわからないか)一例をあげると子猫が自分の前を横切っただけで、その可愛らしさに涙ぐむのだ。
普段の生活で、話をしている途中、ぽろぽろと涙を零すのは日常茶飯事。
その顔は、見るもの全ての心臓鷲づかみ。あまりにも、保護欲をかきたてるので、ついたあだ名が、百万石の《泣かれたい男NO.1》

「羽根邑君」
「羽根邑先輩」
「泉先輩」
卒業証書を手に、花のアーチをくぐって校庭に出てきた羽根邑兄弟を、卒業生、在校生がこぞって取り囲む。
「これ、卒業祝いです。受け取ってください」
泉に手渡される、沢山の包み。
(またハンカチだな)
強は内心舌を打つ。
(たまには、違うものを考えろ)
在校中、泣き続けた泉の元には誕生日、クリスマスと、ことあるごとにハンカチ、タオルがプレゼントされ、全部つなぐと、富士山の約三倍。
(……やってみた事はないけどな)
「みんな、どうも、ありがとう」
そう言いながら、泉はまだぽろぽろと涙を流して、長い睫毛を震わせている。
そんなに泣き続けても、目が腫れないというのも特異体質だった。
「ほら、もう行くぞ」
泉の肩に手を廻して促がす強に、咎めるような視線が集まる。
兄と正反対の性格を持つ弟は、同じ顔のパーツを持っていながら、目つき鋭く、かなり喧嘩っ早い性格もありどちらかというと恐れられている。
「どうせ、来月もここに来るんだから、そんなに感傷的になることないんだよ」
四月からは同じ敷地の百万石学園の高等部に通うだけだ。



* * *

その日の羽根邑家の夕食。商社マンの父親はいつものように帰りが遅いはずなので、親子三人で食卓を囲んでいる。さすがに今日は卒業の日、料理上手の母親が腕によりをかけたご馳走が並んでいる。
「もう、泉がずっと泣いているから、お母さん恥ずかしかったわ」
半分笑いながら、母親の由美子が言う。
「恥ずかしかった?ごめんなさい」
またも、涙ぐみかけた泉に、由美子は慌てて手を振る。
「あら、そんな意味じゃないのよ」
(じゃ、どんな意味だよ)
強は内心突っ込みながら、母親に向かって言った。
「十五年間そうなんだから、いいかげん慣れろよ」
「そうよね」
母親はもう一人の息子にむかってうなずきながら、その十五年を振り返る。
生まれてきたときは、泉のほうが元気で力強く泣いていた。
(強に言わせれば『泉は生まれたときから泣き虫だっただけ』だそうだが)
強のほうがぐったりしていて大人しかったので、強く育てとつけた名前が強だ。その名の通り、強は大変力強い少年に育った。その兄は、女の子よりもかよわい。
お勉強は泉が得意で、強が不得意。
運動に関してはその逆だ。
どうして足して二で割った性格になってくれなかったんだろうと、母、由美子は胸中深く溜息をついた。

そこに、羽根邑家の大黒柱が帰ってきた。息子達の卒業の日なのでいつもより早く帰ってきたのかと思うと、さにあらず。
「由美子、大変だ」
「あら、広さんどうしたの」
「内示が出て、四月からアメリカに行く事になった」
「えっ?!」
叫んだのは、三人同時だった。

「アメリカって、あのアメリカ?」
強が素っ頓狂な声を出す。
「あのアメリカって、どのアメリカだ」
父親、広が聞き返す。
「あのも、どのも、アメリカはアメリカでしょ、海外出張なんて」
「出張じゃない。転勤だよ」
「そう、転勤。一体どれくらい行くことになるの?」
「たぶん、二、三年は……」
「二、三年?!」
それまで黙っていた泉が、驚いて裏返った声を出す。
はっと強が振り向くと、案の定、大きな瞳からぽろぽろ涙が溢れ出している。
「そんな、そんなに長い間、海外で暮らすの?」
「いや、お前達は……」
見慣れている息子の泣き顔に、いつもながら動揺する父親。
「冗談!俺は嫌だぜ、アメリカなんて行ったって、英語しゃべれねぇし、友達もいねえし」
強が叫ぶ。
「そうね、強は英語全然だし。中途半端に帰国子女なんかになっちゃったら、日本の大学どこも入れないわねぇ」
母親の厳しいお言葉。
「くすん、くすん」
泉はただ泣いている。
「ちょっと待て、行くとしたら、いや行くんだが、私と母さんだけだ」
父親の言葉に強の目は点になり、泉は大きくしゃくりあげた。



* * *

「え?寮に入るのか?!」
利一が驚いて、食べかけていた肉まんを落とす。
「あ、落ちたよ、リイチ君」
ちなみに利一のあだ名はリイチだった。
「最後の肉まんだったのに、もったいねえな。もう季節的に肉まんも終わりだよな」
意外とあっけらかんとしている二人に、利一は詰め寄る。
「何、暢気なこと言ってんだよ。お前ら、この家からいなくなるってことだろ」
利一の家と泉、強の家は隣同士。今日も春休みを楽しく遊ぶ計画を立てるために、利一がコンビニで買った肉まんやジュースを持って庭から入ってきていた。
「うん、一応三年間だけっていう限定で、リハウスするらしいよ」
「俺たち二人じゃ広すぎるし、家を貸した金で寮費払えるしな。それに寮だとメシ付きだし」
「そんな」
飯田利一、ご多分に漏れず密かに泉のことが好き。幼馴染という特権を余すことなく利用して、常に登下校から休みの日まで羽根邑兄弟と行動を共にしていた。
その兄弟が、というか泉が、寮に入ってしまったら今までのようにちょくちょく会うこともできない。
「そ、そうだ。お前らうちに来いよ」
利一が自分の思いつきに目を輝かす。
「俺たち、兄弟みたいなもんじゃねえか。お袋に言ったら、絶対うちに来いって言うと思うぞ。そうだよ、そうしろよ」
泉と一つ屋根の下。これは目眩がするほどおいしいシチュエーションだ。利一は拳を握りしめて訴えた。
「リイチ君……」
利一の下心など知る由も無い泉は、感動してまた瞳を潤ませる。
「僕達のこと、そんなに心配してくれて……」
すぐにほろほろと涙を零す泉をチラリとみた強は、冷たく利一に言った。
「悪いが、リイチ。もう決まってんだよ」
泉と違って、強は幼馴染の下心はお見通し。一緒に暮らすなどということになったら自分の目の届かない隙に何が起きるかわからない。
それでなくとも、毎日、兄のまわりのハエを追うのに忙しいのだ。リスクは最小限にとどめておきたい。
「ごめんね。僕もこの家を出るの、寂しいんだよ」
泉が涙を含んだ睫毛を震わせて利一を見つめる。ほんのり紅く染まった頬の上を、硝子玉のような涙がキラキラと転がっていく。
利一は、手の内から逃そうとしている魚の大きさに、再び目眩がした。



* * *

本来宿題もなくのんびり過ごせるはずの春休みが、今年は羽根邑兄弟にとって地獄の忙しさだった。
しばらく日本には戻れないというので、家族で北海道の祖父母の家に挨拶に行き、そこから帰ってきてからは引越しの準備、不用品処分、自分達の入寮の手続き、その他もろもろ。
アメリカに発つ両親を成田で見送った後は、二人ともぐったりしていた。
ぐったりしていてもひたすら涙は溢れ続ける泉。その肩を抱いて、強は心に誓った。
(この日本に、泉を守るのは、もう俺しかいない。俺が泉を守る)
羽根邑強もまた、泉に密かに恋する男だった。


「荷物片付いたら、先にシャワー使えよ」
「うん」
春休みの終わる二日前の夕方に入寮した二人は、夜になってようやく片付け終わった。
私立百万石学園の寮は、学校の敷地の中にあって、マンション並の設備が整っていた。二人部屋でおよそ20u。小さいがユニットバスもついている。今までの家に比べたら当然狭いが、強にとってはむしろ嬉しい距離感だ。
双子といっても、中学に入る頃には別々の部屋を与えられていた。二人で一緒の部屋というのは、くすぐったくて、なんだか気持ちが昂揚する。
「俺、ちょっと食べるもん買ってくるから」
春休み中は、寮のご飯もお休みだった。
「泉、何がいい?」
「ツヨくんと同じものがいい」
(ク―――ッ)
可愛いぜっ!と心の中で叫んで、強は財布を握り締めて飛び出した。

コンビニで弁当や菓子を買って戻ってきたら、シャワーからあがった泉が、ベッドの上でコロンと横になっていた。
「泉?」
呼びかけたが、返事が無い。
「何だ、寝ちまったのか」
コンビニの袋を机に置いて、軽く揺する。
「寝るんなら、ちゃんと布団に入らないと風邪引くぞ」
「う、ん」
泉が、寝返りをうって仰向けになった。
その瞬間、シャワーを浴びたばかりの泉の髪からふわりと石鹸の香がした。
強の心臓がどきっと跳ねる。
目の前に、泉の寝顔。
自分と同じパーツとは思えないほど愛らしい。軽く寝息を立てている薄く開いた唇が、強を誘っている―――ように、強には思えた。
(や、やべえ、まずいって、おい、やめろ)
内心呟きつつも、強の唇は泉のそれに近づく。
もう誰も止められない、って、誰もいないのだが。誘惑に負け負けに負けた強は、そっと泉に口づけた。
唇が触れた瞬間、強の腰に強烈な痺れが走った。
(泉……)
ふと、薄目を開くと、泉と目が合った。
「うわっ」
仰け反る強。
泉は呆然と強を見て、ゆっくり起き上がると小さく呟いた。
「何?」
そして、見る見る頬を染めていき、目を潤ませていく。
強は慌てた。
「ち、ちがう、泉、これは……」
違うも何も無いが、とっさに出た言い訳。
「これは、アメリカの挨拶だ」
「え?」
涙に潤んだ顔で、泉は小首をかしげる。
「だから、ほら、親父達がアメリカに行って、帰ってきたら、我が家はアメリカ式になる訳だ」
「そうなの?」
(そんなわけねえだろ)
心で叫びつつ、たたみ込む。
「だから、今のうちに、アメリカ式に慣れとかないといけないから、俺たちの挨拶はグッドモーニングだ!」
グッドモーニングは朝だろう。と、そんなことは突っ込まず泉はニッコリ笑った。
「なんだ、そうなんだ。僕ちょっと驚いちゃった」
その拍子に、下睫毛の先に溜まっていた涙がぽろっと落ちる。
(泉っ)
抱きしめたい衝動を抑えつつ、強は言った。
「これから、この部屋の中はアメリカだと思って過ごそう」
「わかった」

翌日、強が起きると、既に起きて着替えまで済ませた泉がニコニコ近づいて来た。
「Good Morning」
泉が強の頬にキスした。
「い?」
ギョッとして見る強の前で、泉は花のように微笑んでいる。昨日の夜の会話を思い出して、強は顔に血を上らせた。
「ぐっ、ぐっどもーにんぐ」
緊張しながら、泉の頬に触れるか触れないかのキスをして、強はトイレに駆け込む。それでなくても、朝は何かと過敏に反応するのだ。

「よう、どうだ、引越し片付いたか」
寮生でもないのに、利一が朝っぱらからやって来た。
泉のことが気になって仕方ない。
「あ、リイチ君」
泉は嬉しそうに微笑むと、利一に近づいて
「Good Morning」
chu!
利一が固まった。
それはよくTVで見る液体窒素にひたされた薔薇の花のように、一瞬で固まってしまった。金槌で殴られたら、ぱらぱらと砕けそうだ。
泉はそれを不思議そうに見て、困ったように強を振り返った。
「い、いずみ……」
強の声も、震えている。
「うん」
「やっぱ、アメリカ式、無し」


* * *

「ん……あっ」
「声出せよ」
「い、やだ」
「いいから、ほら」
「んんっ」
「久しぶりなんだから、聞かせろって。ヤチ」
「って……うあっ、ああっ」
「ヤチ」
「敦っ、んっ」
「イケよ、ほら」
「あっ、ああっ、あぁ―――――っ」





「ああ、やっぱ個室はいいな」
事が終わると、沢木敦はベッドサイドの引き出しから煙草をだして火をつけた。
「部屋に匂いが付くからやめとけよ」
その友人の春日八千雄が、傍らで嫌そうに眉をひそめる。
「あとでサワデーでもシャルダンでも撒いとくよ」
軽く笑って、沢木は、美味そうに煙を吐き出す。
春日はわざとらしくその煙を手で払うと
「寮長の部屋がタバコ臭いなんて、噂にでもなったらヨロシクナイよ」
「噂に、って? とりあえず今のところ、お前以外この部屋には入れないぞ。誰が気づいて噂するって言うんだ?」
「寮長ってのは、そういう訳には行かないんだよ。いろいろ相談とか持ち込まれるもんだ」
「そうか? 俺は去年の白石先輩に相談しに行ったことなんかなかったぞ」
「そりゃあ、お前が人に相談するタマか。もっとも人の相談にのるってタマでも無い。何で、寮長なんか立候補したんだ?」
「一人部屋になりたかったから」
「あっそ、俺と離れたかった訳ね」
「馬鹿だな、何言ってんだ。二年続けて同室にはなれないだろ。俺が個室の方がこれからも楽しい性生活がおくれるってもんじゃねえか」
「なるほど、一理ある」
沢木と春日は百万石学園高等部の同級生。二年の時、寮で同室になってから、いわゆる身体の関係ができている。今年の四月から最上級生となる二人は、生徒会でもコンビを組んでいる。高等部では二人ともかなりの有名人だ。
「そういや、敦。311号、例の双子が入ったんだな」
「双子って、あの中等部の?」
「明日から高等部。じゃないと入寮できないだろ」
「あいつらって、自宅じゃなかったか」
「なんでも父親の海外転勤に母親が一緒に行って、二人は学校のこと考えて残ったらしい」
「詳しいな、ヤチ」
「寮中、有名な話だよ。お前こそ、寮長のくせに疎過ぎ」
春日は心底呆れた声を出した。こんなことで寮長など務まるのだろうか。生徒会でもそうだが、沢木はそのすばらしい行動力で周囲を巻き込んで牽引していくが、基本的にゴーイングマイウエイ。傍若無人。天上天下唯我独尊。周りに気を使ったりできるタイプでは無い。
「よし!」
その傍若無人男がいきなり起き上がった。
「これから、顔見に行って来る」
言うなり、床に脱ぎ捨てていたジーンズに脚を通す。春日も慌てて起き上がって
「って、お前、もう十時とっくに過ぎてるんだぞ」
「大丈夫」
「何がだよ」
春日の制止もきかず、シャツを羽織って沢木は部屋を飛び出していった。


《どんどんどん》
ドアを叩く音がする。
(だれだ?こんな時間に)
泉は風呂に入っているから、泉のはずはない。利一はとっくに帰っている。
昨日の夜入寮したばかりで、こんな遅い時間に訊ねてくる親しい友人もまだいない。
訝しげに思いながら強がドアを開けると、そこにはちょっとびっくりするほどの男前が立っていた。
男前――――そう、沢木にはハンサムとか美青年という言葉より、男前という言葉がぴったりだった。
黒く太い眉も、その下の大きめの切れ長の瞳も、よく通った鼻筋と、意志の強さをよく表す、引き締まった唇も、女顔の強にはちょっと厭味なくらいの男前だった。
「だ、だれですか?」
一応、上級生のようだから丁寧語を使ってみる。『どなた』『どちらさま』とまでは言えないところが強だ。
「俺は、ここの寮長の沢木敦だ。お前は見るところ強だな、泉はどうした?」
「何の用ですか」
自分の名も然ることながら、泉を呼び捨てにされて明らかにムッとした表情の強。沢木はそれにも頓着せずに
「だから、寮長として新しく入ってきたお前たちに……」
と、そこまで言ったとき、洗面所に通じるドアがカチャリと開いた。
「だれ?ツヨくん。お客様?」
風呂から上った泉が、湯あがりの上気した肌に薄いパジャマ一枚まとった状態で顔を出した。

A BOY MEETS A BOY

沢木と泉は、しっかりとお互いを見つめ、しばらく動かなかった。いや、動けなかったというのが正しいか。
沢木の喉がゴクリと鳴ったのと、泉の上気している頬に、より赤い朱が散ったのが同時だった。
強が慌てて、泉を隠すように沢木の前に立ちふさがると、その胸をぐいぐい押しながら言った。
「その寮長さんが、どんな用だか知らねえが、俺たちは明日入学式で、早く寝ときたいんだよっ。用なら明日にしてくんなっ」
訳のわからない不安に、興奮して、江戸っ子になっている強。力いっぱい沢木の長身をドアの外に追いやる。
沢木も動揺のあまり『らしくなく』強に追い出され、目の前でドアが閉まってハッと我に返った。
さすがにもう一度ドアを叩こうとはしなかったが、沢木の目にはさっきの泉の姿が焼きついて離れない。
風呂上りの上気した肌が艶めかしかった。濡れて張り付いた前髪と、そこから覗く白い額が色っぽかった。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳、線の細い整った鼻梁、男のものとは思われない桜色の唇、パジャマの襟元から覗いた鎖骨の形まで……
(かつて、これほど俺の理想にぴったりの人間がいただろうか。いやいない。反語)
ふらふらと自分の部屋に戻った。
春日の姿は無い。もう自分の部屋に帰ったんだろう。沢木はどうしても落ち着かず、今日から変わった春日の部屋に行った。

《どんどん どんどん》
ドアを叩くと、中から不機嫌そうな春日が出てきた。
「ちょっと。うちの同室者もう寝てるの。俺も誰かのせいで疲れてて、もう寝るとこ」
「ヤチ、聞け」
「何だよ」
「羽根邑泉、めちゃめちゃ可愛い」
「はあ?」
「生まれてきて初めて出会ったと言っても過言でない、モロタイプ」
「はあ」
「どうしたらいいんだ、俺」
「…………」
(こんな事を言うために、俺をたたき起こしたのか。こいつは……)
春日はげっそりと肩を落として壁に寄りかかった。
「どうするもこうするも、いつものように好きにすりゃいいだろ」
「好きに?」
沢木の目が光る。
「そうだよ。俺のときも、他の奴のときも、お前、好き勝手にしてるじゃないか。そんなにタイプならモノにしろよ」
強引で『俺様体質』の沢木。春日以外にも寝た相手は数知れず。
最近じゃ一番相性のよい春日一人にしぼっていたが、春日自身、そこに恋愛感情があるとは思っていない。
羽根邑泉に対しても、本気でこの男が恋してしまったとは、全く思っちゃいない春日。
「好きなら、腕づくでモノにするのが沢木流だろ」
適当に煽って、
「じゃ、おやすみ」
とっとと部屋に戻った。
「好きなら、腕づくで……」
沢木は小さくつぶやいた。精悍な顔が、獲物を見つけた狼のようにわずかに歪む。
「モノにする……羽根邑泉」




HOME

小説TOP

NEXT