「鎌倉に住むのが夢だったのよ」
部屋いっぱいのダンボール箱に囲まれて、お母さんが満足そうに笑った。
「よかったね、お母さん」
何でも鎌倉はお父さんとお母さんの『運命の出会い』の場所らしい。
でもお父さんから聞いた話まで総合すると、横国大の二年生だったお父さんが修学旅行で鶴岡八幡宮に来ていたお母さんをナンパしただけのようで、それが果たして『運命の出会い』と呼ぶにふさわしいのかどうか、よくわからない。
でも、その後の文通、遠距離恋愛、と続いていかなかったらこの僕は生まれていなかったわけで、そうなると運命の不思議さというものを感じないこともない…かな。
ともかく、思い出の地鎌倉に住みたいというお母さんの願いをお父さんはようやくかなえてあげることができた。この後の三十五年ローンは、多分途中から僕に引き継がれるんだろう。お父さんがそう言ってた。十五歳で将来の借金確定。
「智之、自分の荷物は自分で片付けるのよ」
「はーい」
返事だけ。片付けなかったらお母さんがやってくれるのはわかってる。
とりあえず、すぐに読めるように漫画だけ本棚に並べて、僕はまだ布団の敷いていないベッドにゴロンと横になった。
カーテンのかかっていない窓の外に、青い空が見える。
来月から高校生だ。新しい学校はどんなだろう。中学までの友達が誰も近くにいないっていうのはやっぱり寂しいけど、それ以上に新しい人間関係に僕は胸が騒いだ。
上田や高橋みたいに面白いヤツいるかな。この近所に住んでるヤツもいるかな。ゲーム好きなヤツならソフトの貸し借りするんだけど。でも高校は、どっかクラブに入ろうかな。
そしたら放課後は、クラブ活動で……いろいろ考えているうちに、眠くなった。
そして夜ご飯に起こされるまで、いつのまにか寝ていたんだ。


翌日。
ダンボールの中からジーンズを引っ張り出して穿いていたら、突然ドアが開いた。
「あら、何?全然片付いていないじゃないの」
お母さんが呆れた顔で部屋を見渡す。
「突然開けるなよ」
僕の言葉を無視して、お母さんはダンボールから僕の服を取り出す。
「こういうのは早くハンガーにかけないと、しわになるのよ」
「やっといて」
僕は財布をポケットにねじ込んで部屋を出た。
「智之、どこ行くの?」
「探検」
新しい町を見に行くんだ。
「朝ご飯は?」
「外で食べる」
「あっ、こら、ちょっと」
僕は玄関から飛び出した。
僕の新しい家は、結構な山の上だ。鎌倉駅から歩いて三十分もしないと思うけど、意外に田舎くさい。でも坂を下って大通りに出ると、急にひらける。
大きな道を十分くらい歩くと鶴岡八幡宮だ。
平日の午前中なのに人がたくさんいるのは、春休みだからかな。
「うわっ」
人も多いけど、鳩も多い。
僕は密かに鳩が苦手だ。一羽とか二羽とかなら平気だけど、集団で近寄られるとちょっと気持ち悪い。たぶん、昔の映画で人が鳥に襲われるのを見たのと、あとはお父さんが鳩には病原菌がたくさんついているって小さい時に僕をおどかしたからだと思う。
鳩をよけて砂利道を突っ切った。
駅に近い三の鳥居を抜けると、道の両脇にお土産物屋が並んでいた。
キーホルダーや小さいつぼ、木でできたおもちゃ、どこも同じようなものを売ってる。
「あ」
道路に面したショーケースに猿の人形がずらりと並んでいる店があって、思わず足を止めた。
(これ、たしか…モンチッチだ)
モンチッチ。
お母さんがパーマに失敗した時に、お父さんがそう言って、お母さんが狂ったように怒っていた。後でそっとお父さんに「モンチッチって何?」って聞いたら、テレビ台の中に飾っていた――っていうか入れっぱなしだった――猿の人形を見せてくれたんだ。
我が家のモンチッチはハワイアンなシャツを着てたけど、その店のモンチッチは中華風あり、婦人警官あり、ジャイアンツのユニホームあり、で、なかなかのコスプレーヤーだ。
「モンチッチ…」
変な名前。
店の中のおばさんが近づいて来る気配がした。
「ヤベ」
僕は急いでその場を離れたけれど、すぐにまた立ちどまった。
不思議な雰囲気の店に惹かれて。店っていうか、その建物に惹かれて、かな。
それは、両隣の小奇麗な店からすっかり浮いている、時代がかった瓦屋根の家だった。
店だとわかったのは、看板が出ていたから。
「表具屋?」
何だろう、表具屋。道具屋なら何となくわかるけど…表具?
ひょっとして裏具っていうものもあるのかな。
古い木の扉は半分開いていて、中が覗けた。
見ると、掛け軸が飾ってある。
大きな袋を持った鬼の絵。美術の教科書で似たようなのを見た。たしか風神だったかな。そうしたらもう一つの、足に車輪みたいなのがついている鬼は雷神だろうか。
僕のお母さんはテレビの『何でも鑑定団』が大好きで、夜ご飯のときに僕も一緒に見ることがあった。「一、十、百、千、万…」って、こういう掛け軸に一千万とかの値段がついたりするとお母さんは大げさにため息をついて、逆に「名のある人が描いた」とかいうのが間違いで五千円くらいだったりすると、手を叩いて喜ぶんだ。
僕はそのテレビ番組の着物の男の人を思い出して、腕を組んで言った。
「いい仕事してますねえぇ」
「どうも」
「ひっ」
ビクッと振り返ると、背の高い、髪の長い男の人が立っていた。手に白い猫を抱いている。
僕は、慌てて駆け出した。
びっくりした、びっくりした、びっくりした―――。
あのふざけた台詞を聞かれていたかと思ったら、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
『いい仕事してますねえぇ』
『どうも』
どうもって言ったってことは、あの店の人なのかな。
一瞬しか見なかったのに、何故か頭の中に貼り付いてしまった顔。真ん中分けの長い髪を首の後ろで一つにしていた。目は細くなかったけど、切れ長っていうのかな、何か猫とか狐系だった。全体的にとても綺麗な人だった。男だけど。
気がついたら、もう駅だ。
僕は、なんだかドキドキがおさまらなくて、目の前にあったケンタに入った。アイスコーヒーでも飲んで…そうだ、朝ご飯も食べよう。

結局、ケンタで朝を済ませた僕は、駅前の本屋やゲームセンターとかを覗いて回って、そしてまたさっきの通りに戻って行った。
あの表具屋がある。
何故だか引き寄せられるように近づいていく。
(さっきの人、いるかな…)
恥ずかしいんだけどまた会いたくて、そっと店の中を覗きこんだ。
「いない」
店の中には、誰もいない。ちょっとがっかりした。何で?
そして、風神雷神がかかっていた隣に、さっきは無かった女の人の掛け軸があった。
着物を着たすらっとした女の人、美人画ってヤツだ。たぶん。こういうのも鑑定団で見た。薄い墨でかかれているのに、下駄の鼻緒だけがちょんと紅くて目を惹いた。
「にゃああん」
足元で猫の鳴き声がした。
見ると、さっきの人が抱いていた白い猫だ。
人懐っこく僕の足に擦り寄ってくる。僕はしゃがんで指を伸ばした。
僕の指に自分から顔を近づけるので、喉をくすぐってやると、白猫はかわいらしく喉を鳴らした。
僕は犬も猫も好きだ。かなり好き。
新しい家に引越ししたら一戸建てだからペット飼ってもいいって言っていたのに、実際引っ越すとなると、急に「家が傷むからダメ」と言ったお母さんを、ちょっとだけ恨んでいる。
「可愛いなあ、お前。真っ白だ。おいで、シロ」
ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らす白猫。
抱っこしてもいいかなと、手を伸ばしかけたら、
「猫、好き?」
頭の上から声が降ってきた。
はっと顔を上げると、さっきの綺麗な人だ。
もう今更逃げられない。僕はしゃがんだまま、ただ頷いた。
「そう。良かったら、お茶していかない?鳩サブレあるよ」
何を言ってるんだ?
鳩サブレあるよ?
怪訝な気持ちでその人を見返し、ふと後ろに目をやって、僕は腰を抜かした。
「うわああっ」
「え?何?」
驚いた僕に、その人も驚いている。
でも僕は本当に驚いて、口をパクパクさせた。
「あ、あ…」
「あ?」
「あ、足…な…」
さっき僕が見た着物姿の女の人。掛け軸の中の美人。
下駄の鼻緒が紅かったのまで見たのに―――。
今見たら、女の人の腰から下が消えていた。
「足、なくなってる…」
掛け軸を指差して震える声でそれだけ言うと、その人は思い当たった顔をして、そして眉を顰めて言った。
「見たんだ?」
見た?
見たって、何?
僕は、涙目になっているかもしれなかった。たぶん、なってる。
その人は、顰めていた眉を開いて、急に優しく微笑んで言った。
「大丈夫、悪い幽霊じゃないからね」
ゆーれいー???!!!

僕が呆然と見上げると、その人は手を差し出してきた。これにつかまって起き上がれってことかな。確かに、道路に尻餅ついているこの格好は、あんまりいいものじゃない。っていうか、恥ずかしい。
「たまにそういういたずらするんだよね。みどりさんは」
みどりさん?
「幽霊の、名前?」
「幽霊、怖い?」
おかしそうにチラッと見られて、僕はムキになっていった。
「別にっ」
腰を抜かしておいて、怖くないって言うのも変だけど、でももう高校生なんだし、幽霊くらい怖がってちゃダメだろう。
「よかった。なら、寄っておいでよ。鳩サブレあるし」
また鳩サブレだ。
でもここで帰るのは、やっぱり幽霊が怖いからだって思われる。
僕は肩をいからせて、その店に足を踏み入れた。



そしてその翌日、結局僕はまたあの店に行った。
だって、楽しかったんだよ。
あの綺麗な人の名前は、鑑(かがみ)史朗さんっていった。
表具屋っていうのは、あの掛け軸なんかを作る人らしい。掛け軸以外にも襖とかも作るっていった。でも、史朗さんは主に掛け軸を作ってるって。
色々説明してもらったけど、その辺は難しい言葉が多くてよくわからなかった。
それより面白かったのは、鎌倉の歴史について。
僕が、平家物語が平のなんとかの話で源氏物語が源のヨシツネとかの話だと思っていたって言ったらえらくウケてくれて、そして源頼朝の話から始めてくれたんだ。
史朗さんの話はすごく上手でなんだか大河ドラマを見ているみたいな気になった。
今日は、木曽義仲の話をしてくれるって言うから、また午前中から行くって約束したんだ。
「おはよう、史朗さん」
「おはよう、智之君。今日はご飯食べてきた?」
「うん」
昨日、家で食べないでケンタで食べたっていったら、朝はちゃんとご飯を食べなさいって言われた。
だから、今日はちゃんと家で食べてから来た。
「昼は、蕎麦作ってあげるね」
「そば?」
「昨日、天ぷら揚げたから、天ぷら蕎麦だよ」
「えび?」
「海老もあるよ。あと色々」
「やった!」
僕はえびが好きだ。でも天ぷらは台所が汚れるからって、家ではあんまり作ってくれない。
史朗さんは、男なのに天ぷら揚げるなんてすごい。
え?あれ?…自分で揚げたんじゃないのかも?ドキッとした。
「史朗さん、結婚しているの?」
「してないよ?何で」
「う、ううん…天ぷら揚げてるから」
「今日び独身男は、天ぷらの一つも揚げられないとダメなんだよ」
「そうなんだ」
何故かほっとした。変なの。
「智之君は、何か料理できるの?」
「まさか」
ブンブン首を振ったら、史朗さんは綺麗な歯を見せて笑った。
そして木曽義仲と巴御前の話を聞きながら、お昼は美味しい天ぷら蕎麦をごちそうになった。
「明日も、来ていい?」
「もちろん」
「明日は、何の話をしてくれる?」
「そうだなあ。そうだ、明日は鶴岡八幡の源氏池と平家池見ながら話しようか」
「うん」
えびを頬張って頷くと、足元でシロがみゃあと鳴いた。
「えびの尻尾やっていい?」
「ころもは取ってね。ちょっと太りすぎだから」
「鳩サブレやってたじゃん」
そっちのほうがよっぽと太るもとだと思う。そう言ったら、やっぱり史朗さんは笑った。




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