「智之、あなた毎日、朝からどこ行ってるのよ」
朝ごはんをかき込んで、飛び出そうとした僕の前にお母さんが立ちふさがった。
「別に、どこでもいいだろぉ」
「よくないわよ。部屋の片付けもしないで」
「そんなの、お母さんがやってよ」
「何言ってるのよ。もう高校生なんだから、自分のことくらい自分でしなさい。あなたの部屋、まだダンボールだらけじゃない」
「もう、帰ってきたら、片付けるから」
「だめよ。今、やりなさい。業者の人にダンボール持って行ってもらわないといけないんだから」
「そんなあ」
いつに無く強硬なお母さんに僕は外に出してもらえず、部屋のダンボールを片付けることになった。
今日は、鶴岡八幡宮に一緒に行く日なのに。
何だか、悲しくなった。
バタンバタンとわざと大きな音をたててダンボールの中の荷物を取り出した。
箱に入っていたときより、部屋が汚くなった。
今日は、もう外に出られないかも知れない。
ものすごく悲しくなった。
史朗さんのところに行きたいよ。
「もう、何してるの。ちゃんと一つ一つしまいながら、出しなさい」
お母さんが部屋に入って来た。
僕はむっとしたまま、口をききたくないから黙っていた。
「友達が、出来たの?」
僕の荷物をカラーボックスの引き出しにしまいながら、お母さんが尋ねる。
「………」
「どこの子?」
「………」
「別に、心配しているわけじゃないんだけど」
「うるさいなあ。片付けてるから、いいだろっ」
「うるさいって、親に向かって、何よ」
「うるさいから、うるさいって言ったのっ」
僕は、自分でも訳のわからないムカムカした気持ちで、乱暴に荷物を片付けた。
お母さんは、もう何も言わなかった。
黙って僕の荷物を片付けるお母さんを見て、さっき怒鳴ったことを少し後悔した。
なんだろう。
こういうのを、自分をもてあますって言うのかな。

三時過ぎになって、ようやく片付いた。お昼ご飯も食べないでがんばった。
僕は、綺麗になった部屋を飛び出して、史朗さんのところに走った。
全力で走ったから息が切れて、店の前についたときには苦しくて声が出なかった。
古い木の柱に手をかけて、扉を開ける前に深呼吸しようとしたとき、中から声がした。
「智之、遅いね。今日は、来られなくなったのかな……ん?みどりさんも、智之のこと好きだろ?ねえ」
ドキッとした。
みどりさんって、あの掛け軸の女の人。幽霊と話してるんだ。
それより、僕のこと、智之って呼び捨てにしていた。僕には、智之君って言ってたのに。
顔に血が上るのは、どうしてだろう。

『みどりさんも、智之のこと好きだろ?ねえ』
も?
(も、って――――)
ドキドキと胸が苦しくなる。
突然、扉が開いた。
史朗さんが、びっくりした顔で僕を見た。
「智之君、どうしたの?何で、入ってこないの?」
「あ…走って、きたから…苦しくて…」
「そうなの?本当だ。顔が赤い」
僕は余計に顔が赤くなった気がした。
「遅いから、今日はもう来ないのかと思ったよ」
「ちがっ」
「ん?」
「お母さんが…」
口に出して、あまりに子供っぽい気がして、そのあと言えなかった。
史朗さんは、それ以上聞かなかった。
「どうする?これから、池、見に行く?」
返事をしようとしたら、僕のお腹がぎゅるぎゅるとなった。
「あっ」
恥ずかしい。
「昼、食べてないの?」
史朗さんが目を瞠る。
僕は、うなずいた。
「じゃあ、何か食べに行こう。池は、いつでも行けるからね」
今のしゃれなんだけど、わかった?って笑いながら、僕の肩に手を廻した。
僕は、肩に置かれた手が気になってしかたなかった。


鎌倉彫の土産物屋の二階にある食堂で釜飯をご馳走してもらった後、そのまま鶴岡八幡宮の平家池と源氏池に行くことにした。
三の鳥居をくぐると、いきなりたくさんの鳩が押し寄せてきた。
「うわわあぁっ」
思わず隣にいた史朗さんのシャツを掴んだ。
史朗さんは、僕の身体を片手で支えて、
「鳩、嫌い?」
僕の顔を覗き込むようにして聞いた。
「あ、あんまり、好きく…ない」
「そりゃ悪かったね。たまにえさやったりしてるから、鳩も僕見ると寄って来るんだよ」
「嘘っ?」
「いや、今日はパン屑も何も、持ってきていないけどね」
しっしっと軽く追い払う真似をして、
「池のほうに行こう」
急ぎ足で僕の背中を押した。
せいぜい十羽かそこらの鳩から逃げるだけなんだけど、史朗さんが僕を守ってくれているみたいな気がして、ちょっとあの昔の映画も思い出したりして、くすぐったかった。
「何か飲む?」
池に着いて史朗さんが売店を目で指す。アイスコーヒーと書かれた暖簾にのどが渇いていることに気がついた。
「うん」
そう言ったのに史朗さんは、その場に立ったまま。
ちょっと困ったような顔で、僕を見ている。
何?
そう言おうとして、僕は史朗さんのシャツを掴んだままだということに気がついた。
「あ、ごめん」
慌てて手を離したけれど、僕はよほどしっかりと握っていたらしくて、腰のあたりがクシャクシャだ。
史朗さんはちょっと目を細めて、シャツの裾を綺麗にズボンに入れた。
「何飲む?」
「あ、やっぱり、いい…」
僕は、何だかとても恥ずかしくて、石のベンチに座った。
「遠慮することないのに」
史朗さんも、隣に腰掛ける。
「……」
言葉が見つからなくて黙っていたら、史朗さんも黙ったままだ。僕は、今朝お母さんと喧嘩した時からずっとモテアマシテイル自分の気持ちを、何とかしたいって思った。
「史朗さん」
「ん?」
「えっと、史朗さんって、みどりさんと話できる?」
「えっ?」
「あの幽霊のみどりさんと…」
「ああ、あの…ね」
思い当たったという顔をして、
「そうだねえ」クックッと史朗さんは、うつむいて笑った。
「うん、ときたま、話すかな」
「どんなこと、話すの?」

『みどりさんも、智之のこと好きだろ?』
あの『も』の意味を尋ねたかった。

「うーん、そうだなあ、色々…」
「色々って?」
「智之君は、兄弟いないんだよね」
「うん」
「じゃあ、智之君がいつもお父さんやお母さんと話しているようなことだよ」
「……」
それは僕の聞きたい返事じゃなかった。
でも、どうやって訊ねていいか全然わからない。また黙っていると、今度は
「どうしたの?」
史朗さんが首をかしげて、僕の顔を覗きこむ。
「何でもない」
何故だか泣きたくなった。
鼻の奥がつんとする。でも泣くわけにはいかない。理由がないし。
史朗さんは僕の頭をポンポンと叩いて、立ち上がった。
僕は慌てて、顔をあげた。僕の態度が変だから、呆れて帰ってしまうんだと思った。
じっと見上げると、史朗さんも驚いたように僕を見つめた。
「えっと…コーヒー買ってくるだけだから…そんな顔しないで」
そんな顔?
どんな顔だろう。僕は自分の顔が気になって手の甲で、頬をこすった。
その瞬間、ふわっといい匂いがして、僕の顔は史朗さんの胸に押し付けられた。
えっ?
びっくりする間もなく、史朗さんの身体は離れ、
「すぐ戻るから、よい子で待ってて。池に入っちゃ危ないよ」
冗談のように言い残して、史朗さんは売店に消えた。
さっきのいい匂いが史朗さんのシャンプーの匂いだということに気がついて、そして、あの瞬間、ほんの一瞬だけど、抱きしめられていたんだということにも気がついて――僕は全身の血が逆流しそうになった。
石のベンチを掴んで固まったまま、顔もあげられない。
隣のベンチに座っていたお年よりの夫婦みたいな人や、乳母車に赤ちゃんを乗せて散歩の途中のような若いお母さんや、他にも池の周りにいる人たちは、どう思っただろう。
一瞬だから、見ていなかったかもしれないけど、でも、誰も見てなかったってはずないし。
すっごく恥ずかしい。
(でも…)
同じくらいすっごく嬉しい気持ちがするのは、どうしてだろう。


「冷たいのと、あったかいのどっちがいい?」
「冷たいの」
アイスコーヒーをもらって、カップに口をつけながら、僕は覚悟を決めた。
っていっても、何かアクションをおこす覚悟じゃない。
自分の気持ちを認める覚悟。
僕は、史朗さんが好きなんだ。
まだ会って三日だけど、そんなこと関係なく。だって、たぶん会ったときから好きなんだ。
そう思わないと、この変な気持ちが説明できない。
そしてそのことを認めたら、自分でもすごくよくわかって、気分も落ち着いた。
いつかこの気持ちを伝えたら、史朗さんは何て言うだろう。
男同士だし、歳も十歳以上離れているし、たぶん相手にされないけど、でも…。
史朗さんなら、気持ち悪がって冷たくされるようなことはない気がする。そんな人じゃないって思う。都合のいい思い込みかもしれないけど。たぶん、ね。

池のほとりで水鳥を眺めながらおしゃべりして、風が冷たくなってきたから立ち上がった。
「そうだ、貰い物のカステラがあるから、お家に持って帰ってよ」
「いいの?」
「一人じゃ、そんなに食べられないからね」
カステラはお母さんの好物だ。朝ちょっと喧嘩しちゃったし、お土産に持って帰ろう。
「お母さん、カステラ好きだから、喜ぶよ」
「そう?よかった」
土産物屋の並ぶ通り。あのモンチッチがショーウィンドウに並んだ店の前を通った時、また思わず目を惹かれた。そうしたら、史朗さんが立ち止まって、僕の顔をちらりと見て、そしてくすっと笑って店の中に入っていった。
(どうしたんだろう?)
ぼんやり見ていたら、史朗さんは孫悟空の格好をしたモンチッチを取って、ポケットから千円札を二枚だして店の人に渡している。
(嘘っ?)
何で、史朗さんがモンチッチなんか(なんかって、失礼だけど)買うの?
「包まなくていいですよ」
史朗さんは、赤い服を着た孫悟空モンチッチを
「はい」
剥き出しのまま僕に渡して、僕は反射的に受け取った。
「何?何で?」
「好きなんじゃないの?」
「そんな」
女の子じゃあるまいし。
「ちょっと、智之君に似てるよね。ちょっとたれ目のところとか。ぷにっとしたほっぺとか」
「ひどっ」
僕は目は大きいって言われるけど、そんなたれ目じゃないよ。史朗さんのほうががつり目なんだよ。言い返そうとしたら
「可愛いよね」
さらっと言われて、顔に血が上った。
お母さんはモンチッチに似ているって言われた時、狂ったように怒っていたんだけど、僕はこの一言で怒れなくなった。
恥ずかしくてそのモンチッチをぎゅっと握ると、
キュウ
間の抜けた音がした。
お腹を押すと鳴くんだ。
キュウ
キュウ
キュウ
僕は史朗さんの家に着くまで、意味なくモンチッチを鳴かせた。


そして春休みの間中、僕は史朗さんの家に――あの店の奥がそのまま史朗さんの家だ――通った。
掛け軸のことにも少し詳しくなった。
幽霊のみどりさんは、もう足を見せてくれることはなかったけど、でも僕が行くとニッコリ笑って迎えてくれている気がした。

ある日、店に入ると珍しくお客さんがいた。
古い大きな机の上に桐の箱が置いてあって、そこにみどりさんがしまわれそうになっていた。
「売っちゃうの?」
僕は、思わず叫んだ。
「智之君」
史朗さんがびっくりして振り返る。
「ダメだよ。みどりさん、売っちゃ」
「えっ」
「何だ、君は」
白髪頭の太ったおじさんが、怒ったように僕を見る。
「だって、幽霊なんだよ。史朗さんと話が出来る。この人、知ってるの?」
「だから、君は、なんだね」
「ああ、すみません」
史朗さんは、その男の人に
「後で、ご自宅にお届けします」
丁寧に頭を下げて謝っている。
僕は、納得いかない。みどりさんは売り物じゃなくて特別な掛け軸だったんじゃないの。
その客が帰った後、史朗さんは気まずい顔をして僕を見た。
「ひどいよ。みどりさん、売られるのショックだよ」
よくわからないけど。
でも、みどりさんはただの絵じゃないんだから。僕に初めて会った日に、いたずらしてきた幽霊なんだから。みどりさんがあんなことしなかったら、僕は史朗さんの店に入らなかったかもしれないんだし。
じっと史朗さんを見ると、史朗さんは長い髪をかきあげるようにして、そして後ろで結びなおして言った。
「ごめんね、智之君、ちょっと待ってて」
そして奥の部屋に引っ込んだ。
しばらくして、手に掛け軸を持ってきた。
僕の前で広げて掛けた。
「あっ」
みどりさんが!
紅い鼻緒のみどりさんがいた。
「ごめんね」
「な、んで」
「本当に、ごめん。最初はほんの冗談だったんだけど、智之君が信じちゃったから」
掛け軸は、二つあった。
「あの日、来客があって、その都合でこっちを出してたんだけど、本来、幽霊画の方がオリジナルだからね。掛け替えした後に、智之君がいるのに気がついて声をかけたんだよ」
じゃあ、僕は最初この絵を見て、シロとじゃれていた間に別の絵に掛け替えられていたってこと。
種を明かせば簡単だけど。でも…。
「こんな…そっくり…」
「うーん、ちょっと…遊びでね」
史朗さんは言葉を濁した。
僕は、突然、騙されてたことに気がついて、カッとした。
「ひどいよ。嘘つきっ」
「だから、ごめん」
「なんで、あんな嘘ついたんだよっ。からかって面白がってたの?サイテー」
まんまと騙されていた自分が恥ずかしくて、ムキになって怒ったら、史朗さんは本当に困ったような顔になった。
「ごめん。騙すとか、そういうつもりはなかったんだけど、ただ…」
「ただ、なんだよっ!」
「智之君が可愛かったから、引き止めたかったんだよ」
史朗さんの言葉に、僕は黙った。
「智之君があの店の前でモンチッチ見ていたところから気がついて、後ろから見てたらうちの前で立ち止まったでしょう?で、話しかけたら逃げちゃったし。そしたら、また後で店の前に来てるし。からかう気はなかったけど、ちょっと…気はひきたかったかも」
「そ…」
それって、どういう意味。
顔に血が上って、言葉にならない。
「本当のことは言おうと思っていたんだけど…絵が二つあることを説明するのは、ちょっと何だったのと、それと…」
史朗さんはちょっと照れたように額を掻いて言った。
「信じてる智之君があんまり可愛くて、言い出せなかったんだよ」
「……か、かわいい、って…僕は、女の子じゃないんだから…」
声が震えているのが、自分でもわかる。
「うん、そうだね。でも、可愛い。できれば……こんなことで、嫌われたくないんだけど」
混乱する。
それって、史朗さんも僕のこと好きってことなのかな。
「き、嫌いとか、そんなこと、ならないよ」
「よかった」
史朗さんが綺麗な顔で、安心したように微笑んだ。
僕は、衝動的にその胸に飛び込んだ。
「智之君?」
「嫌いにはならないけど、やっぱり、僕のこと騙したんだから、責任とってよ」
「責任、って?」
珍しく、史朗さんの声が動揺している。
僕は、史朗さんの胸に顔を押し付けてくぐもった声を出す。
「イタイケな子供騙したんだから、大人として責任とってよ」
自分でも、何言ってるんだかわからない。
でも、史朗さんは何かわかってくれて、クスクス笑って、そして僕の身体をぎゅっと抱きしめてくれた。
「大人として、責任とるよ」
僕は、いつかと同じシャンプーの匂いにうっとりとして目を閉じた。




エピローグ

「みどりさんって、シロのことだったの?」
「うん」
「なんで…?だって、シロって…」
椅子の上で丸くなっている史朗さんのペット、太り気味の白猫、を指して言うと
「智之が、初めに勝手にそう呼んだんだよ」
史朗さんがおかしそうに笑った。
「そうだったっけ?」
「最もみどりさんは、隣のおばちゃんからはミィって呼ばれているし、山田のじいさんとその孫はブー子って呼んでるけど、それにも返事するしね」
「もともと緑の瞳が綺麗だったから、みどりって名前だったんだけど、今はほとんどお目にかかれないしねえ」
満足そうに細められた糸目の白猫みどりさんの咽喉をくすぐって、史朗さんも嬉しそうに目を細めた。やっぱり、史朗さん、猫系の顔だ。それも高そうな綺麗なヤツ。
どうせ僕は、おサルのモンチッチだけどね。
「あの絵、史朗さんが書いたなんてビックリだよ」
「ははは…その話は、誰にもしないでね」
幽霊の美人画を模写して、足のある絵を描いたのは、なんとこの史朗さん。
好事家に頼まれたって言ってたけど。コウズカって何?


そして、実は史朗さんが贋作作りではかなり有名な絵師だったってことを知るのはそれからずいぶん後のことなんだけど、それはまた今度の話ね。
ともかく僕は、引っ越してきたばかりの鎌倉で史朗さんっていう人と知り合えたことに、お父さんとお母さんじゃないけど『運命』を感じたんだ。




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