　さんざんマックで長居をしたが、さすがに窓の外が薄暗くなってくると、俺たちは後ろ髪引かれつつも立ち上がった。
「じゃあ、秋山、引越しのときは手伝うから声かけろよ」
「さんきゅ」
「私も、蕎麦くらい茹でてあげる」
「や、それはいいから。掃除してくれ」
「なによ」
　大学に通うにあたって、俺は一人暮らしをすることにした。自宅から無理すれば通えなくもなかったが、片道二時間はきつい。反対するかと思った両親は、意外にもあっさり許してくれた。男の子だからしょうがないと母親はケロリと言った。
「またな」
「バイバイ」

　高橋たちと別れて、工藤の家に向かう道。二人一緒にいたくて、バスは使わず歩いていた。
「よかった……」
工藤がポツリと呟いた。
「ん？」
「高橋君」
「ああ」
工藤も、俺と同じ気持ちだった。
いや、俺よりもっと戸惑っていたはずだ。
「許して…もらえたんだよね……」
「ん……」
　俺たちはその後、黙って歩いた。
一年のときのことから色々と思い出されて、胸が痛くなった。
俺は、そっと工藤の左手を握った。
細い指がぎゅっと握り返してきて、俺たちはそのまま手をつないで歩いた。

「もうちょっとだけ時間あるか？」
住宅街に入ったところで小さな公園を見つけて、俺は工藤を誘った。
このまま歩いたら、あと十分もしないうちに工藤の家についてしまう。
「うん」
工藤は、小さくうなずいて俺の後ろをついてきた。
二人でベンチに腰掛ける。
誘ったのはいいけれど、何を話そうか。
工藤と話したいことはたくさんあるはずなのに、『今、話したいこと』じゃない気もして、俺は目の前の砂場を見つめた。
工藤も黙っている。何か話そうと、とりあえず口を開きかけたとき、
「あ……」
工藤が小さく呟いた。
「どうした？」
俺はこれ幸いと促がした。
「ううん」
工藤は微笑んで首を振った。
「薔薇、けっこう散らしちゃってた」
見ると、工藤の膝の上にも、薔薇の花びらが落ちている。
「本当は、なるべく早く水に浸けるべきだったんだよね。三隅先輩に悪いことしちゃった」
「工藤に渡した時点で、あいつは満足しているよ」
「そんなの」
「派手なパフォーマンスだったよな」
言ってから、ふと一年前のこの日を思い出した。
「そういや、去年はテレビカメラの前で、第二ボタンを押し付けられてたな」
「ああ、あれ」
工藤は下を向いて、思い出したようにクスクスと笑った。
「制服っていってもブレザーなのに、いきなり第二ボタンちぎり取るんだもん。笑っちゃうよね」
「でも、工藤が受け取らなかったから、ちょっと安心した、あの時」
俺が言うと、工藤はそっと顔を上げた。
「第二ボタン……」
「ん？」
「いる？」
「え？」
聞き返したら、とたんに工藤は真っ赤になった。
「あ、うそ、うそ、ごめん、何、言ってんだろ」
うろたえる様子に、俺は意味を理解して、
「ブレザーなのに？」
笑うと
「ああもう、ゴメン。去年の三隅先輩のこと思い出したから……」
工藤は、恥ずかしそうにして顔を伏せた。
それは、たまらなく可愛らしかった。
「欲しいな、工藤の第二ボタンなら」
「やめてよ」
「マジ。だって、去年、三隅が渡そうとしたときは、俺、かなりジェラったんだぜ」
笑って見ていたけれど、もし工藤が頬を染めて受け取りでもしたら、かなり胸が疼いたはずだ。
工藤は、赤い顔をしたまま下を向いていたけれど、小声で言った。
「僕も……」
「ん？」
「秋山君、同じクラスの女の子に第二ボタン欲しいって言われてたでしょ？」
「へっ？」
言われて初めて思い出したくらいだが、確かに、言われた。冗談半分で。
「あれは、冗談だよ」
「冗談でも、ドキッとしたんだ」
工藤の唇が小さく尖って、俺はたまらなくその唇にキスしたいと思った。
そっと指を伸ばしたら、工藤は弾かれたように顔を上げた。
目と目が合ったとき、俺は、ひどく間抜けなことをした。
「キスしていい？」
訊ねるなよ。自分。
「バッ…」
案の定、工藤はまた真っ赤な顔でうつむいた。全身が固くなってるのが見ただけでわかる。
（本当に馬鹿だ……）
自分に呆れながらも、次にとった行動は間違ってなかったと思う。
俺は、工藤の腕を取って引き寄せると、左手で頬を包んで唇を寄せた。工藤は全身こわばってたけれど、その唇はひどく柔らかかった。

　触れるだけのキス。

それでも、十分だった。

唇を離したとき、工藤は赤い目をして言った。
「秋山君……好き」

俺も…と言いたかったのに、声がのどに絡んで出なかった。かわりに、もう一度工藤を引き寄せた。
俺たちの身体に挟まれてひしゃげてしまったかわいそうな花束から、甘い香りがして、工藤の髪の香りとともに俺をうっとりさせた。

「ただいま」
「おかえり、遅かったわね」
　玄関まで出てきた母親は、目ざとくソレを見つけて、素っ頓狂な声をあげた。
「やあだ、周介、ボタンどうしたの？　女の子にあげちゃったの？」
「持ってるよ」
俺はポケットから右手を出して、校章の刻まれた制服のボタンを見せた。
「あら、なんだ。見栄張って、自分で取ったんだ」
「うるせえよ」
俺は真っ直ぐ自分の部屋に入った。

　実は、あの後、工藤と第二ボタンを交換した。
俺が持っているこれは、工藤のだ。
冷静になって考えたら、むちゃくちゃハズイことやってると思うが、あの時は気持ちが盛り上がってしまったんだからしかたない。
工藤も今ごろ、俺と同じく、部屋を走り回りたいくらいの恥ずかしさに耐えていることだろう。
（工藤……）
柔らかな唇の感触がよみがえって、俺は、ゾクリと腰を震わせてしまった。
ヤバイ。
今日は、間違いなくアッチの夢を見る。
つい下半身に手を伸ばしそうになって、ふと、
（工藤も、自分でやったりするのかな）
想像してしまい、ますます俺は、収まりがつかなくなってしまった。
「周介、ご飯どうする？　先に出していい」
母親の声がして、俺は慌てて叫んだ。
「風呂、先に入る」

「引越し、本当にその日にするの？」
　風呂からあがってさっぱりして、飯をかき込んでいる俺の後ろで、母親が恨めしそうに言う。
「他の日はもう埋まってて、全然入らないってさ」
「だから、早く決めなさいって言ったのに」
「しょうがねえじゃん」
「別のところに聞いてみたら？」
「面倒くさいよ。もう決めたんだし、いいだろ」
俺はうんざりと答えた。
「荷物なんかほとんどないんだから、手伝ってもらうことないし」
俺は、自分が一人暮らしするアパートへの引越しの日を、少しでも安い方がいいかと平日の水曜にしたのだが、偶然その日は母親に用事があったのだという。
もともと、引越し先までついてきてもらう気など俺のほうにはさらさら無かったのだけれど、母親の方はそうではなかったらしく、ずっと文句を言っていた。
「その前の日曜に行って、掃除だけしといてあげようか」
「いらねえって」
「なんか周介、一人暮らししたら、全然、家には帰って来なさそうね」
「そのつもり。ってか、飯くらい、静かに食わせてくれよ」
口うるさい専業主婦を黙らせて、俺は、もう一度、工藤との会話を思い出していた。
引越しの手伝いに来てくれると言った。

　その日、そのまま泊めるってのは、ダメかな。
（下心、ありありじゃん）

　一人暮らし。
期待は大きいのだけれど、相手が工藤だと、どうも慎重になってしまう。
嫌われたくない。
実のところ、高橋と工藤が上手く行かなくなったのが、あの一年の夏の、山梨の夜の後だというのも気になっていた。

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