結局、俺が志望校を『K大 航空宇宙工学科』とはっきり決めたのは、それから半年も後だった。俺たちは三年生になり、俺は、受験生として、高校生活最後の夏を迎えた。 「おはよう、秋山君。ねえねえ、これ見て」 朝、昇降口で前原に呼び止められた。手には見慣れない厚い雑誌を持っている。 「今月の芸術ライフに三隅先輩が特集されてるの」 「へえ」 「昨日本屋で見つけて、思わず買っちゃったわよ、こんな高いもの。しかも腕鍛えられるくらい重いのよ」 「はは……」 ぱらぱらと前原がめくる分厚い雑誌の後ろの方に、確かに三隅の顔写真が載っていた。バックの絵は、三隅の作品なんだろう。 この春卒業したヤツは、去年の秋、何とかいう大きな賞をとって、高校生画家として一躍有名人になった。しばらくは正門のところに取材のカメラなんかがウロウロしていて、騒がしかった。 卒業式にもテレビ局が来てたな。 そのテレビ局のカメラの前で、三隅は自分の第二ボタンをちぎって取ると、居並ぶ美術部の後輩の中から工藤に歩み寄って、無理やりそのボタンを握らせた。 工藤は真っ赤になってそれを押し返して、三隅はむきになって渡そうとして、それでも、工藤は頑として受け取らず――とうとう見かねた別の奴が 「喫茶店のレジ前で会計を争うオバチャン同士じゃないんだからっ」 そう言って、ボタンを奪った。 そのまま、今度は、三隅の第二ボタン争奪戦が始まって、工藤はホッとしたようにその場から離れていった。 「何笑ってんの?」 前原が、不審気に見上げる。 「あっ、や、別に」 三隅先輩か、相変わらず、すかした顔だ。 ここにいたときは伸ばしていた髪を短く切って、少しワイルドになっている。普通は、高校卒業してから髪を伸ばしそうなもんだが。 「エキセントリックな人だったわよね」 「ああ」 「工藤君とは何でもなかったって、知ってるんでしょ?」 「さあ、そうなのか?」 「私は工藤君にちゃんと聞いたもの」 聞いたところで、素直に言うだろうか。男と付き合ってるって。 ああ、でも高橋と別れたってことは、ちゃんと言ったんだよな。 あれからもう二年になるのか。 「今年も山梨行くのか?」 「え? 行くわよ。もう毎年恒例だもの。叔父さん、去年皆が来てくれなかったの、寂しがってたわよ。今年、行く?」 「俺は、受験生だって」 「あ、そうだった」 「前原は、教育だっけ」 「そう、工藤君もよ」 「知ってる」 工藤は教育学部を希望しているらしい。工藤がセンセイか。高校だとイジメられそうな気もするな。いや、可愛がられるのかな。案外、女生徒にキャアキャア言われそうだ。 できれば小学校の先生とかの方がいい。小さな子供たちに囲まれて楽しそうな工藤、似合ってると思う。 とか考えて、可笑しくなった。 人の将来を心配している場合じゃない。 俺は、学年で二割もいないという、外部大学受験生徒なのだから。 夏休みから本格的に受験勉強に入った俺は、エスカレーター組とは全く違うサイクルで、残りの半年を過ごした。工藤とは廊下ですれ違うことすらなくなった。 そして、二月、俺は念願の切符を手に入れて、晴れがましい気持ちで職員室に入った。 「おめでとう、秋山、すごいぞ」 担任は大げさに喜んで、俺に右手を差し出した。握手なんて照れくさかったが、素直に手を出した。 「ありがとうございます」 「お前なら、やると思ってたよ」 大きな手にぐっと力が込められて、俺は、ちょっとだけ胸が詰まった。 正直、自信は無かった。 何度か、自分も無理せずに上の大学に行くことにすりゃよかったと思った。 けれど――負けたくなかった。自分に……そして、三隅に。 職員室を出たとたん、 「あ、秋山君!」工藤の姿が現れた。 「工藤」 あまりに久し振りで、嬉しさのあまり、思わず大きな声が出た。 「うかったの?」 工藤は、白い頬に血を上らせて俺を見つめる。その表情に、見惚れてしまう。 「ああ」 「おめでとう!」 破顔する工藤を、抱きしめたい。 理性が優ってホッとした。 「本当に、おめでとう……やっぱり、秋山君は、すごいよ」 「ありがとう。いや、マジ、勉強始めたの夏からだったから、ちょっと自信なかったんだけどな」 「合格祝い……しようね」 工藤にそう言ってもらえて、辛かった受験勉強の記憶は全て消え去った。残ったのは、達成感と充足感、期待と希望。 高橋が音頭を取って俺の合格パーティーというのを開いてくれた。 懐かしい顔が揃って、賑やかに騒いで、俺は最高の形で高校生活をしめくくることができた。 そんなある日、前原が『大変なニュース』と言うのを持って来た。 工藤の描いた卒業制作が、市のコンクールに入賞したと言う。 卒業間近の登校日、俺たちは久し振りに工藤の教室で四人揃った。 「水臭いぜ。葵」 「そうよ。あさってから市民会館に展示されるんですって?内緒にすることないじゃない。一緒に見に行きましょうよ」 「だ、だめ」 工藤は恥ずかしがって、首を振る。 「何で?」 「あっ、その日、僕、約束があって」 俺たちと行くのが相当恥ずかしいんだろうか、こわばった顔で前原の誘いを断っている。 俺も、今週末と聞いて突然思い出した。 「俺も、その日ダメだな」 残念なことに、祖父さんの何回忌とやらで親戚の家に行くことになっていた。 兄貴も神戸からわざわざ帰ってくるくらいだから、俺もサボるわけには行かないだろう。 俺が言うと、前原は唇を尖らせた。 けれど――見たいと思った。 工藤が描いた絵というものを、俺は一度も見ていない。 『卒業までに、一度、見ろよ』 三隅の言葉が、ふいによみがえった。 (卒業までに――) ギリギリだったな。機会が出来てよかった。 日曜日。 「周介、こっち着なさい」 「え?やだよ、そんなカタくるしいの」 母親がハンガーごと持ってきたのは、先日作ったばかりのスーツだった。 「法事なんだから、堅苦しくていいのよ」 嫌そうな顔をした俺に、 「入学式までに何度か着て馴染んでおかないと、お仕着せみたいでカッコ悪いわよ」 母親は、無理やりそれを押し付ける。 「周一からは、まだ連絡無いのか?」 ネクタイを締めながら、親父が言う。 「ええ」 「家から一緒に行くことになっているんだろう?」 「そうですよ」 「向こうで待ち合わせでもよかったかな」 「もう来ますよ」 親父たちの会話を聞きながら、俺は工藤のことを考えていた。 (工藤の絵が、今日、市民会館に飾られる…) 電話が鳴った。 「あら、周一、今どこ?ええ、あら、いやだ…そうなの」 相手は、兄貴らしい。 「あなた、電車が止まっていて、さっきやっと動いたんですって。周一、こっちに来るの一時間くらい遅れるって」 母親の言葉に、親父は少しだけ眉をひそめて、それから時計を見て言った。 「だったら、その時間に駅で拾うから、着いたら電話するように言いなさい」 俺も、時計を見た。 (それなら……) 「親父、俺も、駅で拾ってくれよ」 「は? 何を言ってる」 「頼むよ、ちょっと寄りたい所があって」 「寄るって、どこに」 親父の声を聞きながら、俺はもう玄関に出ていた。 「ちょっと、周介、どこ行くのっ」 電話を切った母親が慌てて追いかけてくる。 「市民会館。一時間後に駅にいるようにするから」 「周介」 俺は家を飛び出して、バス停に走った。 タイミングよくきたバスに飛び乗った。これなら、ちょうど開場時間に間に合う。 ひょっとしたら、一番かも知れないな。 えらく気合が入っているみたいで恥ずかしいけれど…前原もまさか朝イチでは、来ないだろう。 工藤の絵を見たら、すぐに出ればいい。 市民会館前で降りると、 (工藤……?) 入口に工藤らしい後ろ姿があった。 係りの人がドアを開けたとたん、中に飛び込んで行く。 アイツも用事があるとか言ってたけれど、やっぱり自分の作品だから、一番に見たかったんだな。 (どうしようか) 工藤と中で鉢合わせするのも恥ずかしい気がした。 いや、俺よりも、工藤が恥ずかしがるのではないかと思って、躊躇した。 ここまで来たけれど帰ろうか、と足を止めた時 『一度、見ろよ』 三隅の声が聞こえた。 見たかった。 せっかく来たんだし。 工藤と偶然一緒になったのも、おめでとうって言えってことだ。 俺は、思い直して、会館に入った。 一階のホールには、他にまだ誰もいなくて、工藤は一枚の絵の前に立っていた。 後ろ姿に声かけようとして、俺は、その絵を見て固まってしまった。 (あれは……) 例えば――誰かが描いた絵を見て、少しくらい似てるからって――すぐに『モデルは俺だ』などと思うほど、俺はナルシストではない。 そんな絵を見る眼だって、持ってない。 ましてや、工藤が描いた卒業制作が―――。 けれども、その、工藤がたたずんで見ている絵の少年が着ているのは、俺が小学校の頃一番好きだったブルーのセーターで、模様のひとつひとつもひどく懐かしくて……そして、あの教室は、間違いなく俺たちの教室で…… 「工藤」 呆然と名を呼ぶと、工藤はビクッとして、ゆっくり振り返った。 「秋山君……」 俺の顔を泣きそうな顔で見つめる。 「ど、して……」 「やっぱり…行く前に、見ておこうかと思って……」 もう一度、絵を見る。 「あれ…俺か……?」 工藤の顔が、真っ赤になった。そして、俺はタイトルに気がついて、心臓が止まるかと思った。 『初恋』工藤葵 初恋? 俺は、その言葉の意味を見失いそうになった。 どういうことだ? (初恋…工藤が……?) 「あれ…あの、タイトル……」 「ごめん……」 工藤が小さく呟いて、うつむく。華奢な肩が小刻みに震えている。 まつげを伏せた白い頬の上を、すうっと透明なものが滑り落ちた。 衝動的に、工藤の身体を引き寄せた。 小柄な工藤が、すっぽりと俺の腕の中におさまる。 信じられない。 工藤は、俺の腕の中でじっとしていた。ドクンドクンと激しく鳴る俺の心臓の音をどう聞いているだろう。 (工藤が…俺を…俺を……) 「工藤」 愛しさに、胸が詰まる。 「俺も、お前が……初恋だった」 工藤が、ゆっくりと顔をあげた。 涙にぬれた瞳が、俺を見つめる。 「ずっと、お前のことが、好きだった」 長い間閉じ込めていた想いを告げると、俺は、もう一度強く工藤を抱きしめた。 |
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