「大丈夫?秋山君」
便所から出てきた俺を、心配そうに前原が見上げる。
「ああ」
「部屋、戻れる?」
「……ちょっとだけ休んでから戻るワ」
俺はラウンジのソファに腰を下ろした。

 宿泊客同士の宴会は、十二時すぎになってようやく終わった。今、ラウンジには俺たちのほかに誰もいない。
俺はわざと飲みすぎてオーナーに叱られてしまったほどだったが、一度吐いたらすっきりして、酔いつぶれて寝るというのは無理そうだった。
「ついてようか?」
「いらねえよ」
前原の申し出に、しっしっと手を振って断ると、前原は笑った。
「大丈夫そうね」
「ああ」
「じゃ、また明日。朝までここで寝てたら、叩き起こしてあげるね」
「頼むよ」
前原がいなくなったのを確認して、俺はソファに横になった。
明かりを消した真っ暗なラウンジ。朝まで、ここにいるつもりだった。
目を閉じると、工藤の顔が浮かぶ。
水に濡れた白い肌が浮かぶ。
そして、いかがわしい想像。
高橋に圧し掛かられて、工藤が白いのどを仰け反らす。固く閉じた瞳、薄く開いた唇。ゆっくりと腕が、高橋の背中に回る。
(やめろ……)
両腕で目を覆っても、その姿は闇の中にますますハッキリと浮かび上がって、俺の身体を熱くした。
(工藤……)

 とても眠れそうにない。
起き上がって頭を抱えた時に後ろで微かに人の気配がして、俺はギクリと振り返った。
「……高橋」
ラウンジの入口に、まるで幽霊のように高橋が立っていた。
「……どうした?」
尋ねる俺の声も死人のようだ。
高橋は何も言わず、俺の反対側のソファに座った。自分のつま先を見るようにうつむいたまま動かない。
居心地の悪い沈黙が続いた。
(どうして……)
どうして、高橋がここにいるんだ。
高橋が部屋に戻ってから二時間は経ってる。工藤のことはどうなったんだ。
聞きたくても何も言えずにいる俺に、突然、高橋が言った。
「部屋、帰れよ」
(何だって?)
「工藤は?」
「……寝てる」
それは、どういう意味だ。
『ヤったのか?』と、ひと言聞けば、済むことだ。
けれども今の高橋に、そんな軽口は叩けなかった。それ程、目の前のヤツは落ち込んでいる。
それは、つまり……できなかったということなのか?
自分勝手なホッとする気持ちと、気の毒な高橋に同情する気持ちが、ない交ぜになったその時、
「さっさと戻れよ。俺にそのツラ見せんな」
「なっ…」
マジでムカついた。
「お前なあ、人、部屋から追い出しといて、何だよ、それは」
「…………」
「お前が、部屋空けろって言ったから、そうしてやったんだろ?で、できなくって八つ当たりかよ」
勢いで言い捨てると、高橋が喚いて、その声にハッとした。
高橋は苦しそうに、両手で顔を覆って言った。
「頼むよ、秋山……俺の前から…消えてくれよ……」
高橋は、泣いていた。
俺はどうしていいかわからず、かける言葉も見つからず、ただソファに座って黙って見つめた。
「頼む……一人にしてくれよ……」
高橋が、もう一度言ったとき、俺はゆっくり立ち上がった。
(高橋……)
呼びかけようかと思ったが、高橋の全身が俺を拒絶していたのでやめておいた。
俺は、静かに部屋に戻った。


 部屋に入る前に少しだけ緊張したが、中を覗くと、確かに工藤は寝ているようだった。
そっと近づいて顔を覗き込む。
わずかに苦しそうに寄せられた眉、しっかりと結ばれた口許。いつも震えがちな長いまつ毛は、今はピクリとも動かない。
よく寝ているようだった。
額にかかる髪の毛に思わず手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。
(何も、なかったのか…)
俺は、自分のベッドにもぐった。
この部屋に、俺と工藤の二人きりだという誘惑。けれどもそれ以上に、ラウンジで見た高橋の方が気になって、結局、眠れない時間を過ごした。

明け方ウトウトしたところを、この一週間聞きなれた電子音が容赦なく、起こしてくれた。
「高橋?」
高橋のベッドは空だ。結局アイツは、あのままラウンジに一晩いたのだろうか。

振り返って、工藤を見た。
いつもなら、目覚まし時計の電子音で真っ先に起きるのは工藤なのに、今日はまだ眠っている。
「おい、工藤、朝だぞ」
声をかけたけれど、動かない。
心なしか、顔に赤味がさしている。
「工藤?」
軽くゆすったら、苦しそうに顔をそむけた。
「おい、大丈夫か?」
顔に手を当てたら、熱かった。
「熱?」
俺は慌ててジーパンを穿くと、オーナーの奥さんを呼びに行った。


「顔が赤くて熱があったから、軽い風邪だと思うけど、よく寝ていたから起こさなかったわ。後でまた様子をみましょう」
オーナーの奥さんが、何でもなさそうに言ってくれたのでホッとした。
「大丈夫かしら?」
前原は心配そうだ。
「やっぱり、お酒がいけなかったんじゃないかなあ」
配膳用のトレイを抱えて、頬を膨らませている。
「ほら、翔子ちゃん、工藤君の分もがんばってちょうだい」
カウンターに戻った奥さんがサラダの皿を次々に出す。
「はいはい、はい、っと」
前原は手際よく皿をトレイに並べていく。
俺たちも、いつもの仕事に取り掛かった。
高橋は、あれからずっとラウンジにいたらしい。朝、俺の顔を見ても、何も言わなかった。俺も、あえて話し掛けることはなかった。
俺たちは、黙々と作業した。宿泊客の朝食が終わる頃、いつのまにか工藤の様子を見に行っていた前原が、ひどく慌てた様子で戻ってきた。
「叔父さん、大変っ、工藤君が…」
部屋で吐いてしまったというので、オーナーは俺たちの部屋に走った。
前原も俺も後に続いた。
ベッドの上で、工藤は、いつもにまして白い顔をしていた。
「大丈夫かい」
「すみません…急に気持ち悪くなって」
前原が渡したタオルで口許を拭っている。
「ひとりで寝ていれば、治りますから」
布団を引き寄せ、その中にもぐりこむように縮こまる姿は、たよりない子供のようだ。
「そうは行かないよ。病院に行かないと」
「いいえっ」
突然、強い口調になったので、オーナーも前原もビックリしたようだった。
「僕、風邪ひくと、よくこうなるんです。そう、風邪です。寝ていれば、治りますから……」
工藤は、下を向いたまま言った。
「すみません、今日だけ休ませてください。ひとりで寝ていれば、治ります。ご迷惑お掛けしますけれど……」
ひとりで、を強調したように聞こえた。
「いや……」
オーナーは困ったように
「それじゃあ、とにかく、一日様子を見て…もし、酷いようなら救急車だぞ」
俺たちの方を見て頷いた。前原が心配そうに頷く。
「すみません」
そうひと言いって、工藤は横になった。
そっと背中を向ける様子に、拒絶されたように感じた。
振り返ると、俺の後ろに青い顔をした高橋が立っていた。
俺は目で促がして、高橋をペンションの裏に連れ出した。

「お前、昨日は、何もなかったんじゃないのか?」
「何もなかったなんて、言ってない」
高橋は、こわばった顔で、俺の目を見ずに応えた。
「できなかったんじゃないのかよ?」
こんなときに工藤のバージンが気になるなんて、俺もサイテー野郎だ。
「できなかったよ、最後までは…アイツ、気絶しちまったし」
下を向いた高橋は、吐き捨てるように言った。
「なっ……」
カッときた。
気絶するまで、何をしたって言うんだ。
握り締めた右手に力が入ったが、その拳を振り上げることはできなかった。
下を向いた高橋は、ひどく傷付いた顔をしていた。
「高橋……」
高橋は、ズルズルとそこにしゃがみこんだ。
高校に入ってからますますでかくなって、軽く百八十は超えそうな大男が、とても小さく見えた。
「俺…どうしたら……」
高橋は、しゃがんだまま肩を落として、地面を力なく叩いた。
「俺、どうすりゃいい」
どうすればいいのかという問いかけは、俺に向けられているものじゃなかった。
俺は、それ以上その場にいることに耐えられず、高橋を一人残してペンションの中に戻った。

「どこ行ってたのよ」
前原が、俺たちを捜していた。
「別に」
「何か、変」
前原が怖い顔をして俺をにらむ。
「何があったの?」
「俺にだって、わかんねえよ」
うすうす想像はついた。
昨日の夜、高橋は、やっぱり工藤を襲ったんだ。
けれども、最後まではできなくて――そして、工藤に拒絶されてへこんでいる。
(馬鹿なヤツ……)
そう思ったが、その高橋に苦しいほど嫉妬している自分を感じる。
一体、何があったんだ。
あの二人の間に。


「帰っちゃうの?」
「うん、ごめん」
 風邪だと言い張っていた工藤は、一日休んだ次の日、ペンションのバイトを辞めて、東京に戻ると言った。
「ここで休めばいいじゃない。バイトしなくっても。ベッドはあるんだから、無理して東京に帰らなくても、ここで…」
前原は、しつこく工藤を引き止めて、元気になったら一緒に東京に帰ろうと誘っていたが、
「そういう訳にはいかないよ」
控えめながらも、工藤は譲らなかった。
工藤は、ずっと俺たちと目を合わせなかった。高橋も、工藤に近づかなかった。
正直、前日、部屋の空気の重さに辟易していた俺は、工藤が東京に戻るのには賛成だった。
工藤のことは気になったが、ここで三人一緒の部屋にいるのは、お互い辛い。

 そして工藤がいなくなった後の四日間は、想像以上にあじけなかった。

 俺も高橋もギクシャクとした空気を拭いきれず、何かを感じているらしい前原もいつもの明るいノリをどこかへやってしまっていて、俺たちは、バイトが終わるのを指折り数えているような有様だった。


 東京に帰ってからの一週間は、全く手をつけていなかった宿題を片付けるので終わってしまった。数学の問題を解いているときにも、英文を訳しているときにも、工藤と高橋の顔がしばしば浮かんできたけれど、俺が心配することじゃないと自分に言い聞かせた。
そして、明日が始業式という夜、高橋から電話がかかってきた。
「元気か?」
自分の方がよっぽと元気無さそうな声で高橋が言う。
「こないだ別れたばっかだろ」
「宿題、済んだか?」
「まあな」
高橋は、しばらく黙った。
「何だよ、写させてやろうか?」
「ん、ああ」
別に宿題を写したくて電話してきたんじゃないというのは、俺だってわかっている。
「何だよ、高橋」
口の重い高橋に、俺の方から尋ねた。
「工藤のことだろ?」
高橋はしばらく黙っていたけれどポツリと言った。
「俺、工藤に会ってきた」
「うん」
「それで…あの夜のこと謝った」
「…うん」
その夜、二人に何があったかなんて、本当のことは知っちゃいない。
「俺たち…今まで通りだから……」
高橋の言葉の意味が、よくわからなかった。
今まで通りというのは、工藤と高橋はまた付き合うということなのか?
「だから…明日会ったときも…普通にしてくれよ」
「普通にって、何だよ」
「ああ、えっと…一学期と同じようにってこと…」
「別に、同じだろ? 何か変える必要があったのか」
「いや……」
高橋は、また黙った。
「何だよ」
「秋山……」
高橋が何か言いかけた。
俺は、辛抱強く次の言葉を待ったけれど、
「いや……何でもない」
ゴメン、と高橋は謝った。

 俺は、受話器の向こうの高橋の顔が見えないことがもどかしかった。







 朝、教室に入ると工藤が俺を見て笑った。
「おはよう、秋山君」
久し振りに見る工藤の笑顔は、眩しかった。
「ッス、具合は、もういいのか?」
「うん。あの時は、心配かけてごめんね」
「いや」
「あれから、前原さん一人で大丈夫だったかな」
「工藤がいないから、つまらなそうだったよ。なあ、高橋」
「ん?ああ」

 そして、工藤が帰った後どうだったとか、あれから釣りには一度も行かなかったとか、そんな適当な話題で、俺たちは互いの距離をはかった。
あの日の工藤はただの風邪で、前日の夜のことも、何も無かった――
三人とも、そう思おうとしているようだった。


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