中学三年生の一年間を必死に勉強したかいあって、俺も高橋も無事に星城に合格(うか)った。
入学式の朝、掲示板に貼られたクラス編成表を見て、俺は息を飲んだ。
俺のクラス一年一組に工藤葵の名前があった。
(工藤……)
明るい色の髪が、大きな瞳が、薄桃色の唇が、脳裏に浮かんだ。
心臓の鼓動を鎮めるようにゆっくり視線を巡らすと、同じく高橋の名前もあった。

ここでも、腐れ縁か。

ふっと緊張が解けて口許が緩んだとき、視線を感じて振り返ると、周りの人間より頭一つ抜き出た高橋の長身が目に入った。
「よう、高橋、俺たち同じクラスだぜ」
そう呼びかけて俺は、高橋の隣に工藤がいるのに気が付いた。
「ラッキー!工藤は?一緒じゃないのか?」
高橋は、脳天気な声を出して掲示板を見上げる。
「あっ、工藤も一緒だよ。すげえ、すげえ偶然じゃん?」
その間、俺は硬直したまま工藤を見つめた。
工藤もまた、俺をじっと見上げている。
白い小さな顔の中の大きな目が丸く見開かれている。
さっき頭の中に浮かんだ顔、そのまんまが、今、目の前にあった。
「どうした?」
高橋君の言葉で我に返った。
「なんで、高橋が、工藤と一緒にいるんだ?」
つい、問い詰めるような口調になった。
「ここにくる途中で、会ったんだよ」
「ふうん」
落ち着かない気持ちで見ると、
「じゃあ、入学式で」
工藤は軽く頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。
それを高橋が呼び止める。
「何でだよ、工藤。せっかくなんだから、一緒に行こうぜ」
「えっ」
「ほら、俺たち外部じゃん、色々教えてくれよ」
高橋は工藤に笑いかける。
工藤は、ほんの少し困ったような顔で、チラリと俺を見た。
嫌がっているようにも見えたが、そのまま俺たちと一緒にいた。



 高橋は、しつこいくらいに工藤に話し掛けていた。
工藤はその一つ一つに、考え考えといったように応えている。
高橋は、決して饒舌じゃない工藤の言葉をじっと待っている。
その様子を見ると、胸がざわついた。
「お前、工藤、かまいすぎじゃねえ?」
つい余計なことを言ってしまう。
「だから色々教えてもらいたいんだよ。購買とか、あと、部活のこととか、なっ」
そう言って高橋は、工藤の頭に手を乗せてくしゃっと撫ぜた。
やわらかそうな髪が高橋に乱されるのを見て、ほんの一瞬、ひどく嫌な気持ちがした。
「部活は……僕、入っていないから」
「あっ、そうなの?」
「それに、部活だったら、こんどオリエンテーションがあるから、その時、聞けばいいよ」
高橋の懸命のアプローチが肩透かしに終わったようで、可笑しくなった。
思わず笑ってしまうと、工藤の顔に血が上った。ふわっと頬が染まる。耳たぶまで薄く赤くなるのは、小学生のときのままだ。
「工藤、変わってないな」
そう言ったら、工藤の瞳が一瞬揺れた気がした。





 高橋が、工藤に何かとかまうのを見るたびに、胸の中がざわついていた。
(ひょっとして、コイツも工藤のことが好きなのか)
そう思っても、口に出して訊ねることは出来なかった。
俺たちは、親友と言っても、今まで恋愛沙汰で相談し合ったことはなかった。
その話題を避けていたと言う訳じゃない。お互いに好きな女が出来なかったからというのが、単純な理由だ。
「女といるより、男同士でつるんでる方が楽しいよな」
高橋は、よくそう言っていた。
俺も、そうだと思っていた。

 あれは、中学一年の終わりのバレンタインデイだった。
俺も、高橋も、同じクラスの女子からチョコレートを貰った。
俺は、甘いものはそれほど好きでもなかったけれど、チョコレートをもらったと言う事実は単純に嬉しかった。
そして、俺の貰ったチョコレートの中に、中学生が買うにはバカ高いチョコがあったのに気が付いたのは高橋だった。
「すっげー、これ、三越でしか売ってねえヤツだぜ」
「そうなのか?」
「ああ、うちの姉ちゃんが、昔自慢していたのと同じやつだよ。食わせてもらえなかったけど」
高橋は、男のくせに甘いものが好きだ。
「どんな味、すんだろうな」
瞳を輝かせて俺のチョコレートを見る高橋を、ちょっと可愛いと思った。
「よだれ、出てるぞ」
俺は、そのチョコレートを高橋にやった。
「ほら」
今思えば、失礼な話だ。わざわざ、中学生の小遣いで高いチョコレートを買って来た女の子の気持ちを考えれば。
けれどもその時の俺は、高橋を喜ばせてやろうとしか思わなかった。いや、その陰には、優越感が全く無かったといえば嘘になる。
そんな子供っぽい考えで渡したチョコを、高橋は
「いいの? サンキュー」
嬉しそうに受け取って食べた。
「うっめー。やあらかいぜ。やっぱ、高いだけあるよなあ。秋山も食う?」
「いらね。お前、全部食えよ」
虚栄心と優越感を満足させたしっぺ返しは、すぐにやって来た。


「秋山君、良子のあげたチョコレート、食べないで、あげちゃったんだって」
険のある声で突っかかってきたのは、その良子の友人の女だった。
「ひどいじゃない。良子、一生懸命、買いに行ったのにっ。あれ、すっごく高かったんだからねっ」
そいつは眉を釣り上げて俺に詰め寄って来た。その後ろで、同じクラスの山本良子はベソベソ泣いていた。
正直、悪いという気持ちより、困ったという気持ちの方が強かった。
「あやまんなさいよっ」
その女が――実は、もう名前を覚えていない――俺を突き飛ばしたとき、高橋が割り込んできた。
「うっせーなっ! 秋山が貰ったもんどうしようと、秋山の勝手だろっ」
俺は、驚いた。
俺がやったチョコレートをぺろりと食べたその男は、全く悪びれずに、その贈り主と友人に言い返した。
「一度やったものが、そのあと捨てられようが犬に食われようが、関係ねえだろっ。それともお前、今までひとにやったもの、全部最後まで追っかけて、気に入らなかったら文句言いに行ってんのかよ? ああ?」
すごい理屈だ――と思った。
俺は、可笑しくなって吹き出した。
ゲラゲラと笑う俺を見て、高橋は大人しくなり、女は顔を真っ赤にして、いっそう大泣きする山本良子を庇うように席に戻って行った。
そして、それからしばらくの間、俺と高橋はクラスの女たちから総スカンを食った。首謀者はあの女だったな。
「女といるより、男同士でつるんでる方が楽しいよな」
このときも、高橋はそう言った。俺は笑って頷いた。
クラスの女子からの総スカンは、長くは続かなかったけれど、それ以来、俺と高橋はバレンタインデイにチョコはもらわないと決めていた。
二人の間に女の話題が出ることもなかった。
健全な男子としては如何なものかとも思うが、俺自身、翌年のバレンタインデイには心の中に想うヤツが出来ていた。

 そいつは、女じゃなかった。








 高校に入って最初のイベントと言っていい球技大会が近づいてきて、誰がどの種目に出るのかなどが頻繁に話題になっていたある日。
テニスに出ることにしていた俺は、高橋に言った。
「高橋、俺とダブルス組もうな」
今までの俺たちの関係からいったら、ごく当然の話だ。
ところが高橋は、一瞬、困ったように俺を見て、
「そのことなんだけど、俺、工藤と組もうかと思うんだけど」
と、いきなり言った。
「なんで?!」
工藤が叫んで、目を瞠る。
「だって、工藤、運動……その、苦手だろ?俺が、ちょっとでもカバーできればとか、思ったんだけど……」
工藤を見る高橋の瞳がひどく優しげに見えて、俺の心はささくれだった。
(なんで、コイツ、そんな顔して工藤を見るんだ)
そして工藤の大きな瞳が、高橋をじっと見つめる。
動揺に潤んだ瞳は、見ようによっては、どこか艶めかしい。
「ちょっと待てよ、だったら、俺はどうなるんだよ」
俺は、自分でも驚くくらい不機嫌な声を出した。
「お前なら、誰と組んでも、いいとこまで行けるよ」
高橋は、あっさりと言ってくれた。
かっと血が上った。
「お前の親友は、俺じゃなかったのかよ」
俺は、怒っていた。
俺の申し出を断った高橋に? ――違う。俺よりも先に、工藤に申し込んだ高橋に。
そうだ。そのとき気が付いた。
俺だって本当は、工藤と組みたかったのだ。
工藤に『一緒に組もう』と、言いたかったのだ。
けれど、親友という特別な存在がそれを許さなかった。

なのにその親友は、俺という親友がありながら、まっすぐ工藤を見つめ、そして誘った。

『お前の親友は、俺じゃなかったのかよ』
胸の内に繰り返す、空々しい言葉。
俺は、舌打ちして教室を出た。

 その日から、高橋と口を利かなかった。いや、顔すら見ないようにした。見たくなかった。
俺は、自分の気持ちを持て余していた。
高橋は、俺にとって一番の親友だ。小学校の六年のときからずっと一番近くにいた。
子供の頃の思い出の殆どを共有している。
実の兄弟以上に仲が良いと、互いの親にも言われたものだ。
その高橋が俺から離れていく寂しさ。それにもまして苦々しいのは、高橋が見つめる先にいるのが、工藤葵だということ。

 工藤葵。

 高橋も、工藤のことが好きなんだろう。
俺と高橋はよく似たところがある。いや、一緒にいるうちに似て来たのかも知れない。
ともかく、趣味が似ているのだから、互いに、同じヤツを好きになってもおかしくない。
高橋のことを考えれば、ここで俺が諦めればいいだけだ。
高橋は、いいヤツだ。本当に、いいヤツだ。
(俺が、諦めればいい…)
そう思うと、胸が締め付けられたように苦しくなって―――俺は、逃げた。あの二人の見えないところに。


 そんなある日の朝。高橋が、緊張した声をあげた。
「工藤、どうしたんだ?」
駆け寄る高橋の前には、工藤がいた。左手首に包帯が巻いてある。その白さに、ギクリとする。
高橋が切羽詰った様子で、詰め寄っている。
気になって、俺も立ち上がった。
「お前……わざとやったのか?」
高橋の声が聴こえた。
(わざと? わざと怪我した?)
すぐに球技大会のことが浮かんだ。
と、工藤が、いきなり駆け出した。
「工藤っ」
工藤を、高橋が追う。
俺も、その後ろを追いかけた。


 体育倉庫の裏で、二人が話している。
近づこうとして、足が動かなくなった。
工藤が、泣いている。
「ちがっ」
「何で、そんなことしたんだよ」
「違うよっ、怪我なんかしてないっ」
工藤が、ぽろぽろと涙を零しながら、左手首の包帯を解いていく。
「嘘なんだっ。怪我なんか、してないっ」
工藤が、崩れるようにうずくまった。
「なんで?」
高橋が尋ねると、工藤は、泣きじゃくりながら、途切れ途切れに応えた。
「あき…秋、山君と……」
(俺?)
「仲、なおり……喧嘩…して、ほしく、ない…」
工藤が、泣いている。
「嫌、だ……」
工藤が、泣いている。
その姿は、俺の胸を締め付ける。
(工藤……)


「聞いたか、秋山」
ゆっくりと、高橋が振り向いて俺を見た。
俺が追いかけてきたことを知っていたのか。
「俺たちが、喧嘩してると、工藤が泣くんだよ」
顔をあげた工藤と目が合った。
白い、小さな顔、無防備な――俺の背中がゾクリと震えた。
喘ぐように薄く開いた唇を見た時、抱きしめたい衝動に襲われた。
けれども、高橋の声が俺を押し留めた。
「俺は、工藤を泣かせたくない。だから、仲直りしようぜ、秋山」
『俺は、工藤を泣かせたくない』
高橋の言葉を、胸の中でリフレインする。
ああ、俺だって、工藤を泣かせたくなんかない。
この、目の前の工藤の涙が俺のせいなら、俺は、その詫びに何でもする。
「……わかった」
俺が、ボソリと応えると
「前に聞いたよな『お前の親友は、俺じゃないのか』って」
高橋が凛とした声で言った。
「お前の親友は、俺だよ。そして、俺の親友もお前だ―――高橋昭の親友は、秋山周介だ」
そして、静かに言葉を続けた。
「でも、俺が、一番好きなのは―――工藤葵だ」

 言われてしまった―― 予想は、していたことだ。
だけど、ずるいぜ、高橋。

『お前の親友は、俺だよ。そして、俺の親友もお前だ』
『高橋昭の親友は、秋山周介だ』

 そんな風に言われちまったら、俺には、もう何も言えなくなっただろう?

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