『あいつさ、工藤葵……ムカつくんだよな。さっき、俺が問題解けなかったの、笑ったんだぜ』 『なんか、あいつ見るとムカムカすんだよね』 小学六年の俺は、ガキだった。 一人の同級生に対する、得体の知れない胸のざわつき――それが、好きだからか嫌いだからか、そんな区別さえつかないくらいに、ガキだった。 工藤葵。 大人しい、ともすればそこにいることすら忘れられてしまいそうな、静かな少年だった。 休み時間に、俺や高橋、清水が馬鹿やって大騒ぎしているのを、静かな瞳で眺めていた。 いつからか、俺はその視線に気がついて、落ち着かない思いをすることが多くなった。 工藤が見ていると思ったら、いつも以上にはしゃいで、大騒ぎした。 何故だか、わからなかった。 ガキだったんだ。 工藤の前で、目立ちたかった――けれど、何故、工藤の前で目立ちたいのか、その理由はわからなかった。 ある日、授業中に寝ていた俺は、担任の横山に起こされて黒板の前に立たされた。 何とかなると思ってチョークを握ったが、何ともならず…… 「いや、なんか、解けそうなんだけど、ここまで、出ているんだけどさ」 「もういい、時間がもったいないから、早く座れ」 クラスメイトに笑われながら、俺は自分の席に向かった。 別に、笑われるのはかまわない。むしろ、笑いが取れて嬉しいくらいだった。 しつこいようだが、そういうつまんねえガキだったんだよ。俺は。 なのに、席に着く直前、工藤と目が合って、俺は笑われている自分がむしょうに恥ずかしくなった。 工藤は、頭が良かった。 休み時間も、静かに本を読んでいるようなヤツだったから、本当に勉強が好きだったのかもしれない。 国語の時間には、よく朗読をさせられていた。 柔らかな、よどみなく通る声。漢字につまることも無く、いつも先生に褒められていた。 そんなとき、あいつは睫毛を伏せて、ふわっと頬を染めた。色が白いから――色素が薄いんだろう。髪の色も、明るい茶色だった――耳の後ろがピンクに染まるのまでよくわかった。 俺は、その顔を見ると、胸がざわついた。 イライラした。 だから――勘違いした。俺は、あいつにムカつくんだ、と。 先生にちょっと褒められたくらいであんな顔する、あいつが気に入らないんだ、と。 それが本当に勘違いだったと自覚したのは、卒業間近になってから。二時間連続の図画の時間があった日だった。 「今日の時間は、写生、人物画です」 もうすぐ卒業するにあたって前の席に座るクラスメイトの顔を描くという言葉に、俺は一瞬、ドキリとした。 俺の前の席は、工藤だったから。 (工藤の顔を、描く?) 柄にも無く、緊張した。それが、何故かもわからず。 けれども、その工藤が言った。 「清水君、席、換わろう」 「えっ?」 清水は、驚いている。 「何で?」 「あっ、だって、清水君、仲いいし……」 俺は、カッと頭に血が上った。 さっき、緊張した自分が恥ずかしくて 「清水、かっこよく描いてやるから、俺もかっこよく描けよ」 わざとらしく大声で言った。 「おう」 清水は立ち上がって、工藤と席を替わる。 俺たちを真似して、何組かが席を移動しているようだったが、そんなことはどうでもよかった。 工藤が、俺を避けた。 そのことで、ずっと頭が一杯だった。 その日の放課後。 俺は訳の分からない胸の疼きを持て余しながら、だらだらと高橋と時間を潰すように遊んでいた。一人で家に帰りたくなかった。 図画の時間のことを思い出すのが嫌で、高橋と取りとめなくしゃべっていた。 さすがに、帰ろうかという時間になって、突然思い出した。 「あっ、悪りぃ、俺、忘れ物……」 「何だよ?」 「宿題帳、さっき返してもらったの、机に入れっぱなしにした」 俺が言うと、高橋は人懐っこい顔で笑った。 「取りにいくなら、一緒に行くよ」 陽が落ちかけている校庭から、もと来た道を教室に向かいながら謝った。 「ごめんな」 「いいよ」 高橋は、俺と並んで廊下を歩きながら、 「もうすぐ、卒業式だなあ」 しみじみとそんなことを言った。 「中学でも、俺たち一番の友達だよな。なっ、秋山っ」 「ああ」 「中学もっていうか、一生、友達だよな、俺たち」 小学生の言う『一生』――その重さなんて、その頃の俺たちにわかるはずもなかったが、それでも高橋の生真面目な顔に応えて、俺は大きく頷いた。 「当たり前じゃん、俺たち、親友だぜ」 「だよな。親友だよな」 子供のときのほうが、こういう話を真面目にできるものだ。 俺たちは、卒業間近になって、お互いに親友宣言をした。 教室に入ろうとして、人の気配に立ち止まった。 (だれか、いる?) 後ろの扉の窓からそっと中を窺うと、工藤がいた。 (工藤…何で?) 工藤が、泣いていた。 教室の壁を見つめて、ポロポロと涙を零していた。 そこには、皆が描いた六年二組のみんなの顔が貼ってある。 その壁を見つめて、工藤が泣いていた。 俺は、心臓を鷲づかみされたようになり、その場に硬直した。 工藤は、綺麗だった。 白い小さな顔に、大きな瞳から涙の粒が溢れて零れている。 赤く染まった目許、嗚咽を洩らしながら小さく震える薄桃色の唇。 小学生の俺が、初めて他人を綺麗だと意識した瞬間だった。 目が離せなくなって、その場に佇んだ。 どれくらいそうしていたのか、気がつくと、俺の隣で高橋も固まっていた。 「おい、帰るぞ」 小声で囁いて、高橋の腕を引いた。 「あっ、うん」 高橋の顔も赤くなっていた。 俺はそれが気に入らなくて、ぐいぐいと引っ張って、その場を離れた。 「あっ、秋山、ノートは?」 「いいよ」 そんなもの、もうどうでも良かった。 俺は、その時初めて知ったのだ。 工藤葵という同級生に、ずっと感じていた胸のざわつきの正体を。 俺は、工藤が好きだ。 工藤が好きだと自覚したところで、俺の日常は変わらなかった。 小学生の初恋なんて、そんなものだ。 「好きだ」 なんて、口にできるはずが無い。 しかも、相手は俺と同じ男なんだから。 その後、何事も無かったかのように卒業式を迎えて、俺と高橋は公立の南中に進んだ。 中学に入っても友達だよなと言った高橋の言葉どおり、俺たちの腐れ縁は続いた。一年、二年、と同じクラス。 「偶然でも気持ち悪いな」 俺が言うと、 「やっぱり赤い糸で結ばれてんだよ、俺たち」 うれしいわ、とかふざけてしなを作って、高橋が笑った。 中学二年の二学期の終わりだったか、日曜に高橋と出かけた。 駅前の大きな本屋の前を通りかかった時、 「あ、俺、買いたいマンガあったんだ」 高橋が、進行方向を変えて本屋に入った。 俺は、黙ってその後ろから付いて行ったが、突然高橋が立ち止まったので、危うくぶつかりそうになった。 「何だよ」 と、文句を言おうとして、高橋の視線の先にいる人間に気がついた。 (工藤?) 紺色のダッフルコートを着た工藤が、参考書の並ぶ棚の前に立っていた。 横顔には、小学生の頃の面影がそのまま残っている。すっと腕をのばしたその白い指と、袖から覗く華奢な手首に目を奪われた。 棚の本をそっと奥に倒す。 突然、小学校の図書室を思い出した。 そう、工藤は本を取るとき、必ずそうやって背表紙を奥に向けて倒した。 誰かが、工藤に尋ねたら 『手前に引くと、背表紙が痛むから』 はにかんだように、応えていた。 俺は粗雑な小学生だったから、そんな工藤を笑ったものだった。 俺たちの視線の先で、工藤は何も気づかずパラパラと本をめくって、そして棚に戻した。 探しているものは無かったのか、その場を離れて、工藤はハードカバーの並ぶ本棚にゆっくりと目をやりながら、そのまま店を出て行った。 立ち止まっていた高橋は、マンガのコーナーじゃなく工藤のいた参考書の棚に向かった。 腕を伸ばして取ったのは、さっき工藤が見ていた参考書だ。 俺は、瞬間、嫌な思いがした。 参考書をパラパラとめくりながら、高橋が言った。 「俺、高校、星城、受けようかな」 ドキッとした。 星城――工藤の学校だ。 「何で?」 俺の声は緊張して固くなっていたが、それに気がつかないほど高橋も慌てていた。 「えっ?ああ、いや、だって、その。あそこ、大学までエスカレーター式だろ?ここで頑張っておけば、高校三年の時、苦労しないで済むんじゃねえかな?」 参考書を棚に戻しながら、 「甘いかな、やっぱ」 顔を赤くした高橋が笑う。愛嬌のある八重歯が覗く。 男らしい顔なのに、妙に可愛く見えるときがあるのは、この八重歯のせいなんだろう。 俺は、ふっと笑った。 「いいんじゃねえの?」 そして、同じ参考書に指を伸ばした。 「俺も、お前と受けようかな……」 そっと、奥に倒す。 「えっ? 秋山も? うっそ、じゃあ本気でやっかな」 「ああ」 俺は、工藤の指を思い出しながら、ゆっくりとその本を引き出した。 |
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