そして、穏やかに日々は過ぎた。



 あの後、三隅さんに聞いた。
「なんで、あの日、教室に来たんですか?」
「ああ、葵ちゃんの好きな相手ってのを、よく見たかっただけ。なかなか、いい男だったじゃん」
「……もう、来ないでくださいね」
「そう言われると、行きたくなるなあ」
そんなことを言いながら、三隅さんが僕の教室に来たのは、あのときの一回きりだった。
そうしているうちに、人の噂も七十五日と言うけれど、僕と三隅さんの噂は次第に下火になって、いつの間にか消えていった。
やましくなければ毅然とした態度を取ればいいって、前原さんのアドバイスに従ったのが良かったんだろう。

もっとも、三隅さんについては、もっとすごい噂が生まれていたけど――ううん、噂じゃなくて事実か。

それはともかく、僕と秋山君、高橋君は、相変わらず。
『これからも、友達』
その言葉どおりの毎日だった。
二学期が終わり、三学期になっても、僕たちの関係は変わること無く―

そして二年の春、僕たちはみんなクラスが別々になった。

「なんか、きれいに別れたな」
クラス発表の掲示を見て、高橋君が溜息をついた。
「お前との腐れ縁も、これまでか」
秋山君が、笑った。
二人は、二組と四組。僕は六組で、いっこ飛ばしだから合同授業で一緒になることすらない。
「工藤、前原と一緒じゃないか」
「えっ、ああ、本当だ」
「いじめられるなよ」
高橋君が言うと、
「失敬ね」
後ろから声がした。前原さんが両手を腰に当てて立っている。
「げ、聞かれた」
高橋君が、八重歯を見せて笑った
僕も、笑った。
高橋君は、もう以前のように、思いつめたような瞳も困ったような微笑みも、僕に見せることは無かった。
あの一学期と夏休みの出来事は、僕にとって――まだ多少生々しいけれど――思い出と呼ばれるものに変わろうとしていた。不思議な熱を帯びた思い出の一ページ。



そして、美術部では、驚くべきことが起きていた。
「三隅さん……」
「ん?なあに?葵ちゃん」
「本当に、卒業しなかったんですね」

 三年生だった三隅さんは、二、三学期の試験を全てボイコットして、もう一年間三年生をやることになっていた。
あの、僕との噂を打ち消したほどの『もっとすごい噂』というのは、それだ。
「だって、葵ちゃんと離れたくなかったんだよう」
ふざけて抱きつこうとする三隅さんを避けて、ついでに片手で突き飛ばした。半年間の付き合いで、これくらいは出来るようになった。
「部長がいてくれたほうが、楽しくて良いですよ」
新しく三年生になった松浦さんが言う。そして、ついでのように
「でも、親は何も言わないんですか?」
訊ねると、三隅さんはケロリと応える。
「いや。親は、画壇デビューのとき高校生の方がインパクトあっていいって喜んでるよ」
「うそでしょ」
「ホント、ホント」
三隅さんのお家は画廊で、家族はお母さんだけだって聞いている。お母さんは、三隅さんに画家になって欲しいらしい。
「じゃ、デビューするまでここにいるんですね」
「うんにゃ。残念ながら、今度同じことやったら、留年じゃなくて退学させるって脅されたよ、高木に」
高木先生は、三年の学年主任だ。
「まっ、だから今年中になんかデカイ賞とって、画家デビューだな」
不敵に笑う三隅さん。
多分この人なら、やるだろう。
「何?葵ちゃん」
「えっ?いいえ……」
僕は、口許を引き締めて、
「じゃあ、また一年間、色々教えて下さいね。部長」
ぺこりと頭を下げた。
「色々教えて、なんて……葵ちゃんてば」
「絵のことだけです」
擦り寄る三隅さんを、両手で突き飛ばす。部室に笑いがおきる。


そして、日々は穏やかに過ぎていく。


新しいクラスで、新しい友達も出来た。
たまに、廊下で秋山君とすれ違う。
その時は、ごく普通の友達らしくちょっとした話をする。
秋山君と話しても、以前みたいに緊張することはなくなった。代わりにとっても温かな気持ちになって、そんな日はやっぱり一日幸せだった。
僕にとって、秋山君はいつまでも、初恋の相手として心の中の一番大切な場所にいる人だ。









「工藤先輩、卒業制作の題材決めました?」
「ん?……うん」
「何ですか?私、工藤先輩の描く絵、すごく好きなんです。暖かくて」
「……ありがとう」
「何を描くんですか?」
「……人物画……になるのかな」
「え?」
後輩の酒井さんが小首を傾げるのに、僕は微笑んで返した。

僕は三年生になった。大学はこのままエスカレーター式で上に行くつもりだから、受験勉強に時間を取られることもなく、おもいっきり絵を描く時間を作ることができた。
秋山君が外部の大学を受験するということを教えてくれたのは、高橋君だった。
「K大?」
「航空宇宙工学やりたいんだってさ」
「へえ」
「せっかく、ここ入ったのに……でも、アイツらしい」
「そうだね」
秋山君は、いつでもまっすぐ自分の夢を追いかける。エスカレーターの上に乗っかるなんて、確かに、似合わない。
「なあ、お前さ……」
高橋君が、僕の顔を覗き込んだ。ほんの少し心配そうな表情。
「何?」
「お前……秋山に……」
その先に続く言葉をさえぎるように、僕は話題を変えた。
「そうだ。今日、絵の具買いに行かないと」
「絵の具?」
「放課後、付き合ってくれる?それから、久しぶりに前原さんと秋山君もさそって、あの甘み屋行かない?」
「あ、ああ……」


『これからも……俺たち、友達でいてくれよな』
これからも、友達――ずっと、友達―――。


三年生になって、それぞれの進路が決まっていく。
卒業したら、顔を合わせることも少なくなるだろう。でも、僕たち四人は、ずっと友達。
そうだよね。



 高校の三年間が過ぎ去っていく。切なくて、苦しくて、甘くて――そして優しく、穏やかに変化していった僕の想い。三年と言う月日が、僕の中で、秋山君への想いを一つの形にしていく。それは、両手で包み込める綺麗な綺麗な珠のように。
その珠を抱いて、僕は、一つの作品を仕上げようとしていた。


「工藤、いいじゃないか」
美術部の顧問の森先生が、僕のカンバスを見て言った。
三隅さんがいる間、ほんとうに影が薄かった森先生は、今年は顧問らしいところを見せようと必死だと言う話もあるくらい、いろいろと動いていた。
ちなみに三隅さんは、有言実行。去年の秋、『彗星のように現れた天才高校生画家』と冠をつけられて、華々しく画壇にデビューして、今度こそ無事に卒業していった。三隅さんには、ずい分絵の勉強をさせて貰ったって感謝している。
「この表情が、いいな。うん」
先生に言われて、少し恥ずかしくなる。
僕のカンバスの中には、小学校の休み時間に見つめつづけた秋山君の笑顔があった。
人物画を描くと言ったとき、何人かモデルの申し出を貰ったんだけれど、僕には必要なかった。
目を瞑れば、浮かんでくるから。
教室の窓際の一番明るい場所で笑う秋山君。
友達の輪の中心に座って、だれよりも輝いている。
右手に紙飛行機を持たせたのは、航空宇宙工学科を狙っている秋山君に、ちょっとしたエールのつもりだけど。だれも、わからないよね。

 あの小学校六年生の時に、本当に描きたくて描けなかったもの――高校を卒業するに当たって、僕はあの秋山君の笑顔を描くことで、自分自身の初恋からも卒業したかった。
美術部の卒業制作の作品は、希望すれば校内に展示されたけれど、僕は出す気はなかった。
描き上げたら、そっと持って帰って、そしてしまってしまおうと思っていた。
「タイトルは、何だ?」
先生に尋ねられて、僕は、口ごもった。
憧憬……と、答えようかと思ったけれど。
「ちょっと……考えています」
「そうか。うん、俺は気に入ったな、この絵」
「ありがとうございます」

森先生と、美術部の数人しか知らない僕の作品。

卒業までのカウントダウンの始まった三学期。
美術部の外に立つ大樹もすっかり葉を落として、冬の弱々しい陽光をなんとか部室に入れようとしている。
その柔らかな光のもとで、ようやく完成した自分の絵を見つめた。
(できた……)
思いのほかの充実感を全身に感じていた時、森先生が言った。
「工藤、これ、市の絵画コンクールに出してみないか?」
「えっ?」
「せっかく、こんなによく描けたんだから」
「いえ……」
「卒業記念に出してみろ。お前、今まで一度もそういうものに出していないだろ」
「……ええ」
そのときの僕は、作品を仕上げた昂揚感に、少し酔っていたのかも知れない。
卒業記念――出してみようか。
普段なら、絶対に考えられない返事をした。
そして、応募用紙に記入する時も――僕は、ちょっと変だったんだ。

次の日、そのことに気がついて焦ったけれど、後の祭りだった。
(どうしよう……)
冷静に考えると血の気が引いたけれど、もう、どうしようもない。
自分で自分に言い聞かす。
(でも、入賞しなかったら、返ってくるだけだから……誰も見たりしない)
そのうち卒業式も近づき、慌しく日々が過ぎていって、そのことも忘れそうになっていた。


「秋山君が、職員室に来てたわよ」
そう声を掛けてくれたのは、前原さんだ。
外部受験の秋山君とは、当然クラスは別々で、彼の受験勉強の関係からも、もうずっと顔を合わせていなかった。
だからこそ、あの絵に集中できたのかもしれない。
「K大の結果、出たのかな」
「本人に、聞いてみれば?」
「う、うん……」
友達だから、普通だよね。
僕は、職員室に走った。
ちょうど先生との話が終わったらしい秋山君が、職員室から出てきた。
「あ、秋山君」
「工藤!」
久しぶりに見る秋山君。今日は、私服だ。
相変わらずの男らしい顔で、白い歯を見せた。
「うかったの?」
「ああ」
「おめでとう!」
僕は、思わず飛びつきそうになって、そんな自分にうろたえる。
両手を握って我慢して、顔が熱くなるのを意識しながら言った。
「本当に、おめでとう……やっぱり、秋山君は、すごいよ」
「ありがとう……いや、マジ、勉強始めたの、夏からだったから、ちょっと自信はなかったんだけどな」
『自信なかった』なんて、秋山君には似合わないよ。
「合格祝い……しようね」
「ああ、そうだな、俺も久しぶりにぱあっと遊びたいぜ。なんせ、この半年、ここでは少数派の悲しい受験生だったんだから。たまりまくりだよ」
「え?」
「いや、ストレス」
なぜか秋山君は、赤い顔をして口許を抑えた。

秋山君の合格祝いパーティーは、高橋君の仕切りで、懐かしいクラスメイトをたくさん呼んだ盛大なものになった。一年や二年の時のクラスメイトだけでなく、隣のクラスだった人までやってきて、今更だけど、秋山君がとっても人気者だったことを実感した。皆にお祝いを言われて、ときに小突かれたりして、その中心で笑う秋山君は、やっぱり眩しい。


 そんな風に過ごして、卒業まで日がなくなったある日。
僕は、先生から恐ろしい言葉を聞いた。




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