次の日。
二時間目と三時間目の間の少しだけ長い休み時間に、前原さんが来た。
「工藤君」
何だろう、顔が真剣だ。
「ちょっと」
手招きされて廊下に出ると、前原さんは僕の腕をつかんで、ズンズン歩き出した。
「ど、どうしたの?」
「いいから」
ひと気のない校舎の裏に連れて行かれて、僕は内心焦っていた。
いつもの前原さんらしくない。
前原さんは、僕の顔をじっと見て、声をひそめて言った。
「驚かないでね」
「な、何?」
「正直に答えてね」
「だから……何?」

「工藤君と『あの三隅先輩』が恋人同士だって本当?」

僕は、頭の中が真っ白になりかけた。
かろうじて、口を開く。
「なんで、そんなこと……」
「実は、私の友達の友達が、美術部なの」
友達の友達?
「それで、その子が私の友達に言ったの」
前原さんが、くっきりした眉を顰めた。
「工藤君と三隅先輩が、放課後、美術部の部室で抱き合ってた、って」
放課後……部室……昨日の?!
僕は、かあっと顔が熱くなった。
「ちょっとお、何、赤くなってんのよっ。否定しなさいよ、否定」
「否定、って……」
抱きしめられたのは、事実だ。
でも、そんなんじゃない。
「え、と……」
あれを誰かに見られてしまっていたのかと思うと、恥ずかしさのあまり言葉も出ない。
「本当なの?」
「ちっ、違うよ。違うっ」
慌てて大声を出すと、前原さんはホッとした顔をした。
「そう、そうよね」
そして胸の前で腕を組んで、唇を噛む。
「もう、節子たち、あることないこと……」
「あ……」
あることも……あるんだけど。若干。
「前原、何、やってんだよ」
校舎の陰から秋山君と高橋君が顔を覗かせて、僕はビクッとした。
「あ、何よ、あなたたち」
振り向いた前原さんは、ちょっとムッとした顔。
「お前がすごい勢いで葵をひっぱって行くから、ヤキでも入れられてんじゃないかって心配したんだよ」
高橋君の言葉に、前原さんはますます顔をムウッとさせた。
「なんで、私が工藤君にヤキいれんのよ」
「それくらいの、迫力だったんだよ」
秋山君も言う。
「一体、どうしたんだよ」
「何でもないわよ」
僕は、さっきの話が聞かれていなかったかとドキドキしたが、それは大丈夫そうだった。
(よかった……)

そう思ったのに――その噂は、僕の知らないところですっかり一人歩きしていたのだ。


昼休み、知らない女子がうちの教室を覗きに来た。
何気なく見ただけなのに、その人たちと目が合った。
「あ、あの子よ」
「うっそー、やっぱり男の子なんだ」
「最初から、そう言ってるじゃない」
僕の方を見て話している。
名札を見て、上級生だってわかった。
僕は、慌てて顔をそむけた。
前原さんの言っていた話がよみがえって、彼女たちが僕を見に来たのかと思うと羞恥に顔が熱くなった。
よりにもよってそんな時に、あの人は最悪の登場をした。
「葵ちゃーん」
三隅さんが、教室の後ろの戸口から入ってきた。他人の教室でも、全く躊躇しない。
「昼飯、食った?昨日のお詫びに、今日こそおごらせろよ」
秋山君と高橋君が、驚いている。
僕は、顔に血が上る。
教室前方の窓からはさっきの上級生たちが、興味津々という視線を送る。
「もう、食べていますから」
珍しく、秋山君、高橋君と三人でお昼を食べていた。
さっきの休み時間に二人が駆けつけて来たことで、何となく以前のようにうちとけた空気になって、今日は三人で食べていたのだ。
それなのに。三隅さんは、
「そんなこと言わないでさ。だったら、お茶。お茶ごちそうするから」
僕の肩に手を廻して、そして、秋山君をじっと見た。
(やめて)
僕は、昨日、『この三隅先輩』に全て打ち明けてしまったことを死ぬほど後悔した。
この人は、変人と呼ばれた人だったんだ。
恋愛相談なんて、柄じゃなかった――気がする。
今にも三隅さんの口からとんでもない言葉が出そうな気がして、僕は焦った。
「わ、わかりました、三隅さん」
僕は、立ち上がって、三隅さんを教室の外に追い出した。
秋山君のそばに近づけたくない。
「おっ、茶、飲む気になった?」
「どこでも付き合いますから、教室には来ないでください」
僕が言うと、三隅さんは、おかしそうにクククッと笑った。
(もうっ……)


「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
売店の自販機の七十円のインスタントコーヒーをご馳走になっている間、僕と三隅さんには妙な感じの視線が注がれていた。
この人と一緒にこんなところに来たのは大間違いだったと、今さらながら気がついた。
(僕は、バカだ)
落ち着かない思いで、急いでコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさま」
「早っ!」
「じゃあ、戻ります」
「もうちょっと、いいだろ」
「いいえ」
何が嬉しくて、わざわざ噂の提供をしないといけないんだ。

なんだかんだと引き止められるのを振り切って席に戻ると、秋山君と高橋君のところで、北沢君が何か話していた。
僕が戻ってきたのを見て、慌てて離れていく。
何か、以前も、こういうことあった。
あの時は、秋山君と前原さんの噂話だったけど。
ちょっと嫌な予感。

徐に立ち上がったのは、秋山君だった。
「工藤、ちょっと、いいか」





 黙って歩く秋山君の後ろをついて、旧校舎の屋上まで行った。
心臓がドキドキする。
周りに人がいないことを確かめて、秋山君はゆっくりと僕に向き合った。
「工藤……」
息が詰まりそうになる。
「お前が、高橋と別れたのって、あの三隅って先輩と付き合うためなのか?」
(秋山君……)
胸が、錐で刺されたように痛んだ。
「何でだよ」
秋山君の目が怖かった。
「あいつの、どこが、高橋よりいいんだ」
秋山君は、怒っている。
僕が、高橋君と別れたから?
「なあ、あの三隅ってヤツのどこがいいんだよ」
僕は、胸が詰まって言葉が出ない。
「あんなに……お前のこと好きな、高橋より……」
秋山君が、うつむいて地面を睨んでいる。
(秋山君……)
僕は、震える唇でようやく言った。
「何で……秋山君が……?」
何で、秋山君が、そんなこと聞くの?
秋山君は、一瞬息を飲んで、そして言った。
「俺は……あいつの……高橋の、親友だから」
(ああ……)

親友。
高橋君の親友の秋山君。
秋山君の親友の高橋君。
それじゃあ、僕は?
僕は……何?

目の裏が熱くなった。
泣きそうな自分を感じるけれど、泣いちゃダメだ。こんな所で。
秋山君の前で、泣いちゃダメだ。
唇の内側をぎゅっと噛んだ。

秋山君が、フェンスに向かって歩いた。
フェンスを握る指の、関節が白くなった。
「お前……あれだけ、高橋に世話になってたじゃねえか」
秋山君の声が、震えている。
僕が、親友の高橋君をふって三隅さんと付き合っていると思って、怒っているんだ。
違うのに。
「あんなに、色々、やってもらってて……」
秋山君の言葉に、不意に、僕の唇が動いた。
「人を、好きになるって……」
自分の口から出たのに、他人の声のようだった。

「人を好きになるのって、そういうんじゃないと思う」
「工藤?」
「よくしてもらったからとか、世話になったからとか……そういうんじゃない」
僕は、秋山君をじっと見た。
「その人が……例え、自分を見てくれなくても、構わない」

(秋山君……)

「僕が、その人を、見つめることが出来るだけで……その人の近くにいられるだけで……例え、その人の笑顔が、僕以外の人に向けられていても、その横顔を見られるだけで……嬉しい」

(ずっと憧れていた……秋山君)

「工藤……」
「人を好きになるって、そういう気持ちだよ」
高橋君に、三隅さんに、どんなに良くしてもらっても……僕が好きなのは、たった一人だ。その人の気持ちが、僕に向いていなくても……。

(秋山君……)

秋山君は、驚いたように目を瞠って、僕を見つめた。僕も、精一杯の気持ちでその目を受け止める。
秋山君は、まぶしそうな顔をして言った。
「お前……変わったな」
変わった?
僕が驚いて見つめ返すと、秋山君は優しい目をした。
「なんか、強く、なった」
強くなった?
秋山君の言葉に、僕の世界が変わる。
胸が熱くなる。

 僕は、ずっと変わりたかった。小学生だったあの頃の僕から。

「ありがとう……」
僕は、笑った。
笑わないといけないと思った。
秋山君に『変わった』と言われて、僕は、変わることが出来た。
「ごめんな、俺、余計なこと言った」
「秋山君」
秋山君は、僕の顔を見つめて、小さく微笑んだ。
「これからも……俺たち、友達でいてくれよな」
秋山君の右手が、僕の前髪を撫でるようにして、くしゃっとかきあげた。
そのまま、その右手を上げて、背中を向ける。
僕は、遠ざかるその背中を見つめながらしばらく呆然と佇んで、そしてゆっくりフェンスに身体を預けた。
秋山君に触られた額が、熱を持ったように熱く感じられる。
思えば、秋山君がこんな風に僕に触ったのって、初めてだ。
そっと、額に手を当てて、秋山君の右手の感触を思い出す。
(秋山君……)

『これからも……俺たち、友達でいてくれよな』

これでいい。
(これからも、友達……)
それで、いい。
目の奥が熱くなって、視界が霞む。
でも、泣いちゃダメだ。
僕は、変わったんだから。強くなったんだから。
秋山君が、そう言ってくれたんだから。
まだ、胸は、こんなに苦しいけれど――僕は、変われたんだから。




HOME

小説TOP

NEXT