「なんで……ですか?」
ようやくそれだけ言うと、三隅さんは
「何でって、俺が、葵ちゃんのこと気に入ったからなんだけど……?」
小首を傾げて、面白そうに目で笑う。
(ふざけているんだ……)
「すみません」
僕は、再び踵を返して、もと来た道を美術部の部室に向かって歩いた。
鞄をとりに戻らないと。
「ああ、ちょっと、待ってよ」
三隅さんは、僕の横に並んで歩きながら、
「それって、俺、フラれたってこと?」
絵の具で汚れた白衣のポケットに両手を突っ込んで、飄々と話し掛けてくる。
「…………」
「何で?俺のどこが、ダメ?」
「…………」
「これでも、けっこういい男なんだけど、わかんないかなぁ」
「わかりません」
僕は、キッと見上げて言った。
「僕は、三隅さんのこと殆ど知りませんし、どうしてその三隅さんが僕を気に入ったとか言えるのかも……全然、わかりません」
三隅さんは、立ち止まって僕の顔を覗き込むように見た。僕も、負けちゃいけないと思って、じっと見返した。
心臓が、ドクンドクンと音を立てた。
こんな風に、他人に向かって思ったことをはっきり言うのって、生まれて初めてかもしれない。いつも、言いたいことがあっても、何となく言わずに過ごしてきた。
そんな自分が嫌で、強くなりたいって思ったけど。
(こんな風に先輩に向かって口きくなんて……)
耳の後ろがかあっと熱くなった。
三隅さんが、じっと見る。心臓の鼓動にあわせて、激しく耳鳴りがする。
僕の緊張がピークに達した時、すっと目の前に影がさした。
(ひ……!!)
突然、三隅さんが、僕の鼻の頭にキスした。
僕は腰が抜けて、廊下に尻餅をついてしまった。


 べしゃっと座り込んだままの僕を見て、三隅さんはクスクス笑う。
僕はただただ、呆然と見上げるだけだ。
「いいなあ。こういう反応が、いいんだよね」
三隅さんが、僕に向かって右手を差し出した。
一瞬、夏休みに川で溺れた日の秋山君の右手と重なって、ドキッとした。
その時とは全く違う意味で、この手を取ることは出来なかった。
すると三隅さんは、両手を伸ばしてわきを支えて、僕を抱き上げるようにした。
「ちっ、やっ……やめて下さい」
「立てないんだろ?」
「ちがい、ます」
三隅さんの腕の中でもがいているとき、前方から人の来た気配にギクッとすると……
(秋山君……)
信じられない。
何で、こんなところで。
秋山君は、ちょっと驚いたように眉を上げて僕を見て、そしてその眉をそのまま顰めて、三隅さんを見た。
三隅さんは、悪びれる風も無く、秋山君を見返す。
僕は、居たたまれなくて、三隅さんの手を振り解いて、壁に背中をつけて自分自身を支えた。
三隅さんが、一瞬怪訝な顔をしたみたいだったけれど、うつむいてしまった僕には、その先は分からなかった。

 顔が熱い。


「工藤」
秋山君の声だった。
「俺、中里に明日のセッティング頼まれてんだけど、手伝ってよ」
「え?」
中里先生は世界史の先生で、黒板よりもプロジェクターを使った授業が多い。
明日の一時間目が世界史だったことを思い出した。
「俺と、浅田が週番なんだけど、アイツ帰っちまって」
ぼそっと言う秋山君に、
「う、うん」
僕は大きく頷いた。
「葵ちゃんてば」
三隅さんが、わざとらしく唇を尖らせて見せたけれど、僕は、見ない振りして頭を下げた。
「それじゃあ……」
秋山君と一緒に、視聴覚教室に向かう。
背中に視線を感じたけれど、それどころじゃなかった。
(ごめんなさい。三隅さん……)
並んで歩きながら、秋山君が言った。
「今の人、美術部の先輩?」
「……うん」
そして、沈黙。
何か話そうと思うのに、言葉が浮かばない。
「さっき……」
「えっ?」
秋山君を見た。
「いや、何でもない」
「……そう」
何だろう。
『さっき』何て、言いたかったんだろう。
僕は、自分の心臓の音を聞きながら、思いをめぐらせる。
僕が美術部に入ってから……ううん、本当は『友達としてやり直す』って決めてから、僕たちは一緒にいることが少なくなった。
秋山君と高橋君は、相変わらず親友同士で、僕もたまにその中に入れて貰って――でも、高橋君に自分の本当の気持ちを知られてからは、今まで以上に秋山君の傍にいることは緊張することで――結局、部活を理由に離れていた。

「なんだか、久し振りだな」
「え?」
「工藤と、二人だけで話しすんの」
「あ……うん」
「あのさ」
秋山君は、何か言いづらそうな顔をして、僕を見つめた。
「なに?」
心臓がドキンと鳴った。
「高橋と、別れたのか?」

僕は、どう応えて言いか分からずに、息を飲んだ。

秋山君の瞳が、僕を見つめる。
僕は、自分の唇が震えるのを感じながら、小さく呟いた。
「高橋君から……何か…聞いた?」

僕の問いかけに、秋山君は首を振った。
「何も……」
僕は、たぶんあからさまにホッとした顔をしたのだろう。秋山君の目がほんの少しおかしそうに、優しく細められた。
その表情にも惹きつけられてしまう。
「高橋は何も言わないけど、お前たちが一緒にいなくなったのは、見てれば分かるからな」
秋山君は、静かな口調で言った。
「……別れたんだろ?」
僕は、小さく頷いた。
秋山君は、複雑そうな顔をした。
「……なんで?」
「え?」
「何で別れたんだ?」
「…………」
(それは……)
どうしよう。
秋山君は、僕と高橋君のこと、どこまで知っているんだろう。
ふと、あの夏の夜のことを思い出した。
そして、高橋君の言葉。

『わざと言ったんだ。だったら一晩部屋を空けてくれって……本当に何とも思っていないんなら、俺が、お前をモノにすんのに、協力してくれって』

そうだ。秋山君は、知っていて部屋を空けた。

『秋山も、お前のこと……好きだぜ』

まさか―――。

秋山君が、本当に僕のことを好きだったら、絶対に部屋を空けたりしないと思う。
あの日、僕と高橋君に起こるかも知れないこと――起こったこと――僕が、逆の立場なら耐えられないもの。
だから、秋山君は、僕のことを好きじゃない。
そうだ。昔から、そうだったんだ。
でも、今、目の前にある秋山君は何だかすごく親しく感じられて……この関係を壊したくないって、心から望んでしまう。
「別に……理由は……」
僕が口ごもった時、後ろから大きな声がした。
「おおい、秋山」
振り返ると、同じクラスの浅田君だった。
「ごめん、俺、いたんだけど」
「あ、帰ったんじゃなかったのか」
秋山君の言葉に、浅田君は申し訳なさそうに頷く。
「ああ、ちょっと隣のクラスに……」
そして僕に気がついて
「あ、工藤、代わりにやってくれるつもりだった?」
「あ、う、うん……」
「わりぃ、やるから、俺」
ニコッと笑う。
僕は、どうしていいかわからずに立ちすくんでしまった。
「ていうか、俺、プロジェクターいじってみたかったんだよねえ」
屈託無い笑顔の浅田君に、僕はペコリと頭を下げて、その場を離れた。
「あ、おい、工藤」
秋山君が、僕を呼び止めた。
僕は、立ち止まって振り返る。
心臓が、また鼓動を刻む。
黙っている秋山君に、浅田君が怪訝な顔をする。
「えっと……また……後で」
秋山君が片手を上げて、僕は唇をきゅっと結んで頷いた。

美術部にもどらなきゃ。
鞄、置いてきているし。

そう思いながら、目の前が霞んできた。
何で涙が出るんだろう。
こんなことで、泣いていちゃダメだ。
あの日、たくさん泣いて、もう泣かないって決めたんだから。



   

 部室に入って、自分のいた場所に真っ直ぐ行った。
そこに置きっぱなしになっているはずの僕の鞄が無かった。
(あれ?ここに置いてたのに……)
電気を点けてよく探そうと、ふっと視線をめぐらした先、薄暗い壁際の椅子に人が座っていて、僕は思わず大声を上げるところだった。
三隅さんがいた。
膝の上に、僕の鞄が乗っている。
「み、すみ、さん……」
「お帰りぃ」
ニッと笑う。
どうしていつもいつも、こうやって驚かすんだ、この人は。
脱力して、イーゼルに寄りかかりそうになった。
「あ、あぶないよ」
「大丈夫です」
ふんばって立って、三隅さんに向かって手を伸ばした。
「握手?」
僕は、ムッとした顔をした。
「違うの?」
「鞄、返してください」
「あっ、これね」
僕の鞄を持って立ち上がると、
「待ってたんだよん。これがあるから、絶対、戻って来るってね」
肩に手を廻してきた。
「やめて下さい、三隅さん」
僕が眉間にしわを寄せると、三隅さんは面白そうに僕の顔を覗き込んで言った。
「さっきのアイツの前と、態度違う」
ギクッとした。
「な……」
「アイツの前では、可愛くうつむいたりなんかして」
「…………」
「葵ちゃんの好きな人って、彼?」
どうして、この人は……
「ね、どうよ、葵ちゃん」
三隅さんが、僕の耳元で囁く。
「葵ちゃんの好きな相手って、アイツなの?」
「ちが……」
違いますと答えようとして、不意に胸の奥が痛んだ。
違うと言ってしまったら、秋山君に対する想いを、自分で否定してしまう気がして。
「ち……」
違わない。
僕は、秋山君が好きだ。
秋山君の傍にいられるだけで、胸が高鳴るくらい。
秋山君と一緒に週番の仕事をするとか、そんな些細な事でも嬉しくなるくらい。
僕は、秋山君が、好きだ。
「う……」
気が付いたら、上履きの上にポトリと雫が落ちた。
「葵ちゃん?」
本当に、嫌になる。何でこんなにすぐに涙が出てしまうんだろう。
「葵ちゃん、泣くことないでしょお?」
僕は、顔を見られないようにうつむいて部室を出ようとした。
「ちょっと、待って」
三隅さんが、腕をつかむ。
思いっきり振り切ると、今度は肩をつかまれた。
「ああもう、泣かすつもりはなかったんだけど」
そのままぎゅっと抱しめられた。
「や……」
「ごめん。泣かないで、ね」
「やめて……下さい……」
自分の唇から漏れるのが涙声で悲しくなった。
(どうして、僕は、いつも……)
「ごめん」
「……ちがい、ます」
僕が泣いているのは、三隅さんのせいじゃない。
それすらちゃんと言えない自分が腹立たしい。大体、なんで僕は抱しめられているんだ。
両手を突っ張って身体をはがすと、三隅さんが、心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「……です」
鼻をすすって、手の甲で目を拭った。
早く帰ろうと思ったのに、三隅さんはそのまま僕を、さっきまで自分が座っていた椅子に引っ張って行った。
僕を座らせて、自分はその前に膝をついて下から見上げる。
「泣かせちゃったね」
大人が子供に対するような口調だ。
僕は、急に恥ずかしくなって首を振った。
「違います。三隅さんのせいじゃありません」
「ん?」
「僕は……」
言葉に詰まる。
「……三隅さんの、せいじゃ、ありませんから」
「そう?」
三隅さんは立ち上がって、別の場所からパイプ椅子を引き摺ってきて座った。
そして、優しい口調で言った。
「そんなに、好きなんだ」
僕は、うなずいた。
「泣くほど、好きなんだ」
もう一度うなずく。
三隅さんは、ふっと息を吐いて、そして笑った。
「いつから、片想い?」
僕は、ゆっくり顔を上げた。
「だって両想いなら、泣くことないでしょ?」
「……小学校…六年の時……」
僕が言うと、三隅さんは小さく「げっ」と呟いた。
それで、僕がまた下を向くと、
「ごめん、ごめん、いや、結構、長いなと思って……」
慌てたように言葉をつないだ。
「ずっと……好きだった、というのとは……違うんですけど……」
僕は、なんだかとても素直に話をしている。
「中学は……別々だったから……」
「ふうん……高校で再会したのか」
「はい……」
そして、三隅さんの言葉につられるように、僕は自分の気持ちを打ち明けていた。
今までずっと胸の奥に秘めていたものが、次から次に溢れてくる。
何でだろう、全部しゃべってしまいたかった。
高橋君にも、前原さんにも、誰にも言えなかったあの小学校の図工の時間の話まで。

 三隅さんは辛抱強く、僕の話を聞いてくれた。
たまに言葉に詰まる僕の肩をポンポン叩いたり、上手い言葉が見つからない僕に、オウム返しに聞き返してくれたり。気がつくと全部話し終って、辺りは真っ暗になっていた。
僕は、自分の膝しか見ていなかったから、それまで全然気がつかなかった。
一体、何時間話していたんだ?
顔を上げると、すぐ傍で三隅さんが僕を見つめている。
でも、その表情も、部屋の暗さにはっきりと読めないくらい。
「ごめんなさい……僕……」
「何を謝るの?」
「自分のことばっかりしゃべって」
「だって、俺が、聞きたがったんだもんね」
「こんな時間……」
「うん、そろそろ帰るか。送っていくよ」
「えっ、そんな、いいです」
「いいから、いいから」
三隅さんは、自分のと、僕のと、鞄を二つ片手に持って僕の背中を押した。
「ラーメン、おごろうか?」
「いえ……」
「じゃ、マック」
「……家に、夕飯ありますから」
「ちぇーっ、おごらせろよ」
唇を尖らす三隅さんの横顔に、ふっと笑いが漏れてしまう。
何だか三隅さんの存在が、僕の中で少しだけ大きくなった気がする。




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