翌朝、赤い目を気にしながら学校に行くと、昇降口に高橋君がいた。
(僕を、待っていたのかな……)
『また……友達として……やり直したい』
そう言ったら、高橋君は、頷いてくれた。
僕に気がついて、小さく微笑んだ。
その笑みは、まだどこかぎこちないけれど―――。
大丈夫。
高橋君となら、もう一度、友達としてやり直せる。
そう思うのは、傲慢だろうか?
「おはよう、高橋君」
「おはよう、葵」
僕たちは、並んで教室に入った。
秋山君は、まだ来ていない。

「よう!久し振り」
「高橋、焼けたなあ。どこ行ったんだ?」
クラスメイトが声をかけてくる。
久し振りに会う顔に、どこかはしゃいだ気分で夏休みの話題に花を咲かせるみんな。
いつも通りだ。
僕たちの間に、夏にあったことなど誰も気がつかない。
何となくホッとした気持ちで、席についた。
そのとき、秋山君が教室に入って来た。
心臓が、ドキンと跳ねる。
(落ち着け)
両手を握った。
僕は、昨日の夜、決心した。
強くなろうと―――。
臆病で、弱虫で、そのことでいつも後悔する―――そんな自分から卒業しようと。
だからと言って、秋山君に告白するとか、そういうんじゃなくて。
せめて、秋山君と友達でいられるように、それくらいには強くなりたいと思ったんだ。
「おはよう、秋山君」
席に近づく秋山君に声をかけると、
「ッス、具合は、もういいのか?」
目を細めて、僕を見た。
「うん……あの時は、心配かけてごめんね」
「いや……」
僕たちの様子をどこか心配そうに見つめる高橋君が、目の端に入った。
(大丈夫……)
僕たち三人とも、友達として、やり直せる。






 二学期が始まって、僕は部活を始める事にした。
「美術部?」
高橋君が、ちょっと驚いたように声を上げた。
あれから僕たちはほんの少しギクシャクとしたまま、それでも他のクラスメイトには気づかれないくらいに、友達としての日常を続けていた。
「うん」
「葵って、美術、好きだったのか」
「好きっていうか……」
何か始めようと思ったときに、運動系はからっきし駄目なので選択の幅はせまかった。
でも、美術部にしたのには、意味もあった。
「いつか……描きたいものがあって……」
「へえ、何?」
秋山君が、牛乳パックのストローから唇を離して、僕を見た。
僕は、一瞬、言葉に詰まる。
「……秘密」
「何だよ、それ」
秋山君が、片眉を上げる。
僕は、高橋君を振り向いて笑った。高橋君も、優しい目をして笑ってくれた。
高橋君は、約束したとおり、僕の気持ちを黙っていてくれた。
ときたま僕を見る目が切なくて、そのたび胸が締め付けられた。
部活を始めようと思ったのは、そのせいもあった。
もう一度やり直すために、少しだけ距離をおきたい――そう思った。




 一年生の二学期から部活を始める生徒というのは、少なくない。
二学期の最初の一週間は、四月の頃のように頻繁に部活の勧誘が行われる。
高校生活に慣れて余裕のできたところで、何か始めようかという生徒と、三年生が受験勉強――うちはエスカレーター式だけれど、それでも外部の大学を受験する生徒はいた――で抜けた穴を埋めたいというクラブの利害が一致するためだ。
勧誘にあまり熱心でない文化系のクラブも、一ヵ月後の文化祭にむけて人手を確保したいらしく、大掛かりな掲示で部員の募集をかけていた。
僕は、放課後、一人で美術部の部室に行った。
高橋君が『一緒に行こうか』と言うのを笑って断って。


「失礼します」
きしむドアを開けると、中には誰もいなかった。電灯も点いていなくて、窓にはカーテンがおりていて暗いまま。
(あれ?まだ、早かったのかな……)
ドアの横のスイッチを探して、明かりをつけた。
その途端、目の前に派手な色彩が飛び込んできた。赤、黄色、青、紫、緑、色の洪水。
(花……?)
抽象的なそれは、正体不明のまま僕の目を釘付けにした。
「だれだ?」
突然、すぐ後ろから声をかけられて、僕は心臓が飛び出るかと思った。
「ひ…」
振り返ると、背の高い、白衣を来た人が立っていた。髪の毛で顔がよく見えない。
白衣の下が制服だったから、うちの生徒だってわかった。
「だれだ?お前」
「あ、す、すみません……入部を……」
「入部?」
その人は――たぶん先輩なんだろう――伸ばしっぱなしのような長い前髪をかきあげて僕を見た。
僕も、それでその人の顔がよく見えて、思いがけず綺麗な顔にドキリとした。
「入部希望?」
「はい」
「へえ」
その人は、僕を上から下まで値踏みでもするように眺め回して、ニヤッと笑った。

それが、美術部の部長、三隅(みすみ)さんとの出会いだった。



「工藤君、美術部入ったんだって?」
放課後、廊下で偶然会った前原さんに声をかけられた。
「あ、うん」
「へえ、なんか意外」
「そうかな」
「ううん、意外じゃないか。まあ、柔道部とか空手部とか言われるよりは、よっぽとしっくりくるわね」
「あはは……」
相変わらずの言葉に、苦笑する。
ペンションから帰った僕に、前原さんは何度も電話をくれた。
今日は何を食べたかとか、胃は痛くないかとか。残りの夏休み中、ずっと。
本気で心配してくれるのがよく分かって、最後には彼女のことを本気で姉のように感じてきた。
一度、電話でそう言ってしまった。
『前原さんって、僕の姉さんかなんかみたいだね』
彼女は一瞬、言葉に詰まって、そして大きく吹き出した。
『そうね、本当、そうだわ』
そして最後に、笑いながら、
『お姉さん、葵ちゃんのこと心配なの。身体、大事にしてね』
そう言って電話を切った。
葵ちゃんと言われてちょっとドキッとしたけれど、それはその時だけで、学校で会っても僕のことは『工藤君』と呼ぶ。その辺が前原さんのちゃんとしたところだと思う。
思えば、前原さんにはいつもいつも最悪のところを見られているんだよね。

その前原さんが、きりりとした眉を上げてちょっと声をひそめた。
「でも、美術部っていったら、あの人、いるでしょう?」
「あの人?」
「三隅光司先輩」
「あ……」
いるっていうか、部長です。
「ちょっと変わった人だよね」
「え?何で?」
「何で、って、変わってない?」
「ううん」
変わっている、とっても。
僕の『何で?』は、『何で知っているの?』の意味だ。
けれども、三隅先輩の変人ぶりは、僕が知らなかっただけで、星城学園内ではかなり有名らしかった。
「工藤君は、あんまり噂話とか聞かなさそうだもんねえ」
「うん……上級生のことは、あんまり」
正直、入部するまでこんな人が星城にいることすら知らなかった。
「高校生なのに二科展通ったとか、画廊で有名な作家の贋作売ってるとか、実はハタチだとか、色んな噂があるのよ」
「うん、ちょっとだけ聞いた」
「真偽のほどはともかく、本人が天才肌で飄々としているから、噂も加速していくのよね」
「うん」
「そういえば、モデルの女の子妊娠させたってのもあった」
「えっ?」
僕がギョッとすると、前原さんは慌てて手を振った。
「あ、ごめん、噂だから、ホントかどうかなんてわかんないのよ。でも、変なこと言ったよね。ごめん」
「そんな、噂まであるの?」
「うーん、あの人、綺麗だからファンも多くて、ふられた子が腹いせに言いふらしているって話もあるし……まあ、これはあんまり気持ちいい噂じゃないから、面白半分に言ったのはマズイ。謝るね」
そして、僕の顔を見て
「噂なんて、あてにならないって、私と秋山君の例でもわかるでしょ?」
ニッと笑った。
ドキッとした。
僕たちが夏休みに前原さんの叔父さんのペンションでバイトをしたことは、別に隠してはいなかったからすぐに広まって、前から噂になっていた秋山君と前原さんの『熱愛報道』に拍車をかけていた。
僕も、自分が一緒にペンションに行っていながら、その噂を聞くたびに胸がざわざわしたのだけれと、あまりにあること無いこと言っているのでいつの間にか、噂を訂正する方にまわっていた。
あの夜、前原さんのところに秋山君が行っていたかも知れないって悩んだけど、前原さんがあまりにはっきり『自分と秋山君は何でもない』って断言してくれたので、それを信じることにした。
(……って、僕には、秋山君が誰と付き合おうと、何も言う権利はないんだけどね)
「ねえ、工藤君」
改めて呼びかけられてはっと顔を上げると、小首を傾げた前原さんが、僕の顔を下から覗き込むように見て言った。
「部活でイジメられたりしたら、お姉さんに言うのよ?」
「なっ」
僕は顔に血を上らせてしまった。
「何、言ってんだよ」
あはははと大口をあけて笑いながら、前原さんは教室に戻って行った。
「もう……」
残された僕は、顔をこすって、そして当初の目的を思い出した。
「美術部に行くんだった」




   


「葵ちゃんは、好きな人いるの?」
椅子に凭れて足を投げ出した恰好の三隅さんが突然言って、僕は手にした絵の具箱を落としそうになった。
「な?」
言葉に詰まると、副部長の青木さんが冗談っぽく言った。
「部長、部内でナンパはやめて下さあい」
「そうそう、それでなくてもうちの部、評判悪いんですから」
これは、二年の松浦さん。
「評判、高い、の間違いだろ?それより、ねえどうなの?葵ちゃん」
三隅さんは、椅子から立ち上がって僕のそばに来て後ろから覆い被さってきた。
「や、やめてください」
背中から首に絡みつく腕を払いのけると、
「そうですよ、部長、やめてください」
青木さんや他の部員のみんなが三隅さんを羽交い絞めにするようにして、僕から引き離した。
「なんだよ、お前ら」
「せっかく入って来た新人にセクハラしないでくださいよ」
「そうそう、葵ちゃん、真っ赤じゃないですか」
言われて、僕は頬を撫でた。確かに、熱い。
美術部で、僕はすっかり『葵ちゃん』だ。
初日に三隅さんにそう呼ばれてしまったのが、そのまま定着してしまった。
ちゃん付けはちょっと嫌だけれど、美術部の中ではよくあるらしい。部長ですら同じ三年生からは『ミスミちゃん』とか『ミッちゃん』とか呼ばれている。
文化系クラブらしく、上下の関係は極めてぬるかった。
一年も、三年も、多少の敬語は使いながらも、互いに冗談を言って笑いあっている。その冗談の中心には、いつも部長の三隅さんがいた。
天才肌とか言われていて、当初どんな人だか分からなかったけれど――色々な噂も聞いたし――普段の彼は、綺麗な顔に似合わない、ふざけた人だった。
けれども、三隅さんがカンバスに向かうとみんな息を飲んで静かになった。
僕が初めて部室を訪れた時に見た絵――華やかな色の洪水――は、三隅さんの作品だった。
『サマーガーデン』
強い日差しの中に咲く、生命力に溢れた花々。見る者を圧倒的な力で惹き付ける。
彼が筆をとって色をのせていくたびに、周りからは小さな溜息が漏れた。
でも、それも耳に入らないくらい集中している。
(すごい……)
三隅さんが普段どんなにいいかげんに振舞っても、みんなが尊敬しているのはこの為だ。僕も、尊敬した。
いつか、僕も、こんな風に描きたい。
ううん、題材は違うんだけど。
心の中にある情景を、自分の全ての力で映し出す――そういう経験をしたいと思った。


「ねえねえ、葵ちゃん」
部活が終わって帰ろうとしたら、また三隅さんに声をかけられた。
はっとしたように青木さんや、松浦さんがこっちを見て、
「部長!また」
と叫ぶと、
「逃げるぞ」
三隅さんは僕の腕を取って、駆け出した。
(な、なんで??)
僕は、自分の鞄も道具も持たせてもらえず、うちの部室から遠く離れた特別教室棟まで連れて行かれた。
視聴覚教室の手前の廊下で呆然とする僕の顔を見て、三隅さんは大きく吹き出した。
「な、何なんですか?」
「だって、葵ちゃん、その顔が」
苦しそうに笑う三隅さんに、ちょっとムカっとした。
「顔が、なんですか」
身体を折り曲げて笑っていた三隅さんは、前髪をかきあげて、うつむき加減の上目遣いで言った。
「ぽかんとしてて、すっげ、可愛い」
(う……)
言葉に詰まってしまった。
そして、直後に前原さんの言葉が浮かんだ。
『モデルの女の子妊娠させたってのもあった』
「あ……遊び人、なんだ……」
思わず呟いたら、聞こえたらしく、
「あそ……?」
三隅さんはますます苦しそうに笑った。
僕は踵を返した。
この人といると、調子が狂う。
「あ、おい、待てよ」
「鞄……置いてきてしまったんで」
「そんなの、後で取りに行くから」
強引に僕の腕を引き寄せる。僕は、その腕を振り払った。
人からベタベタさわられるのは、好きじゃない。『あのせい』だとは思いたくないけれど。
「ごめん」
あっさりと三隅さんは手を離した。両掌を軽く上げて『さわらない』って意思表示。
拍子抜けして、僕は三隅さんと向き合う形となった。
黙ってじっと見つめてくるから、落ち着かない。
「何ですか?」
「さっきの質問、答えを貰おうかと思って」

『葵ちゃんは、好きな人いるの?』

顔に血がのぼった。
秋山君の顔が浮かんで、うつむくと
「いるんだ。男?女?」
訊ねられて、はっと顔を上げた。ますますカアッと顔が熱くなる。
「いいなあ、素直な反応」
僕の髪を梳くように撫ぜて言う。
「そういう時、黙ってると、好きな人います。男ですって言ってるようなもんじゃない?」
「そんな……」
僕は、心の中で言い返した。
(好きな人はいるけど……なんで、男だって……)
まるで僕の心を読んだかのように、三隅さんが言った。
「普通、好きな人を男か女かって訊かれたら、驚くか、何言ってんですかって笑い飛ばすか、嫌な顔するだろ?」
(そ、そうなのかな……)
僕は困ってしまって、口も開けないでいた。
「まあ、かまかけただけだけどね。でも、よかった。俺も、性別にはこだわらない主義よ」
「……?」
「ね、俺の恋人にならない?」




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