すすり泣く声が聴こえる。 自分の声なのかと思ったけれど、違った。 高橋君が、泣いている。 僕を抱きながら、高橋君が泣く。 (何で―――?) そう心で呟いて、自分の身勝手さ傲慢さに思い当った。 僕は、高橋君を騙していた。 彼の親友の秋山君を好きだということを、隠して――秋山君の傍にいたくて高橋君を利用していた。 その罰が、これだというのなら甘んじて受けるべきなのかも知れない。 辛くて、悲しいけれど――僕以上に、高橋君が辛そうだった。 僕の脇腹に口づけながら、高橋君が泣いている。 胸が締め付けられた。 『秋山に、知られたくないなら、大人しくしてろよ』 冷たく変わった口調の裏に、高橋君のどれほどの想いがあるのかと思うと、胸が苦しくなって、涙が零れた。 (ごめんね、高橋君……) ぼんやりとした意識の中で、突然下肢に激しい痛みを感じた。 (うっ……) 高橋君の指が、僕の後ろを探る。 (いた、っ……やっ……痛いっ) 叫ぼうとし、唇を噛んで―――そして僕は、最も都合の良い逃避をした――意識を手放すという。 翌朝、目を覚ましたとき、部屋には誰もいなかった。 身体が何となく熱っぽい気がするけれど、僕は、ちゃんとパジャマを着て寝かされていた。 仕事があることを思い出して、はっと身体を起こした時、ドアが開いた。 「工藤君、大丈夫?」 エプロン姿の前原さんが入って来た。 慌てて時計を見ると、もう九時。朝食の時間がとっくに終わっている。 「風邪だって?」 前原さんが、ベッドに寄って 「熱は?」 僕の額に手を当てた。 僕は、無意識にその手を振り払っていた。 前原さんが、ひどく驚いた顔で僕を見た。 僕も、驚いている。 次の瞬間、吐き気が込み上げてきた。 「ぐ……」 喉を詰まらせたように唸ると、前原さんが慌ててゴミ袋を広げる。 「大丈夫?」 僕の背中をさすろうとするのを断って、ビニールの袋に昨日食べたものを戻しながら僕は言った。 「ごめ……触らないで」 「工藤君?」 心配げに見つめる顔がどこか怯えたような表情に変わる。 「うつるといけないから……」 前原さんに言い訳しながら、自分で理由を考える。 風邪じゃない。 けれども、この吐き気は何? 熱っぽいのは昨日の影響かと、昨夜を思い出すと、吐き気がひどくなった。 「私、叔父さん、呼んで来る」 前原さんが、部屋を飛び出していった。 吐き気がおさまった頃、バタバタとオーナーそして前原さん、秋山君が入って来た。その後ろには、高橋君。けれども、僕は誰の姿も目に入らないように目を伏せた。 「大丈夫かい」 オーナーの手が肩に触れただけでも、ゾクリと悪寒が走った。 (これって……) 自分でも信じられなかったけれど、他人に触られる事が気持ち悪いのだとわかった。 「すみません……急に気持ち悪くなって……」 ごまかす言葉を考えながら、そっと身をかわし、 「ひとりで寝ていれば、治りますから……」 僕は布団を引き寄せた。自分を守るバリケードのように。 「そうは行かないよ。病院に行かないと」 「いいえっ」 周りが驚くくらいに強い口調になってしまい、ちょっと気まずくなって付け加える。 「僕、風邪ひくと…よくこうなるんです。そう、風邪、です。寝ていれば、治りますから……」 病院で見ず知らずの医師に撫で回されることを考えると、それも不快だ。誰とも目を合わせずに、懇願した。 「すみません、今日だけ休ませてください。ひとりで……寝ていれば、治ります。ご迷惑お掛けしますけれど……」 「いや……」 オーナーは、心配そうな表情を変えず、それでも僕が頑なに拒んでいるのを見て取って、 「それじゃあ、とにかく、一日様子を見て……もし、酷いようなら救急車だぞ」 後ろを向いて頷いた。前原さんがつられたように頷くのが、目の端に入った。 「すみません」 僕は、布団の中にもぐり込んだ。 秋山君と高橋君に声をかけられるのを恐れたけれど、二人とも何も言わずに出て行った。 一日休んで考えて、結局、僕はペンションのバイトを打ち切って、東京に戻ることにした。 誰とも口を利きたくなかった。 高橋君も秋山君も何も言ってこなかったけれど、たまに僕を窺うように見る視線が痛かった。 (秋山君は、知っているのかな?) 高橋君と、僕の間のこと。 それは無いと信じたかった。 けれども、僕を見つめる秋山君の瞳は、たんに病気を心配しているだけのものとも思えず、居たたまれない気持ちで、僕はオーナーにバイトを辞めたい旨を伝えた。 「しかたないね」 「申し訳ありません」 「いや、こっちこそ、申し訳ないよ。楽しい夏休みに、こんなことになって悪かったね」 「そんな……僕が勝手に、具合を悪くして……すみません」 「また、ぜひ来て欲しいよ」 「はい」 前原さんの『送る』という言葉を振り切って、僕はひとりで駅に立った。 夏休みでなければ、無人に違いない小さな駅。 時間によっては別荘やキャンプ地に向かう人で多少は賑やかになるのだろうけれど、こんな中途半端な時間には、僕以外にホームに人はいなかった。 駅の隣にあるたった一つの売店で、缶コーヒーを買った。 『楽しい夏休みに、こんなこと――−』 オーナーの言葉がよみがえり、胸に刺さった。 そうだ。 本当に、楽しかったのに。 光弾ける銀色の川で、緑の影さす山道で、僕たち四人は楽しい日を過ごした。 初めての接客というバイトすら楽しかった。 (なのに、何で……こうなっちゃったんだろう……) 人に触られて気持ち悪くなったのは、一日だけだった。 最初そうなってしまった時、自分と言う人間の弱さに呆れたものだが、治った今では、人の身体の強靭さに驚く。 次の日にはものを食べ、排泄し、僕の身体は生きるための努力をしている。いや、別に、死にたいなんて思ったわけじゃない。 ただ、あの日だけは……誰の顔も見られず、触れられたくなく、布団の中に蹲ったあの日だけは『この先、生きていけないのではないか』と思ったのだ。 幸いにも、杞憂に終わった。 僕の身体は、今も、このコーヒーを求めるし。 水滴のついた冷たい缶を軽く降って、プルトップを引く。 甘ったるい液体を喉に流し込んで、わざと大きな音をたててゴミ箱に捨てた。 投げ入れた空き缶と一緒に、大切なものを捨てた気がした。 残りの夏休みをだらだらと過ごし、明日は最後の登校日という日になって、突然、高橋君が家に来た。 玄関のドアを開けた僕は、硬直した。 僕以上に、高橋君の表情は固かった。 僕たちは、あれ以来、口をきいていなかった。 その場で二人見つめ合い、時間が過ぎる。沈黙が、痛いほど重くのしかかる。 最初に口を開いたのは、高橋君だった。 「ごめん」 強張った声。 「許してくれなんて、言えないけど……俺……」 青褪めた顔。 「あの後、すぐ、謝りたかったのに……」 突然、高橋君が玄関に膝をついた。土下座するように頭を下げて肩を震わせる。 「ごめんっ。あの日、お前が気を失って、具合悪くなって、俺、どうしていいかわかんなくなって……謝りたかったんだけど、お前、げえげえ吐いてたって聞いて……こわくなって、ごめん。ごめん、葵っ」 堰を切ったように溢れ出す言葉に、苦しそうな嗚咽が混ざる。 「あの時、お前が、俺を見た目が……」 あの時?あの、次の日のこと? 「暗くて……その後、口もきいてもらえなくて……もう、お前に、嫌われたと思ったら、本当に死にたくなって……」 高橋君が、大きな手で自分の口を押さえる。 僕も、思わずしゃがんだ。 「高橋君……」 本当に謝らないといけないのは、僕だ。僕が、高橋君にあんなことをさせてしまった。 「死にたくなって……でも、死ねなかった……」 男らしい顔を歪めて、高橋君が泣いている。 「俺が死んだら、お前と秋山がくっついちまうのかと思ったら……死ねなくて、俺」 (えっ?) 何を言っているの? 「俺、やっぱりお前が好きで、秋山には、取られたくなかったんだ……でも」 「ちょっと、待って」 僕は、高橋君の顔を覗き込むようにして目を合わせた。 「秋山君と、僕が……くっつくなんて、どうして……」 僕の目を見て、高橋君が言った。 「秋山も、お前のこと、好きなんだよ」 僕は、意味が分からずポカンと見つめた。 高橋君は、鼻をすすりあげて、言葉をつなぐ。 「あの日……お前、川に落ちた日……夜、秋山呼び出して、聞いたんだ」 僕の心臓が、突然激しく鼓動を刻む。 「お前たちの雰囲気が、なんか、変わっていて……いや、お前っていうより、あいつが……なんか、お前を見る目が違っている気がして、不安になって……」 心臓が、高鳴る。 「夜中、外に呼び出して聞いたんだよ。お前のこと、好きなのかって……」 目眩がする。 「な、んて……?」 秋山君は、何て応えた? 高橋君は僕の顔を見て、困ったように小さく笑った。以前、ときたま見せた顔。 「違う、って……」 激しく高鳴っていた心臓に、冷水をかけられた気分。すうっと血の気が引いた。 「嘘だ、って、思ったよ。あいつの顔見て……」 高橋君が、うつむいて言う。 「わかるさ。俺は、あいつの親友だぜ。だから、わざと言ったんだ。だったら一晩部屋を空けてくれって……本当に何とも思っていないんなら、俺が、お前をモノにすんのに、協力してくれって」 (嘘……) 秋山君は、知っていて部屋を空けたの? (知っていて……) 「恐かったんだよ。お前を秋山に取られるのが……だから、焦って……お前を俺のものにしたくて……お前が、あの時、秋山の名前呼んだ時、やっぱりって思った。前から、気がついてた。お前の目が、秋山を追いかけているの……でも、ホントには気がつきたくなかったんだ……俺……」 「高橋君……」 頭の中が、混乱している。 秋山君は、違うって言ったんでしょう? 僕のこと、好きじゃないって言ったんでしょう? そして、高橋君が僕を抱こうとすることをわかって、部屋を空けた。 それで、どうして秋山君が、僕を好きなんて言えるんだろう。 「秋山君は、僕のこと……好きなんかじゃないよ」 僕は、昔から、彼には嫌われている。 高橋君は、不思議な表情で僕をじっと見た。 「葵……」 そして、クッと自嘲的に笑った。 「あの時、お前が『言わないでくれ』って言って……よかった、って思った。俺こそ、絶対に秋山にそのこと知らせたくないって思ったんだ。お互いに相手の気持ちがわかったら、くっついちまうだろ?」 「…………」 「でも、不安で……いつか、取られるような気がして……身体だけでも自分のものにしたくて……結局、お前を失っちまったんだよな」 また涙をボロボロと零す高橋君の横顔を見ながら、僕はぼんやり考えた。 『言わないで』 秋山君に自分の気持ちを知られたくなくて、咄嗟に言った。 あの時、僕がそう言わなければ、何か変わっていたのだろうか? 『お願い……絶対、言わないで……』 はっきり秋山君を好きだって言ったら、違っていたんだろうか? (もう、遅い……) 「葵……お前が、俺のこと嫌いになっても……俺は、お前が好きだって……言いたかったんだ。こんなこと言える立場じゃないし、わかってんだけど。明日、学校で顔をあわせる前に、言っておきたかった」 高橋君は、手の甲で涙を拭った。 「お前が、好きなんだ……葵」 高橋君の真摯な瞳に、胸が塞がった。 僕も、真剣に応えないといけないと思った。 今さらだけど、言えなかったことをちゃんと言おう。 「ごめんね、高橋君。謝らないといけないのは、僕の方だ……」 声が、詰まった。 「僕は…高橋君を裏切ってた……僕は……」 鼻の奥が苦しいほど痛くなった。 「僕は、秋山君が好きだったんだよ」 ぼんやりと僕を見返す高橋君の顔が霞んで見えるのは、僕も泣いているのだろう。 「ごめんね……騙して……」 「葵……」 「ごめん」 「……秋山に、言えよ……」 高橋君が微笑んだ。胸が熱くなるほど、優しい顔。 「秋山も、お前のこと……好きだぜ」 僕は、首を振った。 もう、遅いよ。 「改めて、お願い……秋山君には、言わないで」 「葵?」 「もう……」 僕には、そんなことを言える資格は無い。 「もう、いいんだ」 「葵」 「ごめんね。もう、高橋君とは付き合えない……でも、今さら、秋山君に好きだなんて言えないよ」 秋山君の親友を、傷つけた。こんなに、傷つけた。 そして、僕自身も……以前の僕じゃない。 秋山君に好きになってもらえる資格は無い。 「もう、いいんだよ」 僕は、無理して、笑って見せた。 「明日から、また……友達として……やり直したい」 その夜、僕は布団の中で泣いた。 自分の弱さが、恨めしくて。 僕は、あの日から――小学校六年のあの日から――何も、変わっていない。 素直な気持ちを出せずに、結局後悔して、教室で泣いたあの日。 そして、今も。 いつも、いつも、後悔して泣いている。 『言わないで』 あの時、僕がそう言わなかったら、 『言わないから……葵、抱かせろよ』 高橋君だって、あんなこと言わなかったんだ。 僕が、臆病だから……僕が、弱いから……いつもいつも、後悔することになる。 (秋山君……) 彼が、本当に僕を好きだったかどうか、わからない。 高橋君の勘違いだってこともある。 むしろ、そんな気がする。 本当の気持ちは、苦しいくらいに聞きたいけれど――でも、もう僕には、それを問う資格は無い。 秋山君は、何であれ、僕が高橋君に抱かれることをしって、あの夜、部屋からいなくなっていた。 高橋君と僕に、そういうことがあったのを知っている。 もう、僕には、秋山君を好きでいる資格も無い。 |
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