びしょびしょの僕たちを見て、前原さんは目を丸くした。
「どうしたの?」
「工藤が、桃みたいに流れてきたのを拾ってやったんだよ」
秋山君が、ふざけて答えると、
「流れて、って、まさか、溺れたのか?」
先に戻っていた高橋君が、心配そうに僕を見た。
「う、ん……ちょっと、川に落ちて……」
情けない。
「大丈夫か?」
「秋山君が、助けてくれたから……」
そう応えると、高橋君は一瞬眉を寄せて、そして秋山君を振り向いて言った。
「ありがとうな」
「お前に、礼言われる筋合いじゃねえよ」
秋山君は、そっけなく言って高橋君のバケツを覗き込んだ。
「おっ、釣れてんじゃん」
「まあね」
バケツの中には、鈍い銀色に光る魚が二匹泳いでいた。
「お前は?」
訊ねる高橋君に、秋山君は、肩をすくめて見せた。
(あっ……)
「あの、僕のせいで、ごめん」
謝ると、秋山君は白い歯を見せて笑った。
「俺のほうが大物釣ったんだから、俺の勝ちだよ。なっ、高橋」
「オオモノ?」
「川から引きあげるのは、苦労したぜ」
自分のことだと分かって、顔が熱くなった。
高橋君が、ムッとしたように僕に向かって言った。
「何で、川なんか落ちたんだよ?」
「え……岩の上から、下を覗き込んで……」
「ぷ――――っ」
吹き出したのは、前原さんだ。
「うっそ、やだ、可愛い、工藤君、子供みたいーっ」
大笑いする前原さんの頭を、秋山君が軽く小突いた。
「ばぁか、工藤にしてみりゃ生きるか死ぬかだぜ、笑うなよ」
「あっ、ごめん」
ペロッと舌を出して、前原さんが謝った。
「あ、ううん」
僕も慌てて否定する。
仲良さげな二人にちょっと胸は痛んだけれど、それでもこの雰囲気は嫌じゃない。秋山君とも、何となく近づけたような気がした。
「じゃあ、さっさと昼にしようぜ」
高橋君が言って、前原さんがマッチを取り出した。
「新聞紙とって」
「ほら」
「俺の魚は、どうやって焼くんだ?」
「食えるのか?」
「お前なあ」
唐突に賑やかに始まった昼食タイム。僕も前原さんを手伝った。
「焼きそば、開ける?」
「切ったキャベツがあるから、一緒に焼いちゃって」
おにぎりを食べて、焼きそばと焦げたトウモロコシを食べて、そしてちょっと泥臭い魚を皆で笑いながらつついた。
一つ一つは、決してご馳走と言えるものじゃなかったけれど、すごく美味しくて楽しかった。






 夕方の仕事は、テーブルセッティングと配膳。時間帯を変えて二交替で食べに来るお客さんを席に案内する。
接客の経験は無かったけれど、アットホームな雰囲気で気負わずやれたので、これも楽しかった。
「高校生?バイト?」
「はい」
「頑張ってね」
「あっ、ありがとうございます」
普段は人見知りする僕が、こんな風に知らない人と話をするのも不思議な気がした。
それも、昼間からの楽しい雰囲気に酔っているのかも知れない。
溺れかけたことは恥ずかしくてショックだったけれど、秋山君に助けてもらったということに、確かに僕は浮かれていた。



「へえ、可愛いじゃん」
秋山君が、リビングに戻ってきて僕と前原さんを見た。
「お揃いで、姉弟(きょうだい)みたいだぜ」
「でしょう?そうだ、写真撮ってよ、秋山君」
「仕事終わったらな。それにしても男でエプロン似合うヤツ、俺の周りじゃお前くらいだな」
秋山君にじっと見られて、僕は心臓が高鳴ってしまった。
「秋山、サボんなよ」
高橋君に呼ばれて、秋山君は苦笑した。
「はい、はい」
戻っていく後ろ姿をつい追いかけて見てしまうと、こっちを見ていた高橋君と目が合った。
とっさに目を逸らしてそれも変だと慌ててもう一度見たら、高橋君は困ったように小さく笑った。



 その日の夜。疲れてしまって早めに眠っていた僕は、喉の渇きで目を覚ました。
(何時だろう?)
枕もとに置いた腕時計を見ると、夜中の二時に近かった。
明日も早いのだから、水を飲んだらすぐに寝直さないとまずい。
秋山君たちを起こさないようにそっと起き上がって、ギクリとした。
二人のベッドが空だった。
(何で……?)
不思議に思って、ベッドから降りてあたりを見回したけれど、二人の気配はどこにもない。
とりあえず部屋を出て、洗面所に行って水をすくった。ここでは水道水が直接飲めた。
冷たい水で喉を潤して、もう一度、二人を探してみた。
(いない……)
二人でどこかに行ったのかな。
誘ってもらえなかったのは寂しかったけれど、寝てしまったんだから仕方ない。
(どこに行ったのかな……)

秋山君と、高橋君。
小学校からの親友同士。
二人の間には、僕には絶対に入リ込めない絆がある。
高橋君が、羨ましかった。秋山君の親友である高橋君が。

秋山君のことを思うと、昼間のことがよみがえる。
僕を掴んだ秋山君の腕。
シャツを脱いだ秋山君の背中、肩甲骨、太い首。
まざまざとよみがえって、身体が熱くなった。
(馬鹿……)
僕は急いで、ベッドにもぐり込んだ。

その頃二人が何を話しているのかなんて、そのときの僕は、知る由もなかった。


 翌朝、目を覚ましたら二人はベッドに戻っていた。
眠る秋山君の顔に、つい見惚れてしまう。
高い鼻梁、意外に厚い唇、男らしく太い眉毛の下の長い睫毛。
こんな風に秋山君の寝顔を見るなんて、今までなら考えられなかった。それだけでも、幸せかもしれない。バイトにきて良かった。昨日から急速に秋山君との距離が縮まっている気がする。

ピピピピピピピピピピピ………

突然、電子音が鳴った。目覚し時計だ。
僕は慌てて秋山君から目を逸らして、ベッドサイドのテーブルの上の目覚まし時計を止めた。
「うう……もう、朝か……」
高橋君が、もぞもぞと布団の中で動いた。
「…………はよ」
秋山君も、起き上がった。
「ペンションの朝は、早い……」
身体を起こして独り言を言っている。
「おはよう、葵」
「おはよう、高橋君……秋山君」
「はよ」
「さて、今日も働くか」
二人は眠そうな顔をしながらも機敏にベッドから出た。秋山君は、タオルを掴んでさっさと洗面所に行く。僕も、ぼおっとしている場合じゃなかった。
昨日、二人がどこに消えていたのかは、気にならない訳ではなかったけれど、わざわざ聞くことも出来なかった。関係ないって言われるのがこわかったし、その上、すぐに忙しくなって、訊ねるきっかけも失っていた。








 朝と夜、初日と同じように仕事して、昼間は、川に行ったり山道を歩いたり。
僕たち四人の夏は、あっという間に一週間が過ぎた。
二人がいなくなったのは最初の晩だけで、その後は、夜の仕事が終わってからも、前原さんも入れた四人でトランプをしたり、オーナーやお客さんの輪の中に混ざって怖い話を聞いたりして、皆で楽しく過ごした。

その夜も、ラウンジでおしゃべりした後、遅い時間に部屋に戻った。
ちょっとだけならいいだろうとビールを飲まされていて、おかげですごく眠たかった。
ベッドに入ってすぐにうとうとしたのだけれど、何か柔らかなものが顔に当たる感触に目が覚めた。
目の前に人の影があって大声を出しかけると、掌で口を塞がれた。
「しっ。静かにしてくれよ」
(高橋君……)
僕の口を塞いでいるのは、高橋君だった。
(何?)
目を見開いて見つめると、高橋君はもう片方の手で、ゆっくりと僕の髪を撫でた。
「たのむから、大声出さないでくれよ、葵」
僕は、何が起きているのか分からず、金縛りにあったように動けず、ただ高橋君をじっと見た。
高橋君の唇が、瞼の上に降りてきた。
「葵……」
溜息のように囁いて、僕の顔にキスを降らす。
「た、かはし……くん」
僕は、ゆっくり金縛りがとれ、自分の置かれている状況を理解した。
やんわりと押し戻そうとしたら、かえってきつく抱きしめられた。
「だ、だめだよ……高橋君」
心臓が早鐘のように鳴る。
「葵、好きなんだ、たのむ……」
「だめ」
今度は、僕も力いっぱい身体を捩ったけれど、力の差は歴然としていて身動き取れない。
(秋山君は?!)
僕は、この状況を秋山君に見られたらという恐怖に慄いた。
「だめだよ、秋山君が……」
僕が声を震わせると、高橋君が言った。
「あいつは、今、前原のところに行ってるよ」
(前原さん?)
秋山君が、前原さんのところに……それは、あの二人も、今……?
僕が、自分の想像で呆然とした隙に、高橋君の唇が僕のそれを塞いだ。
「んっ……」
性急にねじ込まれた舌が、僕の舌を絡め取る。
痛いくらいに吸われて、僕は、こわくなった。
(やめて!)
「ん…んんっ……う」
両手を突っぱろうとしても、高橋君の体重に、ベッドに押さえつけられたままだ。
(いやだ!やめて!やめて――!)
高橋君の舌は、それ自体が生き物のように僕の口の中を動いて、上あごや歯の裏を刺激する。初めての感触が気持ち悪くて、息苦しくて、僕は涙が出てきた。
(やめて)
高橋君の手が、僕のパジャマのボタンをはずす。
上半身が肌蹴られ、僕は身震いした。
僕の上に馬乗りになったまま、高橋君は唇を離すと、僕の裸の胸をじっと見た。
「綺麗だ、葵。おんなじ男だなんて思えない」
掌が、僕の胸の上を滑る。
「いやだ……」
僕は、呟いた。けれど、声がかすれて言葉にならなかった。

高橋君の唇が僕の胸に降りて、敏感な部分を舌で転がされた。
「やめっ」
高橋君の手がパジャマのズボンに滑り込んできたとき、僕は無意識に叫んでいた。

「いやだっ、秋山君っ、助けて」

あの、溺れた日に川で彼の名前を叫んだように、僕は必死に秋山君を呼んだ。
「秋山君っ!」
はっと気がつくと、高橋君が僕を見下ろしていた。
青褪めたように見えるのは、周りが暗いせいじゃない。
「おまえ……」
ゾクッと背中が震えた。

「お前、秋山のことが、好きなのか?」


頭の中が、パニックを起こしている。
ぐるぐると―――秋山君の顔が、前原さんの顔が、そして目の前のこわばった高橋君の顔が―――ぐるぐるぐるぐる、回っている。


「言わないで!」

僕は、そう言って高橋君の腕を掴んだ。
僕は、秋山君に嫌われていた。
やっと、友達らしくなったのに、こんなことがばれたら――僕が秋山君のことを好きだなんて知られたら――また、嫌われてしまう。
「お願い……絶対、言わないで……」
この言葉は、高橋君の言葉を肯定していることだった。
高橋君は、じっと僕を見た。
暗い瞳だった。
今まで見たことのない、冷たい瞳だった。
僕は、ようやく自分の言ったことの意味に気がついて、血の気が引いた。
最悪の形で、高橋君に告げてしまった。
「あ……」
僕が、掴んでいた手を離すと、今度は、高橋君が僕の腕を掴んだ。

「……言わないよ」

この冷たく低い声は、一体、誰の声?
「言わないから……葵、抱かせろよ」
(え?)
「秋山に、知られたくないなら、大人しくしてろよ」
高橋君が、僕に覆い被さった。

(知られたくないなら―――)

知られたくない、絶対。

(……なら、大人しくしてろよ)

僕は、自分の身体を這う高橋君の唇の感触をひどく遠くに感じながら、薄暗い天井を見つめた。

(秋山君……)





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