八月のお盆を中心にした二週間。これが僕たちが山梨でバイトをする期間だった。バイトといっても前原さんの言ったとおり、働くのは朝夕あわせてせいぜい三時間。
「後は、好きに遊んでいいよ。この辺は魚も釣れるし、道具なら貸してあげるから」
前原さんの叔父さんはまだ三十代の若々しい人で、脱サラと聞いてくたびれたサラリーマン風を想像していた僕は、考えを改めさせられた。
「ああ、でも、お盆に入ると釣れなくなるから、今のうちかな」
よく日に焼けた顔と短く刈った髪が印象的だ。その奥さんも、活発そうな人だった。
「じゃあ、翔子ちゃんと工藤君…だったっけ?」
「はい」
「二人は、私と一緒にこっちを手伝って」
奥さんに連れられて、厨房のある部屋に入った。
「私がここから皿を出すから、二人は、それをテーブルに運んでね」
「はい」
「難しい決まりは無いけど……接客のバイトしたことある?」
「いいえ、すみません」
奥さんの質問に首を振ると、すかさず前原さんが、
「大丈夫よ、私が教えてあげるから」
僕の腕を取って言った。奥さんはクスクス笑って
「じゃあ、翔子ちゃんにお願いするわね」
シャツとエプロンを二組ポンと投げてよこした。
まっ白なシャツに、エプロンは紺、ペンションの名前と犬の絵が入っている。
「下は持って来てくれているのよね」
「はい」
ジーパンや短パンでない、接客用のズボン、出来れば黒で―――事前に前原さんに言われて持参済み。前原さんも黒のスカートを持ってきていた。
「何か、ペアルックだね」
へへへと前原さんが言ったら、奥さんが笑った。
「ごめんね、翔子ちゃん、朝と夜は私もその恰好だから『ペア』じゃないわ」
「ちぇー、でも一緒に写真とろうね、工藤君」
「う、うん……」
前原さんはいつも以上に明るくはしゃいでいて、僕はここが学校じゃなくてリゾート地なんだと改めて意識した。


「ひいいぃ、疲れた」
高橋君と秋山君がリビングに戻って来たとき、僕たちは奥さんの入れてくれたコーヒーを飲んでいた。
「お先に〜」
前原さんが言うと、秋山君が
「俺もそっちがよかったよ」
と、その隣に腰掛けた。たったそれだけのことなのに、ドキッとした。
並んで座る二人が、あまりに自然に見えたから。
高橋君が、僕の隣に座ると、奥さんが二人にもコーヒーを出してくれた。
「お疲れさま。後は夜までゆっくりしてね」
「もう働いてきたの?」コーヒーを両手で持って、前原さんが尋ねる。
「ベッドメイキングだけ、ね」
「それが、結構大変でさ」
「やったことないからな」
「うち布団だし」
肩を回しながら言って、高橋君は、突然僕に向き直った。
「葵の方は?」
「え?」
「仕事、大丈夫そうか?」
「大丈夫だよ、僕の方は、力仕事じゃないし」
応えると、
「そっか」
高橋君は、白い八重歯を覗かせて笑った。

「この後、どうする?」
前原さんが言った。
今はまだ午前中。本当の仕事は夜からだから、時間はたっぷりあった。
「お昼食べたら、川に行かない?」
「釣り?」
「釣れるか?」
「釣れたら、焼いて食おうぜ」
瞳を輝かせる秋山君の笑顔が、小学生の頃を思い出させた。
休み時間のたびに見惚れた顔だ。
「そう簡単に、釣れるかな?」
コーヒーに口をつけながら目で笑った高橋君に、
「競争するか?」
秋山君が言った。
「いいぜ?何を賭ける?」
高橋君が、カップを置いて応えると、瞬間、秋山君の顔が真面目なものに変わった。
「な、何だよ?」
あまりにはっきりと表情が変わったので、高橋君が驚いたようだった。僕も、驚いたけれど。
「やっ、いいや……」
すぐに秋山君はもとのいたずらっ子のような表情になって
「宿題全部、って言おうとしたんだけど、お前に解かせると大半間違ってそうだし、やっぱ自分でやるわ」
「何だよ、それ」
高橋君が下唇を突き出した。
「じゃあ、私、叔父さんに釣り道具借りてくるね」
コーヒーを飲み終わった前原さんが立ち上がった。
「じゃ、十五分後に玄関、な」
「オッケー」
そして僕たちは、それぞれ準備して、ペンションから歩いて三十分の川に行った。



「ようし、じゃあ競争だぜ、秋山」
高橋君が、釣竿を伸ばしながら言うと、
「跪かせてやるぜぇ、俺の足元に」
秋山君が不敵に応える。
こんな時、この二人は本当に仲がいいって感じる。
僕は、ほんの少し寂しい気もしたけれど、それでもこの四人で川遊びに来ているというのは、楽しいことだった。
「じゃあ、私たちはここで魚を焼く準備をしているわね」
前原さんの言葉に、驚いた。
「魚って、ここで焼くの?」
「工藤君、どこで焼くつもりだったの?」
「ペンションに帰って……」
「また三十分歩いて?重たいバケツ、持って帰るの?」
「そんなに、釣れないと思って」
僕が言うと、高橋君が情けない声を出した。
「葵〜っ、そんな酷いこと……」
秋山君は、ケラケラと声を上げて笑った。
「あっ、ごめん」
「工藤をあっと言わせてやろうぜ」
秋山君の微笑む顔に、ドキッとする。
「そうだな。見てろよ、葵」
「私もそんなに釣れるとは思ってないわよ。工藤君、正解。私が重いって言ったのは水のことだもの」
「言ってろよ」
「よし、じゃあ、二時間後な」
高橋君と秋山君は、それぞれ別々の方向に歩いて行った。


「じゃあ、私たちは枯れ木を集めよう」
「うん」
「水辺だから、湿ってないの探すの、結構大変よ」
「分かった、でも、本当にそんなに釣れると思う?」
訊ねると、前原さんは破顔した。
「だから、さっきから『釣れない』って言ってるじゃない」
「でも、焼く準備はするんだ」
「焼くものは持ってきているわよ」
背負っていたバックの中から、ビニールに入ったとうもろこしが出てきた。
「おにぎりだけじゃ、さみしいでしょ?」
「そんなの、持ってきていたんだ」
「焼きそばもあるよん」
「……重かったでしょ?ごめん」
全然、気が付かなかった。僕は、お弁当だと言って皆の分のおにぎりを持っただけで、とうもろこしなんて重いもの女の子の前原さんに持たせていたんだ。
「ごめんね。本当に」
繰り返して言うと、前原さんはまた明るく笑った。
「いいわよ、全然、重くなかったもん。それに、工藤君より、私のほうが体力ありそうだしね」
「そんな……」
さすがに、女の子にも負けると言われるのは辛い。
「じゃ、悪いと思ったら、張り切って薪になるもの、拾って来て」
「うん、わかった」
僕は立ち上がって、パンパンと尻を払うと、石で不安定な足元を気にしながら山の方に歩いた。


川沿いになだらかな斜面があり、木もたくさんあったけれど、どれも生木で薪には向かなさそうだ。
ふと下を見ると、川にせり出した大きな岩の上に、誰かが焚き火をした跡があった。
使わなかった薪がそのままになっている。燃え残った薪も良い感じに墨になっている。
(あれって、そのまま使えるかな)
ゆっくりと斜面を下って、岩の上に立つと、爽やかな風が吹いて気持ちよかった。
ここで焚き火をしようとした人たちの気持ちが分かる。
川の上にせり出した高台。ここで食事したら爽快だろう。
下がどう見えるのかなと、身体を乗り出して覗き込んだら、意外に川の色が深くてびっくりした。その瞬間、身体がグラッと揺れた。
(嘘っ!!)
あろうことか、そのままバランスを崩して川に落ちてしまった。
「うっそ……」
必死に浮かび上がって、岩に手をかけたけれど、その後はどうしようもなかった。
昔から運動音痴の僕は、泳ぎも駄目だった。
岩に捉まったまま、そっと足を伸ばして探ってみたけれど、何も当たらない。
(結構、深いのかも……)
ぞっとした。
こんな所で誰も見つけてくれなかったら、僕はどうなるんだろう。
「いやだ……」
つぶやいた時に、頭上で枝の折れる音がした。
(誰か来た?)
顔を上げると、
「工藤?」
秋山君が、目を見開いている。
「何、してんだよ?」
訊ねられても、応えられない。
あんまり自分が間抜けで。
黙って、じっと見つめると
「落ちたのか?」
ふっと笑って、秋山君が右手を差し出した。
目の前に、秋山君の手がある。
でも、僕はその手がつかめなかった。
恥ずかしくて。

大好きな秋山君の手が―――眩しすぎて、つかめない。


僕が固まっていると、秋山君はゆっくり手を引っ込めた。
そして、言った。
「高橋、呼んで来ようか?」
「ちがっ」
僕は、思わず叫んだ。
「違うよ、秋山君、そうじゃない。僕はっ」
両手を秋山君に伸ばして、その途端、身体が沈んだ。
「やっ…」
「工藤っ」
秋山君が、僕の手を掴む。
僕は、必死にすがりついた。
「あっ、バカ、工藤」
溺れるかもという恐怖心で、僕はちょっとパニックを起こしていた。
「わっ」
秋山君まで、川の中に落とした。
「暴れるなよ、ほら」
「や…だ。秋山君っ、秋山君っ」
水の中で僕を支える秋山君にしがみ付く、それからのことはよく覚えていない。





 気が付いたら、僕はさっきの岩からずい分下流の川岸に、引き上げられていた。


「げほっ、げほっ」
川の水が、鼻からも口からも出て、気持ち悪い。
「暴れるから、水、飲むんだよ」
秋山君がハンドタオルを投げてよこした。それも濡れていたけれど、固く絞ってあったから、顔を拭くのには良かった。
「なんか、うちの猫を初めて風呂に入れたときみたいな暴れ方だったな」
クックッと秋山君が笑う。
恥ずかしい。
穴があったら入りたいとはこのことだ。
「ほら、シャツ脱げよ。ビショビョじゃねぇか」
自分もTシャツを脱いで絞って着直しながら、秋山君が言った。
綺麗に筋肉のついた腕や肩甲骨が動く様子に、思わず見惚れた。
「絞ってやるよ、お前、握力もなさそうだしな」
僕のTシャツを両手で絞りながら、
「ああ、でもさっきの力は結構強かったよな、あれ、火事場の何とかって言うやつか」
笑いながら振り返った。
Tシャツを差し出した秋山君が、そのまま止まった。
僕も、ぼんやりと秋山君を見つめ返した。
はっとしたように、秋山君が僕に絞ったTシャツを投げつけた。
「さっさと、着ろよ」
「う、うん……」
僕がもそもそとシャツを着るのを待ちかねたように、秋山君が立ち上がった。
「戻るぞ」
「あ、釣り道具……」
さっきの岩の上に置きっぱなしのはずだ。
「後で取りに行くからいいよ」
「でも……」
「お前、元の場所に独りで帰れるか?」
「たぶん、大丈夫だよ」
うつむいて応えたら、
「嘘、つけよ」
秋山君が、僕の腕を引いた。
「どっちに歩こうとした?こっちだよ。もう間違ってんだろ」
「あ、ごめん」
「世話焼けるヤツだぜ」
「ごめんね」
「あやまんなよ」
「ごめん」
「バカ」
「うん」

 そうして、前原さんの待つ上流に着くまでの間、僕はふわふわとした現実感のない時を過ごした。




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