「俺のこと、騙していたんだな」
高橋くんが、暗い瞳で僕を見つめる。
「酷い奴……俺を利用したんだな」
(高橋君……)
「お前は、秋山の傍にいたくて、俺を利用したんだろう?」
「違う」
「違わない」
「違うよ……」
「違わない。だって、お前は、秋山が、好きなんだろう」
高橋君が、僕を見つめて、顔を歪める。
「俺のこと、好きでもないのに付き合って……都合のいい時ばかり、利用したんだ」

(違う、違う、違う――――――)

「酷い奴だ、葵」

(高橋君―――――)


「違う……」
自分の声で目が覚めた。
喉が乾いて、痛い。
(夢……)
起き上がると、汗でぐっしょり濡れたパジャマが身体にまとわりついて気持ち悪かった。
髪の毛も、額に貼りついている。

『俺のこと、騙していたんだな』
『酷い奴だ、葵』

(高橋君……)
夢の中の声が、生々しく耳に残っている。
夢の中の僕は『違う』と言っていたけれど、実際は高橋君の言うとおりだ。
僕は、秋山君の傍にいたくて―――高橋君を、利用したんだ。
自己嫌悪で、吐き気がする。
シャワーを浴びようと部屋を出て、お風呂場に行く途中、リビングのカウンターにメモがあった。

《高橋君から、電話がありました。
これから山本さんの所に行って来ますから、朝ご飯は、冷蔵庫のものを勝手に食べること。
アイス冷凍庫にあります。  母》

リビングの時計を見たら、十時だった。
そんなに寝ていたんだ。

高橋君から、電話がありました。

何時頃だろう?
お母さんが起こしに来なかったってことは、だぶん、高橋君がいいって言ったんだ。

『まだ寝ているんですよ、今、起こしてきますね』
『あっ、いいです、また電話しますから……』

声が聞こえるようだ。
(どうしよう……)
本当なら、折り返しかけるべきなんだろう。
でも、何て言って?
夢の中の、高橋君の顔が浮かんだ。
『酷い奴だ……』
そして、夢の中で謝らなかった僕。
ごめんね、高橋君。
(月曜日に会ったら、ちゃんと言うから……秋山君への思いは告げられなくても……)
高橋君には、ちゃんと断らないと。
僕は、メモをごみ箱に捨てて、お風呂場に行った。


シャワーを浴び終わって、いくぶんすっきりした頭で台所に立つと、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
何も考えずにドアを開けて、息を飲んだ。
「葵……」
こわばった顔の高橋君が、立っていた。
僕は、言葉も出ず、ただじっと見つめた。
「ごめんっ」
高橋君が身体を折り曲げるようにして謝った。
「あ……」
謝られて、不意を突かれた。
(謝らなきゃいけないのは、僕なのに……)
「ごめん、葵。俺、どうかしていたんだ。許してくれ、頼む」
頭を下げたまま矢継ぎ早に言う高橋君に、僕は慌てた。
「まっ、待って……高橋君、謝らないと、いけないのは……」
高橋君が、顔を上げた。
「僕の……ほう……」
僕の言葉が終わらないうちに、高橋君が嬉しそうに笑った。白い八重歯が覗く。
「葵っ」
抱きしめられた。
高橋君の匂い。
僕をすっぽりと包む、温かな広い胸。
昨日の夜、疎ましく思った身体が、今朝は何故か心地よい。
(だめだ……)
僕は、ぼんやりと思った。
さっきの高橋君の笑顔が、夢の中の彼とあまりに違って、僕は、ホッとしている。
僕に謝る高橋君に、そして、僕の一言でこんなにも素直に喜んでくれる高橋君に、僕は、ホッとしている。
(言おうと思ったのに……)
ちゃんと言わないといけないって、思ったのに……この胸の温かさが、あの笑顔が、僕の決心を簡単に鈍らせる。
「ごめんな、葵、俺……」
「高橋君……」
僕は、ゆっくり顔を上げた。
「俺、お前に嫌われたんじゃないかって思ったら、死にそうになった」
微笑む瞳に、胸が塞がる。
「俺のこと、嫌わないでくれよ」
「……嫌いじゃないよ……」
「よかった……葵」
「…………」
嫌いじゃないよ。嫌いじゃないから、こんなに苦しいんだ。
でも、苦しいだけじゃない。
この感情は―――――







月曜日以降も、僕たちは今まで通りだった。
僕は、高橋君に対する気持ちを自分でも持て余しながら、流されるように日々過ごしていた。
(流されている―――)
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
高橋君の優しさに守られながら、大好きな秋山君の傍にいる。
三人で過ごす毎日は、ほんの少しの後ろめたさを引き摺りながら、それでも次第に居心地よくなっていった。

そんなある日、その噂を聞いた。

「秋山って、隣のクラスの前原翔子とつきあってるって?」
昼休みの教室、高橋君に尋ねたのは北沢君だった。人懐っこい丸顔の、噂好きのクラスメイト。秋山君がいないときを狙ってわざわざ聞きに来た。
「えっ、ああ……そうなのかな」
「なんだよ、高橋、聞いてないのか?」
北沢君が、意外そうに細い目を見開いた。
「親友のお前が、知らないなんてな」
「あいつ、あんまりそういう話はしないから」
「ふうん……田中が、見たって言うんだよね。それに一時期、秋山って隣によく行ってたよな」
「ああ」
「なんかわかったら、教えてくれよ」
北沢君の言葉に、高橋君は苦笑する。
僕はその間、頭の中でグルグルと考えていた。
(秋山君が……前原さんと……)

あまりにもいいタイミングで、廊下側の窓から声がした。
「工藤君」
廊下から、前原さんが覗いている。
北沢君は、舌をぺろりと出して離れて行った。
「工藤君ってば」
重ねて呼ばれて、僕は立ち上がった。
のろのろと歩く足が重かった。
(秋山君が、前原さんと……つきあっている?)
「今日は、カップケーキ作ってきたのよ」
いつものように綺麗にラッピングされたセロファンのなかに、金色のケーキが入っていた。
「はい」
差し出されたそれを受け取りながら、お礼を言うのも忘れて僕は前原さんを見つめた。
前原さんは小首を傾げてくっきりした眉を上げた。
「何?」
「あ……」
口を開こうとして、
「なんだよ、また何か作って来たのか?」
前原さんの後ろから声をかけてきた秋山君に、ビクッとした。
「あら」
前原さんが振り返って
「今日は、秋山君にもあるのよ」
窓の下に隠れていた左手を持ち上げた。
コンビニのビニール袋のような入れものが、パンパンに膨らんでいる。
「おっ」
秋山君がそれを受け取り、中から一つ取り出した。
「何だよ、はじけてんじゃん」
てっぺんがパックリ割れたカップケーキ。
前原さんはクスクス笑った。
「だって、秋山君はお腹にたまればいいって言っていたじゃない」
「俺は、失敗作の処分係かよ」
二つ、三つ取り出して、顔を顰める。
「味は、変わらないわよ」

僕は、そのやりとりに再びショックを受けていた。
いつのまに、この二人は、こんなに仲良くなったんだろう。
「何だよ、俺も混ぜてくれよ」
高橋君がやって来た。
「ほら、高橋」
秋山君が、手に持っていたケーキを高橋君に投げた。
パシッと片手で受けて、高橋君がそれを見る。
「もう、食べ物、投げるんじゃないわよ」
「あ、食いモンだったっけか?」
とぼけたように言う秋山君を、前原さんが軽く小突いた。
前原さんの手が秋山君の胸に触れたとき、ズキンと胸が痛んだ。
(いつのまに……この二人は……)



翌日、僕は隣のクラスに前原さんを訪ねた。
カップケーキの感想を伝えるためだ。これは、中学二年からの習慣。
初めて作ってきてもらった時には、何か買ってお返しをしようとしたんだけど『そんなのいらないから感想を言って欲しい』と言われたんだ。
それ以来、僕は食べた次の日に前原さんにお礼と感想を言っている。
前原さんは、僕の口下手な表現でも一生懸命嬉しそうに聞いてくれるから、僕も出来るだけちゃんと感想を言おうと思っている。
廊下から教室を覗くと、ちょうど前原さんが顔を上げて、こっちを見た。
ニッコリ笑って出てきた。
「これから図書室に本を返しに行こうと思っていたの。歩きながら話さない?」
「あっ、いいよ」
僕は、自分のポケットを探った。定期入れの中に閲覧カードも入っている。
「僕も、借りたいものがあったんだ」


渡り廊下を歩きながら、ケーキの話。前原さんは、嬉しそうにうなずいている。
その横顔を盗み見ながら、僕は色々なことに気がついた。
中学までは同じくらいの背だったのに、今は、僕の方が高い。これは、僕の身長が伸びたってことだ。髪の毛はずっとおかっぱだったのを伸ばしていて、今は肩の下まである。流行の色に染めたりしないで、真っ黒で真っ直ぐなその艶々した髪の毛は、前原さんによく合っている。
くっきりした眉も大きな瞳も、意志の強そうな口許も、誰が見ても美人というだろう。
(前原さんが、秋山君と……)
そう思ったらたまらなくなって、つい口に出してしまった。
僕には珍しいことだけれど、何故か前原さんとはこういう話が普通にできた。
初めて会ったのが一番かっこ悪いところだったからかも知れない。
「前原さんって、秋山君と、付き合ってるの?」
前原さんは、立ち止まって目を瞠った。
「何で?」
「噂を、聞いて……」
「ふうん」
前原さんは、肯定も否定もしなかった。
僕は、審判を待つようにうなだれてその場に佇んだ。
「付き合っているって言ったら?」
その言葉にはっと顔を上げると、前原さんはニッと笑った。
「なーんちゃってね。嘘、嘘、付き合ってなんかないわよ。だださ、あいつとは同士っていうか」
「同士?」
不思議な言葉に聞き返したら、前原さんは、しまったという顔をした。
「えっと……似たもの、同士?いや、似てないって」
自分で言って笑っている。
「似たもの……」
僕は口の中で呟いて、そして言った。
「そうだね、二人とも、よく似ている」
「ええっ?」
自分で言ったのに、前原さんは変な声を上げた。
「似てる?あいつと?どこがぁ?」
「えっ、どこって……」
僕は、前原さんの顔を見ながら、その向こうに秋山君の顔を浮かべて応えた。
「明るくてはっきりしていて、何でも出来て、皆から好かれていて……」
「やだ!やめてよ」
前原さんが、僕の背中をバンと叩いた。
「まあ、そうね、私はね。でも、あいつはそうじゃないわ……あっ、普通、言うこと逆?」
ふざけたように言って、また歩き出す。
僕も並んで歩きながら、少し笑った。
付き合っているわけじゃないというのが、嬉しかった。

けれども、その後にやって来た夏休み、僕たちはダブルデートのように一緒に過ごすことになった。










「山梨のペンション?」
「うん。叔父さん夫婦が今年から脱サラしてペンション始めてね。夏休みのピークのところだけ、人手が欲しいって言うのよ」
前原さんの言葉に、秋山君と高橋君が顔を見合わせた。
「ちょっとだけど、バイト代も出すって」
「何するの?」
高橋君が訪ねる。
「主に、朝と夜ご飯の配膳と、ベッドメイクね。お布団の上げ下ろしが力いるから、男の子がいいって」
「力って……」
高橋君と秋山君が、同時に僕を見た。二人の言いたいことはわかる。
前原さんにも、わかったみたいだ。
「工藤君は、私と一緒に配膳すればいいわよ。コーヒー運んだり……喜ばれるんじゃないかなあ、女子大生のお姉さまたちに」
前原さんの言葉に、高橋君が顔を顰めた。
「冗談よ、そんな顔しないでよ。っていうか、なんで君がムッとするのよ。でね、朝と夜だけ働いてくれれば、昼間は好きに遊んでいいって言ってるんだけど」
次々出てくる前原さんの言葉にぼうっとしていると、秋山君が言った。
「バイト代っていくら?」
「時給千円ってとこかな。でも、一日三時間くらいしか働かないから、お金にはならないよ」
「メシ付きだよな」
「もちろん」
「だったらいいぜ、俺はどうせヒマだし」
「よかった」
そして僕たちを見た。
「工藤君は?」
僕はとっさに応えた。
「うん、僕も、大丈夫」
秋山君が、行くって言っている。
それも、前原さんの叔父さんのペンション。
僕たちが断ったら二人だけで行くかもしれない。
とっさにそこまで考えている僕は、嫌なやつだ。
「葵が行くんなら、俺もいくよ」
高橋君が言って、
「よかった〜。頼まれたんだけど、皆、もう予定はいってそうで、実は不安だったのよね」
前原さんは口を大きく開いて笑った。
「あなたたちがヒマで、ほんと助かった」
「悪かったな、ヒマで」
「秋山君が、自分で言ったんじゃない」
「自分で言うのと、人から言われんのは違うんだよ」
愉しそうに会話する二人に、胸がチリチリした。
付き合ってないって言ったのに――――
(ひょっとしたら、夏の間、こういう場面を見続けることになるのかな……)




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